ゆりわか大じん ①
日暮小太郎
寛文二年壬寅二月吉日
八文字屋八左衛門
日暮小太夫は、万治~寛文の頃(1600年代後半)に活躍した説経太夫である。
本稿は、寛文2年(1662年)刊行の正本を用いる(説経正本集第2-27)
なお、この底本には欠頁があるため、同じ説経正本集第2に収録されている幸若小八郎正本「大臣」(慶長14年)を用いて、話を補う部分がある。
いかに、完全な謀略といえども、神を欺くことはできません。ついには、神明がこれ
を罰するのです。正直は、その時は自分に不利であっても、必ず日月の哀れみを受けるものです。
ここに、本朝五十二代、嵯峨天皇の御代のことです。(786年~842年)四條の左
大臣公満(きんみつ)卿のご子息、百合若大臣公行(きんゆき)という方がおりました。
大臣は、和漢の道は言うに及ばず、文武両道を兼ね備え、天下に肩を並べる人はありま
せんでした。そもそも大臣は、大和の国長谷寺(奈良県桜井市初瀬)の申し子でいらっしゃいます。
夏の半ばにお生まれになったので、百合若殿と名付けられました。七歳にして元服され、
十七歳には正一位右大臣に補されて百合若大臣と号されたのでした。御台所は、三条壬生
の大納言章時(あきとき)卿の姫君です。その夫婦仲の睦まじさは、世に浅からずと聞
こえておりました。
ある時、帝より、九州の国司を命ぜられ、豊後(大分県)の国に赴任されました。
民を哀れみ慈悲をもって治めましたので、領民の信頼も厚く、平和に暮らしておりました。
さてその頃、蒙古国の蒙古(むくり)どもが、我が朝の仏法を妨げ、魔王の国にしよ
うと蜂起したとの知らせが、続々と都に届きました。公卿大臣が集まり、善後策を協議
しますが、まとまりません。その時、源享(みなもとのとおる)大臣は、
「それ、我が朝は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)よりこの方、神国として仏法
王法一体無二であり、車の両輪のようなものである。されば、イザナギ、イザナミの尊
は、伊勢渡会(わたらい:三重県中東部)の郡、山田(伊勢市宇治)に跡を垂れ、衆生
の済度をなされた。これこそ、慈悲の眦(まなじり)が三千世界を照らす、天照皇大神
宮(てんしょうこうだいじんぐう)である。大神宮へ勅使を立てられ、蒙古が有様を神
託に任せてはいかがか。」
と、故事を用いて申し上げれば、帝ももっともとお思いになり、直ちに大神宮へ勅使
が立ったのでした。
さて、宣旨を受けた伊勢神宮では、さっそくに神楽を奏で、占いますと、有り難い事
に、神明(天照大神)は、七歳になる乙女の袖に乗り移り、鈴を振り上げて、神託が
下されました。
「蒙古が日本に向かった日より、神々は、高天原(たかまがはら)に集まって、いくさ
評定を様々行ったが、蒙古の大将「りょうそう」が放つ毒矢が、住吉明神が召したる
神馬の足に突き立ったため、この傷を治すために、神いくさは、一時延期となっている。
その為、九夷(きゅうい)どもは、力を得たりとばかりに攻め入って来るが、それも、
風が吹かぬ間の花のようなものである。急ぎ、凡夫も戦いの準備を調え、諸神もこれを
応援し守るべき。今度の大将には、左大臣が嫡子、百合若大臣を遣わし、鉄(くろがね)
の弓矢を用意せよ。急げ、急げ。」
この神託を聞いた勅使は、奇異の思いをしながらも、いよいよ深く礼拝すると、都へ戻
り、神託をつぶさに奏聞しました。
これを聞いた帝は、早速に勅使を、豊後の百合若大臣へ送り、蒙古征伐の総大将を命じたのでした。
大臣は、勅命を受けると、先ず家の家臣である別府兄弟を召されると、
「如何に兄弟。蒙古征伐の勅諚(ちょくじょう)が下った。先ず、軍勢を集め、船を用
意せよ。それから、鉄(くろがね)の弓矢を作ることができる鍛冶の名人を捜すのだ。」
と言いました。やがて、伯耆(ほうき:鳥取県中西部)の国から名鍛冶が招かれ、一所
を清めて仕事を始めました。その鉄の弓の長さは八尺六寸(約2.8m)、矢柄(やが
ら)は三尺六寸(約1.2m)羽周りは六寸二分(約20cm)、その矢数三百六十三本でした。
根には、八つ目の鏑(かぶら)を入れ、弓も矢も鉄なので、人魚の油を差して仕上げました。
思いのままの鉄の弓矢ができあがったので、大臣は大変喜んで、数々の恩賞を与えました。
そこで、百合若大臣は、御台所を近付けると、
「この度、帝よりの宣旨に任せて、蒙古征伐に参ることになった。無事に戻る事
ができたなら、またお目にかかりましょう。もし、討たれたならば、後世の供養を頼み
ます。名残惜しい事じゃ。」
と言いました。御台はこれを聞いて、
「これは、恨めしいことを。蒙国(むこく)とやらに遙々攻めて行かれて、後に残った
私は、どうしたらよいのですか。どうか一緒に船に乗せて行って下さい。」
と、悶え焦がれて泣き崩れました。百合若大臣も心が揺れましたが、涙を抑えて、
「その嘆きは尤も至極ではあるが、勅命であるから仕方無い。又、船艫(ふねとも)には
既に諸神を斎い奉ってあるので、女人を乗せることは思いもよらぬこと。どうか、この
御所で、心強く待っていて下さい。」
と、慰めるのでした。御台も道理に詰められて、
「この上は、何と慕うとも、叶わないのですね。必ず無事にお帰り下さい。」
と、さらばさらばと涙ながらの別れは、哀れなる次第です。かくて百合若大臣は、心弱
くては叶わないと、振り切るとやがて出陣しました。
その勢は三万余騎、大船は百余艘、小船は数えきれぬ程、総じて船の数は、八万余艘もありました。
中でも大将の御座船は、錦を飾り立て、艫舳(ともえ)に五色の幣を切り、日本六十四州の
大小の神祇(じんぎ)を、斎垣(いがき)、鳥居、榊葉に斎い込めました。さらに、雲
をも照すのろしを焚き、太鼓を鳴らして、弘仁(こうにん)七年(816年)卯月
(4月)半ばに、艫綱(ともづな)を解き、順風に帆を上げて出陣していったのでした。
その百合若大臣の勇ましさは、由々しかりともなかなか、申すばかりはありません。
つづく