鎌田兵衛正清 伏見ときは 小幡物語(説経正本集第三(32))
天満八太夫 元禄三年
古説経後期の作品であるこの正本は、幸若の「鎌田」「伏見常磐」を下敷きとし、両本
を関連付けて、ひとつの物語に仕上げているように見えるが、まったく本地を語らない
この作品は、おそらく先行した古浄瑠璃、例えば、「待賢門平氏合戦」四段目以降(寛永)などの説経への焼き直しと考えた方が良い作品である。
かまだびょうえまさきよ ①
さてもその後、つらつら思んみるに
盛んなる者は、必ず衰え
奢れる者は、終に滅ぶ
一度栄え、一度衰う、世のためし
古今、その例、間を無し
人皇七十八代二条天皇院の頃のことです。(1158年~1165年)
源氏の大将である左馬の守義朝は、待賢門の戦いに敗れ、鎌田兵衛正清、渋谷の金王(こんおう)
と伴に、東国に向けて、落ち延びました。数々の関所を、突破して、尾張の国、内海の庄(愛知県知多郡)
へと、向かったのです。ここには、鎌田の舅である長田荘司(おさだしょうじ)(長田忠致)
が、居たので、ここに密かに潜伏することにしたのでした。長田は、主君、義朝一行の為に、
新たに御所を建てて、迎えたのでした。
しかし、義朝が、内海に潜伏したことは、すぐに六波羅にいる清盛に、漏れ聞こえました。
清盛は、一門を集めて評定を行い、こう言いました。
「ぐずぐずしてはいられない。急ぎ、追っ手を差し向けよ。」
清盛は、平宗清に、兵三百を与えましたが、その時、嫡子重盛が、進み出て進言しました。
「これは、良くないご判断です。東国は、代々、源氏の味方が多い土地。追っ手を差し向ける
ことが知れれば、源氏の郎等が集まって、手強い戦となりましょう。ここは先ず、謀り
状を拵えて、送ってはいかがでしょうか。長田に、過分の所領を与えて、一旦味方とし、
義朝を討たせるのです。その後、長田をどう懲罰しようと、問題にはならないでしょう。
如何でしょうか。」
これを聞いた清盛は、もっともと思い、早速、謀り状を書かせると、長田の館へ送った
のでした。
密書を受け取った長田は、子ども達を集めました。その文面は、次のようなものでした。
『下す状。
左馬の守義朝は、親の首を切るのみならず
親類兄弟、討ち滅ぼし
六身不和にして、三宝の加護無し(※仁王経)
去年の罪、今年に来し
逆乱を起こし、待賢門の夜戦(よいくさ)に、駆け負け
帝都を去って、遠島(えんとう)に彷徨うとても
自滅すべき事、草場の露に異ならず
この者に組みせん輩は
深淵に臨んで、薄氷を踏むに異ならず(※詩経)
早、義朝が首(こうべ)を刎ね
天下に献げ申すべし
勧賞(げじょう)には、美濃、尾張、三河、三が国を当て行うべし
よって、状、件(くだん)の如し
平治二年正月朔日(さくじつ)
長田が館へ 清盛 判 』
長田は、これを読むなり、むらむらと欲心を起こしました。子ども達に向かって、
「これ、これを、拝み申し上げなさい。御教書(みぎょうしょ)は、道理至極である。
そもそも、義朝は、親の首を切るような五逆罪(父母等を殺すこと)の悪人である。そ
の様な者を、主君と頼んでも仕方ない。いざ、この君を討ち取って、美濃、尾張、三河
の三カ国を給わって、上見ぬ鷲と、栄えようではないか。どうじゃ、どうじゃ。」
と、言いました。これを聞いた太郎は、
「しかし、これは、由々しき一大事。この人々を討つには、尾張八郡に動員しても、そ
う簡単には行かないと思います。よくよく御思案下さい。」
と、答えました。そこで、長田は、
「何も、勢を揃えて討つまでも無い。騙し討ちにすれば良いまでのこと。」
と、手に取るように、暗殺の計画を話すのでした。その時、三男は、進み出ると、烏帽
子の招き(烏帽子の先)を地にすりつけて、こう言いました。
「仰せのように、この君は、親の首を切り、五逆の罪が深いことは明白ですが、もし
我々が、三代相恩の主君の首を切るならば、八逆罪の罪(謀叛の罪)を被ることになりますぞ。
ここに、こういう例えがあります。天竺のいるという命命鳥(めいめいちょう:具命鳥)
は、胴はひとつで、頭が二つあります。左右に並んだ二つの嘴が、餌をついばんでおり
ました所、左の嘴が食べようとした餌を、右の嘴がうらやんで、これを奪い取ったのです。
右の嘴は、腹を立てて、退治してやると思い立ち、ある時、毒虫を探して、それを、食
べようとして見せました。案の定、右の嘴は、勇んで奪い取ると、毒虫を食べてしまいました。