かまだびょうえまさきよ ⑤
こうして、常磐御前は、祖父や姥御前の情けを受けて、様々に労られ、焚き火にあた
って、体を温めることができたのでした。やがて、袖の氷柱(つらら)も解けました。
祖父と姥は優しくも、常磐御前と若君達を引き留めたので、2月の下旬の頃まで、この
家に留まることになりました。祖父は、障子の隙間から、常磐の姿を、つくづくと打ち眺めて、
「のう如何に、姥御前よ。この御方は、どう見てもそんじょそこらの人には思えない。
何故かと言えば、あの粧いは、普通ではないからのう。ちょっと、お心の内をお聞きし
たいものじゃ。おい、姥御前よ。昔習った歌を忘れていないならば、一首、歌を詠じて
はくれぬか。」
と、言いました。姥は、
「それは、その昔、私も宮中に上がっていた時の事。今や、木幡の小屋がけに、落ちぶ
れて、歌なんぞというものは、とっくに忘れてしまいましたよ。あなたこそ、昔の事を
まだ覚えているのなら、一首の歌を掛けてごらんなさいよ。」
と、言うのでした。祖父は仕方なく、がたがたと、障子を開けると、こう詠みました。
「木幡山、降ろす嵐の激しくて、宿りかねたる、夜半(よわ)の月かな」
常磐御前は、これを聞いて、
「あらまあ、なんと恥ずかしいことでしょう。姿こそ、このように落ちぶれてしまいま
したが、心の中は、花の都が生きていますよ。それでは、私も腰折れ歌を、お返し
いたしましょう。」
と、言うと、次のような返歌を詠みました。
「木幡山、裾野の嵐激しくて、伏見(伏し身)と聞けど、寝らざりけり」
祖父と姥は、これを聞いて、
「さては、この方は、義朝方の落人に間違い無い。居間に居たのでは、人目にも付く。」
と、言って、奥の一間に匿ってくれたのでした。
そうしている内に、近くに住む下女(しもおんな)達は、集まってこんな噂話を始めました。
「向こうの谷の祖父御(おおじご)の所に、それはそれは美しい女性が、子供を沢山
連れて泊まっているらしいですよ。みんな忙しくて、まだ誰も見たことがありませんが、
一度、見に行って、慰めてあげましょうか。」
そして、女達は、手に手に、細瓮(ささべ:壺)を持って、祖父の家を訪ねたのでした。
祖父の家にやって来た女達は、もってきた壺を、どかどかと置くと、常磐御前のお姿
の美しさに、呆然と眺め入るばかりです。常磐御前が、
「これは、皆々様。お優しくも、私を慰めに来てくれたと聞きました。さあさあ、これ
へお入り下さい。」
と言えば、女達は、常磐御前を取り巻いて、
「あなた様は、どこからお出でになり、どこに向かわれる方ですか。こんな雪の中を
お気の毒です。その話しを聞かせて下さい。」
と、やいやいの催促です。常磐御前は、困りましたが、本当の事を言うわけには行かず、
次のように話しを作りました。
「よくぞ、聞いて下さいました。春の日の暇つぶしに、私の先祖をお話いたしましょう。
私の本国は、大和の国は宇陀の郡(奈良県宇陀市とその周辺)です。私が14歳の春の
頃に、父母に捨てられて、都に上がりました。身分の高いも低いも、女の習いは同じ事。
やがて、あるお殿様に拾われて、この若達を生みました。割り無い仲であったのに、頼
りがいのは男の心です。一条室町(京都市上京区一条室町)に、女を囲ったのです。
三年の間、私は、妬み事も言わずに我慢しました。それは、こんな例えがあるからです。
伊勢物語に出て来る夫は、大和の者。この者が、河内の国の高安(大阪府八尾市東部)
という所に女を作って、三年の間通いましたが、後に残る女房は、ちっとも嫉妬しませんでした。
しかし、夫は、
「俺以外に、外の男に心があるから、嫉妬もしないのだな。」
と、かえって、女房を恨んだのです。ある、夕暮れのことでした。夫は、
「俺は、もう河内に行くからな。さらば。」
と言って、太刀をおっ取り飛び出して言ったのです。ところが、この夫は、河内には行
かないで、家の生け垣に隠れると、妻の様子を窺ったのです。それとは知らない女房は、
こんな歌を詠って、悲しんだのです。
『風吹けば、沖津白波立田山、夜半にや君が、一人行くらん』