猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ⑤

2013年01月23日 17時25分43秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ⑤

 こうして、常磐御前は、祖父や姥御前の情けを受けて、様々に労られ、焚き火にあた

って、体を温めることができたのでした。やがて、袖の氷柱(つらら)も解けました。

祖父と姥は優しくも、常磐御前と若君達を引き留めたので、2月の下旬の頃まで、この

家に留まることになりました。祖父は、障子の隙間から、常磐の姿を、つくづくと打ち眺めて、

「のう如何に、姥御前よ。この御方は、どう見てもそんじょそこらの人には思えない。

何故かと言えば、あの粧いは、普通ではないからのう。ちょっと、お心の内をお聞きし

たいものじゃ。おい、姥御前よ。昔習った歌を忘れていないならば、一首、歌を詠じて

はくれぬか。」

と、言いました。姥は、

「それは、その昔、私も宮中に上がっていた時の事。今や、木幡の小屋がけに、落ちぶ

れて、歌なんぞというものは、とっくに忘れてしまいましたよ。あなたこそ、昔の事を

まだ覚えているのなら、一首の歌を掛けてごらんなさいよ。」

と、言うのでした。祖父は仕方なく、がたがたと、障子を開けると、こう詠みました。

「木幡山、降ろす嵐の激しくて、宿りかねたる、夜半(よわ)の月かな」

常磐御前は、これを聞いて、

「あらまあ、なんと恥ずかしいことでしょう。姿こそ、このように落ちぶれてしまいま

したが、心の中は、花の都が生きていますよ。それでは、私も腰折れ歌を、お返し

いたしましょう。」

と、言うと、次のような返歌を詠みました。

「木幡山、裾野の嵐激しくて、伏見(伏し身)と聞けど、寝らざりけり」

祖父と姥は、これを聞いて、

「さては、この方は、義朝方の落人に間違い無い。居間に居たのでは、人目にも付く。」

と、言って、奥の一間に匿ってくれたのでした。

 そうしている内に、近くに住む下女(しもおんな)達は、集まってこんな噂話を始めました。

「向こうの谷の祖父御(おおじご)の所に、それはそれは美しい女性が、子供を沢山

連れて泊まっているらしいですよ。みんな忙しくて、まだ誰も見たことがありませんが、

一度、見に行って、慰めてあげましょうか。」

そして、女達は、手に手に、細瓮(ささべ:壺)を持って、祖父の家を訪ねたのでした。

祖父の家にやって来た女達は、もってきた壺を、どかどかと置くと、常磐御前のお姿

の美しさに、呆然と眺め入るばかりです。常磐御前が、

「これは、皆々様。お優しくも、私を慰めに来てくれたと聞きました。さあさあ、これ

へお入り下さい。」

と言えば、女達は、常磐御前を取り巻いて、

「あなた様は、どこからお出でになり、どこに向かわれる方ですか。こんな雪の中を

お気の毒です。その話しを聞かせて下さい。」

と、やいやいの催促です。常磐御前は、困りましたが、本当の事を言うわけには行かず、

次のように話しを作りました。

「よくぞ、聞いて下さいました。春の日の暇つぶしに、私の先祖をお話いたしましょう。

私の本国は、大和の国は宇陀の郡(奈良県宇陀市とその周辺)です。私が14歳の春の

頃に、父母に捨てられて、都に上がりました。身分の高いも低いも、女の習いは同じ事。

やがて、あるお殿様に拾われて、この若達を生みました。割り無い仲であったのに、頼

りがいのは男の心です。一条室町(京都市上京区一条室町)に、女を囲ったのです。

三年の間、私は、妬み事も言わずに我慢しました。それは、こんな例えがあるからです。

伊勢物語に出て来る夫は、大和の者。この者が、河内の国の高安(大阪府八尾市東部)

という所に女を作って、三年の間通いましたが、後に残る女房は、ちっとも嫉妬しませんでした。

しかし、夫は、

「俺以外に、外の男に心があるから、嫉妬もしないのだな。」

と、かえって、女房を恨んだのです。ある、夕暮れのことでした。夫は、

「俺は、もう河内に行くからな。さらば。」

と言って、太刀をおっ取り飛び出して言ったのです。ところが、この夫は、河内には行

かないで、家の生け垣に隠れると、妻の様子を窺ったのです。それとは知らない女房は、

こんな歌を詠って、悲しんだのです。

『風吹けば、沖津白波立田山、夜半にや君が、一人行くらん』


忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ④

2013年01月23日 14時20分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ④

さて、都に上った金王丸は、常磐御前がいらっしゃる紫野(むらさきの:京都市北区南部)

に着きました。金王は、早速に常磐御前のお前に出て、

「さしも、剛の殿も、長田に討たれてしまいました。又、鎌田親子も残らず討たれ、某

も、討ち死にをしようと思いましたが、相手になる敵がおりません。長田の子供五人を

討ち取りましたが、残念ながら長田を取り逃がしました。長田を追って、これより六波

羅へ参るつもりです。ここに、居たいとは思いますが、少しでも早く、長田を討ち取っ

て、我が君のご供養に供えたいと思います。それでは、お暇申します。さらば。」

と、言い捨てると、行方をくらましてしまいました。

 可哀相に、常磐御前は、夢か現かと驚いて、

「やれ、金王よ。暫く留まって、殿の御最期の様子を詳しくお話下さい。ああ、恨めしい

世の中よ。」

と、声を上げて泣き崩れました。ようやく、涙を押しとどめると、常磐御前は、

「さては、長田は翻意して、殿を討ったのですね。さぞや、無念に思われたことでしょう。

この若達や、私は、これからどうしたらいいのでしょう。どうしようも無い身となって

しまいました。」

と、つぶやいて、又泣く外はありません。しかし、泣いてばかりいても仕方ありません。

常磐御前は、

「今となっては、嘆き悲しんでも仕方がない。ここに留まっていては、六波羅が追っ

手を差し向けて来るに違い無い。まだ、触れの出ない内に、どこかへ落ち延びなくては。」

と、思い直しました。そこで、先ず母上に、供を一人付けて、乳母の所へ送りました。

それから、三人の若、乙若、今若、牛若を連れて、密かに館を忍び出たのでした。行

き先も定めぬ心細い旅立ちです。常磐御前の胸の内が思いやられます。

 兄、今若の装束は、練り絹の肌着に白い綾地の直垂(ひたたれ)。弟の乙若の装束は、

紅の二つ衣(重ね着の着物)に帯を締めただけです。ご自身は、十二単の裾をたくし上

げ、二歳になる牛若を懐に抱いて、市女笠で顔を隠しました。五條の辺りの黒土で、初

めて足を汚すお姿は、哀れとしか言い様がありません。

 時は、永暦元年(1160年)正月17日の夜の事です。清水参りのこの夜は、多く

の人々が、行き交っています。常磐御前は、人々に紛れて清水寺に詣でました。左の格

子に入り、十の蓮花(手)をもみ合わせ、八寸の頭を地にすりつけると、常磐御前は、

「そもそも、清水寺は、田村丸(田村麻呂)が、大同二年(807年)にご建立されました。

誠に、霊験新たかの観世音。三人の若達の行く末を、お守り下さい。」

と、お祈りをし、その夜は、清水寺に隠れました。翌朝、常磐御前はご本尊の前から

立ち出で、西門に佇んで、遙かの西を眺めました。

「四条、五条の橋が見える。清き石川(?)の流れは、末の世まで続くのでしょう。あ

の西の境を過ぎ行けば、実りの花も咲くことでしょう。この道は、六道の辻とか、聞き

ますが、ほんとうに冥途へ続いているとは、恐ろしいことです。」

と、つぶやいて、歩き始めました。

(以下道行き)

下り居(おりい:馬や車に乗らないこと)の衣、播磨潟(兵庫県明石)

飾磨(しかま:兵庫県姫路市)の歩行路(かちじ)、苦しやの

その垂乳根(たらちね)を尋ねん

心細さは、鳥辺山(鳥野辺;火葬場)

煙の末も、浮き雲の

定め無き世の、露の身の

頼む命は、白玉の(※をに掛かる掛詞)

おたぎの寺や(愛宕念仏寺:京都市右京区嵯峨野)六波羅の観音堂を伏し拝み

「如何に、若達。ここは、敵(かたき)の館の前。こちらへ早く来なさい。兄弟よ。」

と、市女笠を傾けて、足を速めて急がるる

都にな高き大仏や

三十三間(三十三間堂:京都市東山区)伏し拝み、

阿弥陀が峰も見え渡る。(京都市東部の山:東山三十六峰)

一二の橋(一条・二条)や、法成寺(京都市上京区にかつてあった)

山崎千軒(京都府乙訓郡大山崎町)、宝寺(宝積寺)、松ヶ崎(京都市左京区松ヶ崎)をも打ち眺め

木幡(こばた:宇治市木幡)の山に着き給う

時は、正月十八日のことです。宇治は、春雨が降りますが、木幡の山は、まだ雪深い

頃です。降る白雪を払いながら、急ぐ姿は、哀れなかぎりです。若君達は、たまりかね

て、声を上げ、

「どうして、お乳や乳母はいないのですか。どうして母上には、付き人が居ないのですか。