猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ⑥終

2014年06月01日 11時34分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ⑥終

さてその頃、中将殿は、牢獄から引き出されて、もう由比ヶ浜に引き据えられていました。

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敷皮を敷いて西向きに座り直して、中将殿は、

「さて、皆さん聞いて下さい。十二年もの長い間の牢暮らし、とうとう今日限りの命となりました。無念なことではありますが、暫しの猶予をお与え下さい。末期の一句の代わりに、成仏の御法を説いてお聞かせ致しましょう。」

役人達は、これを聞いて、

「おお、仰る通り、我々は、朝な夕なに、人を殺すのが仕事。有為も無為も分かりません。それでいて、又我々も、何時かは行かなければならない道ですから、成仏の道を聞かせて下さい。」

と、言うのでした。こうして中将殿は、話し始めたのでした。

「それでは、語って聞かせましょう。そもそも、仏法の始まりは、釈迦如来が霊鷲山においてお説きになられた事どもです。四十余年に渡ってお説きになったお言葉が、お経となったのです。それは、華厳経に阿含経、方等経に般若経等です。これらのお経に関して、四人の御弟子が釈尊にいろいろ質問しましたが、御釈迦様はこう答えたそうです。

『いろいろな経は、即身成仏を成し遂げる為の方便に過ぎない。つまり、家を建てるのに足場を造るようなものだ。それでは、誠の経を説くことにしよう。』

そうして、説かれたのが「法華経一部八巻二十八品」文字の数、六万九千三百八十余字の一字一字が、全て金色の仏体です。三世の諸佛の本願は、一切衆生が成仏する直道を顕すことなのです。ですから、愚痴も無知も、「妙法蓮華経」を唱えれば、法華経一部を読むのと同じ功徳が顕れ、即身成仏は疑い無いのだと得心なされなさい。」

これを聞いた、人々は、

「これは、本当に有り難いお経です。一時なりとも、執行を延ばしましょう。」

と、休んでおりますと、梶原が乗った馬が飛んできました。梶原は、

「それ、切るな。」

と、呼ばわるのでした。喜んだ役人達は、その縄も解かないで、急いで中将殿を、御所まで運びました。

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中将殿が、大庭に引き据えられると、頼朝は、

「中将を、この稚児に取らせよ。」

と言いました。摩尼王は、急いで走り寄ると、中将の縄を解き、醒め醒めと泣くばかりです。中将は、我が子とも知らずに、驚いて、

「どうして、そんなに悲しんでいるのか。」

と尋ねると、摩尼王殿は、涙をおさえて

「はい、私は、母の胎内で別れた嬰児です。母上様から、父上様のことをお聞きして、まだ生きていれば対面し、もう死んでいれば、弔おうと考えて、ここまで尋ねてきましたが、頼朝公のお情けにより、ここにこうしてお会いすることができました。うれしや。」

と、言うと父に飛びつきました。中将は、

「おお、さては我が子か。」

と、喜びの涙がこみ上げるのでした。それから、頼朝は、大橋の中将に本領の壱岐と対馬を安堵し、摩尼王を「左少将晴純」と任官して、四国九国を与えたのでした。親子の人々は目出度く筑紫に帰り、栄華に栄えたということです。これも偏に、法華経の功力であると、言わない人はありませんでした。

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おわり

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ⑤

2014年06月01日 10時35分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ⑤ 

鶴岡八幡宮に参拝した二人は、手を合わせて、

「南無や、八幡宮。私たちが、遙々筑紫より、この国までやって来たのは、母の胎内で別れた、父の大橋を探すためです。どうか、父に会わせて下さい。」

と、深く祈願すると、彼の法華経を取り出して、声高らかに読誦を始めたのでした。今では松若も、すっかり法華経を覚えていましたので、二人は、声を合わせて読誦するのでした。

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その場に居合わせた参拝の人々は、このお経を聴聞すると、帰ることも忘れて聞き入りました。人々は、

「なんと有り難いお経であることか。これを聞かないで、何を聞く。」

と、言って、折り重なる程に詰め掛けて、じっと耳を傾けるのでした。そこへ、右大将頼朝の御前様が参拝なされました。御前様は、この有様に驚いて、『これはまあ、不思議な事です。まだ幼い者が、この様に尊くもお経を読むとは、これはきっと、八幡様が顕れたに違い無い。』と、お考えになり、安藤七郎を呼ぶと、

「これ、七郎。ここに居る稚児を、ここに留めておくように。」

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と、言いつけて御所に急いで引き返したのです。御前様は頼朝公に、

「今、鶴岡八幡宮にお参りに行って参りましたが、大変不思議なことに、十二三歳の子供が二人、法華経を読誦して居るのに出合いました。このお経が大変素晴らしく心に沁みるのです。この稚児を、招いて、是非、ご聴聞して下さい。」

と勧めるのでした。頼朝は、梶原源太景季に命じて、その二人の稚児を、急いで連れて来る様に命じました。早速に源太は、八幡宮に行き、摩尼王を見つけると、

「それなる稚児。我が君、頼朝公がお召しである。早くこちらへ。」

と呼ぶのでした。摩尼王は、

「なんと、有り難や。これぞ、鶴岡八幡のお導き。」

と思って、源太に連れられて、八幡宮を出ようとしましたが、安藤七郎は、

「いやいや、その儘のお姿では、余りに見にくい。この衣装にお着替えなされよ。」

、上等な小袖と大口袴、それに水干を差し出すのでした。摩尼王は、

 「いや、旅の墨衣の儘で結構です。」

 と断りましたが、七郎が、

 「いやいや、御所にてのお経は、八幡宮のそれとは違いますよ。どうぞお着替え下され。」

 と、重ねて言うので、着替えることにしました。

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 二人は、見違える程の美しい稚児の姿となって、御所の白砂に立ったのでした。さて、頼朝公はといえば、大紋の指貫に、木賊色の狩衣を着て、立烏帽子を被って、笏を手にしておられます。そして、居並ぶ武将は、和田、秩父、畠山、千葉、大山、長沼、宇都宮。その外の諸侍の数は知れません。頼朝が、二人の稚児を近くに呼び寄せます。摩尼王は、臆せず、御座の近くに上がり、法華経を取り出すと、高らかに読誦するのでした。

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 頼朝公を初めとし、御前の人々も、

 「なんと、有り難いお経か」

 と、涙を流して、感じ入りました。頼朝は、稚児をつくづくとご覧になって、

「その姿貌も、慈しい。お前は、継母にでも憎まれて家出した者か、それとも師匠に勘当でもされて、国を出てきた者か。何処から来たのか。望みがあるなら言ってみよ。」

と、問いかけるのでした。そこで摩尼王は、

「はい、これは有り難いお言葉です。私は、筑紫の者ですが、、私が、母の胎内にあった時に別れた父が、この国に居ると聞きましたので、父の行方を探すために、鎌倉まで来たのです。」

と話すと、頼朝は、

「ほう、そして、お前は何者であるか。」

と聞きました。摩尼王は、思い切って

「殿の御前で申し上げるのは、畏れ多いことですが、私の父と申すのは、筑紫の国は、大橋の中将です。殿のお怒りにより捕らえられていると聞いておりますが、もしも、まだご存命であるならば、どうぞ一度でも会わせて下さい。もしも、既に死んでおられるのなら、菩提を弔おうと思っております。もしも、まだ生きておられるのなら、どうかお慈悲をもって、お命をお助け下さい。我が君様。」

と、懇願したのでした。頼朝公は、

「なんとも、哀れなことであるな。その大橋のことならば、心配はないぞ。牢獄に繋がれてはいるが、今、呼びに行かせる。只今読誦したお経の布施として、お前に取らせるぞ。」

と、言うと、梶原源太を呼びつけて、

「先年、お前に預けておいた大橋の中将を、この稚児に取らせる。急ぎ解放して渡す様に。」

と命じましたが、源太は、驚いて、

「やや、今日、由比ヶ浜にて首を切ることになっております。」

と、言うのでした。労しいことに摩尼王は、

「ああ、なんと情け無い。どうせ切られるのならば、私が来る前に、切られてしまっていたのなら、こんなに悲しまなくて済んだのに。なんという浅い親子の契りでしょうか。」

と、泣き崩れました。御前の人々も皆、共に涙をぬぐいましたが、頼朝も可哀想に思って、

「ええ、梶原。急ぎ、助命に参れ。誅してはならぬ。」

と、命じたのでした。そして、梶原源太は、馬を飛ばして、由比ヶ浜へ急行しました。父の無事を願う摩尼王の心の哀れさは、言い様もありません。Tyuu15

つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ④

2014年06月01日 07時46分24秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ④ 

二人は、衣の袖を濡らしつつ、寺を立ち出でると、先ず、浜地へ降りて、便船を探しました。


《道行き》
 

漕がれ、筑紫を立ち出でて
名所旧跡、浦々を 

眺め越えさせ給いて 

波路遥かに押し隔て 

立ち返り、古里を 

心細くも、打ち眺め 

急がせ給いける程に 

思いを須摩の浦とかや(明石海峡) 

須崎に寄する波、分けて(兵庫県明石市須崎) 

兵庫の浦に、着きしかば 

陸(くが)に上がらせ給いつつ 

生田を越えて芦の屋の(兵庫県神戸市中央区) 

灘の潮焼く、夕煙(兵庫県神戸市灘区)

心細くも、打ち眺め 

我が父の命は 

池田の宿とかや(大阪府池田市) 

こうない、かちおり(?)打ち過ぎて 

山崎千軒、伏し拝み(京都府乙訓郡大山崎町) 

都の方を見給えば 

時雨に染むる秋の山 

父はと、問わば、恋塚の(京都市伏見区:恋塚寺) 

今ぞ、色めく、玉衣の 

散り敷く、庭の苔筵 

おきね(?)に勝る我が思い 

ようよう、急ぎける程に 

九重に着き給う(都) 

去れど、二人の人々は 

都に、定むる宿無くて 

清水へぞ参られける(清水寺) 

清水に着きしかば、祈誓を掛けて、伏し拝み 

夜と共に、転読し給いて 

夜もほのぼのと明け来れば 

ひと時なりとも鎌倉へ 

急ぎ行かんと思い立ち 

御堂を立たせ給いつつ 

麓に落ちたる滝壺は 

何、流れたる清水寺 

実に清水と打ち眺め 

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歌の中山、清閑寺(京都市東山区) 

花山(山科区)、四ノ宮(山科区)、ちゅうせんし(?) 

関山を打ち過ぎて(逢坂の関) 

誰か、ここにて、松本の(滋賀県大津市) 

父に近江の国とかや 

鳰(にお)の入り江の浜風に(琵琶湖) 

志賀の浦の波立ちぬるを(大津市) 

心細くも打ち眺め 

野路(草津市)篠原(野洲市)の露を分け 

霧降掛かり、霞みて見ゆる鏡山(竜王町) 

馬淵、縄手(近江八幡市) 

惟喬皇子(これたかみこ)の憂き世の長を厭いて 

入りて、久しき、こしょうしゅく(?) 

年も積もるか老蘇の森(近江八幡市) 

川風、寒き旅人の 

小夜の眠りに、夢醒めて 

愛知川過ぎて、摺張り山(彦根市) 

今須、山中打ち過ぎて(岐阜県関ヶ原町) 

尾張の国に入りぬれば(愛知県) 

熱田の宮を伏し拝み(熱田神宮) 

何となる身の潮干潟(鳴海:名古屋市緑区) 

三河に架けし八橋を(愛知県知立市) 

父かと、人に、遠江(愛知県東部) 

浜名の橋の夕潮に(静岡県:浜名湖) 

刺されて、上がる海女小舟 

我が如く、漕がれて物や思うらん 

急がせ給いける程に 

島田を越えて、藤枝や 

宇津の山への蔦の道(静岡市駿河区) 

分けて、問うこそ、物憂けれ 

親故、旅を、駿河なる 

富士の煙を打ち眺め 

南は、滄海、満々として際も無し 

北は、松原、茫々たり 

裾の嵐は激しくて 

伊豆の三島に立ち給う 

明神を伏し拝み(三島大社) 

急がせ給えば、程も無く 

鎌倉にぞ着かれける 

 

 摩尼王殿は、松若に、

 「これから、鶴岡八幡宮に参拝し、父のご無事を祈誓しようと思う。」

 と言うと、八幡宮に向かわれたのでした。この二人の心の内の哀れさは、何にも例え様もありません。

 つづく