ちゅうじょう ⑥終
さてその頃、中将殿は、牢獄から引き出されて、もう由比ヶ浜に引き据えられていました。
敷皮を敷いて西向きに座り直して、中将殿は、
「さて、皆さん聞いて下さい。十二年もの長い間の牢暮らし、とうとう今日限りの命となりました。無念なことではありますが、暫しの猶予をお与え下さい。末期の一句の代わりに、成仏の御法を説いてお聞かせ致しましょう。」
役人達は、これを聞いて、
「おお、仰る通り、我々は、朝な夕なに、人を殺すのが仕事。有為も無為も分かりません。それでいて、又我々も、何時かは行かなければならない道ですから、成仏の道を聞かせて下さい。」
と、言うのでした。こうして中将殿は、話し始めたのでした。
「それでは、語って聞かせましょう。そもそも、仏法の始まりは、釈迦如来が霊鷲山においてお説きになられた事どもです。四十余年に渡ってお説きになったお言葉が、お経となったのです。それは、華厳経に阿含経、方等経に般若経等です。これらのお経に関して、四人の御弟子が釈尊にいろいろ質問しましたが、御釈迦様はこう答えたそうです。
『いろいろな経は、即身成仏を成し遂げる為の方便に過ぎない。つまり、家を建てるのに足場を造るようなものだ。それでは、誠の経を説くことにしよう。』
そうして、説かれたのが「法華経一部八巻二十八品」文字の数、六万九千三百八十余字の一字一字が、全て金色の仏体です。三世の諸佛の本願は、一切衆生が成仏する直道を顕すことなのです。ですから、愚痴も無知も、「妙法蓮華経」を唱えれば、法華経一部を読むのと同じ功徳が顕れ、即身成仏は疑い無いのだと得心なされなさい。」
これを聞いた、人々は、
「これは、本当に有り難いお経です。一時なりとも、執行を延ばしましょう。」
と、休んでおりますと、梶原が乗った馬が飛んできました。梶原は、
「それ、切るな。」
と、呼ばわるのでした。喜んだ役人達は、その縄も解かないで、急いで中将殿を、御所まで運びました。
中将殿が、大庭に引き据えられると、頼朝は、
「中将を、この稚児に取らせよ。」
と言いました。摩尼王は、急いで走り寄ると、中将の縄を解き、醒め醒めと泣くばかりです。中将は、我が子とも知らずに、驚いて、
「どうして、そんなに悲しんでいるのか。」
と尋ねると、摩尼王殿は、涙をおさえて
「はい、私は、母の胎内で別れた嬰児です。母上様から、父上様のことをお聞きして、まだ生きていれば対面し、もう死んでいれば、弔おうと考えて、ここまで尋ねてきましたが、頼朝公のお情けにより、ここにこうしてお会いすることができました。うれしや。」
と、言うと父に飛びつきました。中将は、
「おお、さては我が子か。」
と、喜びの涙がこみ上げるのでした。それから、頼朝は、大橋の中将に本領の壱岐と対馬を安堵し、摩尼王を「左少将晴純」と任官して、四国九国を与えたのでした。親子の人々は目出度く筑紫に帰り、栄華に栄えたということです。これも偏に、法華経の功力であると、言わない人はありませんでした。
おわり