あかし ⑥終
さて、津軽に流された明石の三郎は、土牢に入れられ、昼夜五十人の番人が、警戒する物々しさです。明石殿は、
『自分程の武士が、この程度の牢を破ることなど、簡単な事であるはずだが、これまで、ろくな食べ物も与えられていないので、どれほどの力が出るのかも分からない。御台は、もう天下の宮の所に送られてしまったか。』
と落胆して、既に3年の月日が過ぎました。弱り切った明石殿の命が、風前の灯火となった時、どこからとも無く、山伏が二人現れて、戸をしきりに叩いて、
「牢を破れ、破れ。」
と、言うのでした。これに力を得た明石殿は、立ち上がると、渾身の力で、えいやっとばかりに、牢格子を押しました。すると、頑丈な牢格子が、ばらばらと崩れ落ちたのでした。飛び出した明石殿は、そのまま駆けに駆けて、都を目指しました。その途中、五月五日には、信夫の里まで辿り着きました。明石殿は、庄司基隆の屋敷を通り掛かり、若者達が、庭乗りをして興じているのを目にしました。明石殿は思わず、
「おお、奥では、珍しい乗り方をするものですね。そもそも、庭乗りとは、四本の庭木を植えて、四本掛かりに、手綱の手を訓練するものでしょうに。そんなことも知らないとは。」
と、言って笑ったのでした。これを、聞いた若者達は、直ぐに、基隆殿に報告をしました。庄司基隆は、これを聞くと、明石殿を招き入れて、
「当家の若者達の馬の乗り方を、お笑いになられたとのこと。遠国であれば、馬の作法も良く存ぜず、恥ずかしい次第です。ところで、あなた様は、どちらのお国の方ですか。」
と、尋ねました。明石が、都の者だと答えると、基隆は喜んで、酒宴を開いたのでした。元より明石殿は、文武に秀でた人物でしたから、進められる酒を、たんぶと受けては、軽々と干します。基隆は、すっかり明石殿を気に入って、親子の契約まで交わすことになったので、
明石殿は、暫くここで、休養をすることにしました。
ところで、今は庄司基隆の屋敷に仕えている乳母の常磐は、客人をつくづくと見れば、どう見ても、明石の三郎重時殿の面影に間違いありません。常磐は、夢か現かと飛び出して、
するすると立ち寄って取り付けば、明石殿も驚いて縋り付き、言葉もありませんでしたが、
「どうして、遙々、このような所まで、来たのだ。さて、御台は、天子の宮の所へ行ったのか。」
と、聞くのでした。常磐が、
「御台所も、若君も、このお屋敷にいらっしゃいます。」
と言うので、急いで御台所の館へ向かいました。驚いて走り出てきた御台様と明石殿は互いに手と手を取り合って、涙、涙の再会です。明石殿は、
「お前のせいで、このような難行に遭ったと、恨んだ事もあったが、いつも恋しく思っていたのだぞ。再び、逢えて本当に良かった。これもすべて、熊野権現のお陰であると、感謝しなければならない。」
と言って、喜びの涙は尽きないのでした。これを聞いた、庄司夫婦は、益々喜んで、喜びの祝杯を挙げるのでした。
さて、それから明石殿は、上洛の準備を始めました。庄司基隆の号令で集まった武士は三千余騎。早速に都へ向けて進軍しました。都七条の天下の宮は、これを聞くと、これは叶わないと尻尾を丸めて、高野山へ逃げて出家してしまいました。津の国の多田の刑部も、同様に怖じ気づき、慌てて出家をしましたが、余りに動顛していた為、髭を剃り忘れました。
やがて、明石殿は、参内して、これまでの経緯を奏聞しました。御門は叡覧されて、
「まだ、若い身の上での様々の苦労、大義であった。以前の領地をすべて安堵する。」
との御判をいただくことができたのでした。
それから、明石殿は、津の国向かいました。多田の刑部を召し出すと、
「おや、これは刑部殿。お久しぶりです。あなたは、いつ出家なされたのですかな。それにしても、どうして髭は剃らないのですか。」
と、言いました。多田は赤面して平身低頭、言葉もありません。明石はさらに、
「あなたの罪状を、ひとつひとつ言い立てて、刻み殺しても飽き足らない程ですが、我が御台所の父上ですから、命は助けましょう。」
と、言いましたので、刑部は、手を合わせて、「有り難や。有り難や。」と拝む外はありません。最後に明石殿は、
「あなたのお好みの婿殿は、高野山に居るらしいですね。その婿殿に付け届けでもしたらどうです。」
と、多田を追放したのでした。それから、明石殿は、多田の三郎と四郎を引き据えると、斬首としました。又、太郎、二郎を召して、
「あなた達は、誠に忠臣でありまたから、その返礼に、多田の跡目をお継ぎなさい。」
と、本領を安堵したのでした。
そうして、播磨の国に帰って明石殿は、再び数々の屋敷を再興し、栄華に栄えたということです。兎にも角にも、重時殿の果報の程、貴賤上下押し並べて、感ぜぬ人こそなかりけり
おわり
さて、津軽に流された明石の三郎は、土牢に入れられ、昼夜五十人の番人が、警戒する物々しさです。明石殿は、
『自分程の武士が、この程度の牢を破ることなど、簡単な事であるはずだが、これまで、ろくな食べ物も与えられていないので、どれほどの力が出るのかも分からない。御台は、もう天下の宮の所に送られてしまったか。』
と落胆して、既に3年の月日が過ぎました。弱り切った明石殿の命が、風前の灯火となった時、どこからとも無く、山伏が二人現れて、戸をしきりに叩いて、
「牢を破れ、破れ。」
と、言うのでした。これに力を得た明石殿は、立ち上がると、渾身の力で、えいやっとばかりに、牢格子を押しました。すると、頑丈な牢格子が、ばらばらと崩れ落ちたのでした。飛び出した明石殿は、そのまま駆けに駆けて、都を目指しました。その途中、五月五日には、信夫の里まで辿り着きました。明石殿は、庄司基隆の屋敷を通り掛かり、若者達が、庭乗りをして興じているのを目にしました。明石殿は思わず、
「おお、奥では、珍しい乗り方をするものですね。そもそも、庭乗りとは、四本の庭木を植えて、四本掛かりに、手綱の手を訓練するものでしょうに。そんなことも知らないとは。」
と、言って笑ったのでした。これを、聞いた若者達は、直ぐに、基隆殿に報告をしました。庄司基隆は、これを聞くと、明石殿を招き入れて、
「当家の若者達の馬の乗り方を、お笑いになられたとのこと。遠国であれば、馬の作法も良く存ぜず、恥ずかしい次第です。ところで、あなた様は、どちらのお国の方ですか。」
と、尋ねました。明石が、都の者だと答えると、基隆は喜んで、酒宴を開いたのでした。元より明石殿は、文武に秀でた人物でしたから、進められる酒を、たんぶと受けては、軽々と干します。基隆は、すっかり明石殿を気に入って、親子の契約まで交わすことになったので、
明石殿は、暫くここで、休養をすることにしました。
ところで、今は庄司基隆の屋敷に仕えている乳母の常磐は、客人をつくづくと見れば、どう見ても、明石の三郎重時殿の面影に間違いありません。常磐は、夢か現かと飛び出して、
するすると立ち寄って取り付けば、明石殿も驚いて縋り付き、言葉もありませんでしたが、
「どうして、遙々、このような所まで、来たのだ。さて、御台は、天子の宮の所へ行ったのか。」
と、聞くのでした。常磐が、
「御台所も、若君も、このお屋敷にいらっしゃいます。」
と言うので、急いで御台所の館へ向かいました。驚いて走り出てきた御台様と明石殿は互いに手と手を取り合って、涙、涙の再会です。明石殿は、
「お前のせいで、このような難行に遭ったと、恨んだ事もあったが、いつも恋しく思っていたのだぞ。再び、逢えて本当に良かった。これもすべて、熊野権現のお陰であると、感謝しなければならない。」
と言って、喜びの涙は尽きないのでした。これを聞いた、庄司夫婦は、益々喜んで、喜びの祝杯を挙げるのでした。
さて、それから明石殿は、上洛の準備を始めました。庄司基隆の号令で集まった武士は三千余騎。早速に都へ向けて進軍しました。都七条の天下の宮は、これを聞くと、これは叶わないと尻尾を丸めて、高野山へ逃げて出家してしまいました。津の国の多田の刑部も、同様に怖じ気づき、慌てて出家をしましたが、余りに動顛していた為、髭を剃り忘れました。
やがて、明石殿は、参内して、これまでの経緯を奏聞しました。御門は叡覧されて、
「まだ、若い身の上での様々の苦労、大義であった。以前の領地をすべて安堵する。」
との御判をいただくことができたのでした。
それから、明石殿は、津の国向かいました。多田の刑部を召し出すと、
「おや、これは刑部殿。お久しぶりです。あなたは、いつ出家なされたのですかな。それにしても、どうして髭は剃らないのですか。」
と、言いました。多田は赤面して平身低頭、言葉もありません。明石はさらに、
「あなたの罪状を、ひとつひとつ言い立てて、刻み殺しても飽き足らない程ですが、我が御台所の父上ですから、命は助けましょう。」
と、言いましたので、刑部は、手を合わせて、「有り難や。有り難や。」と拝む外はありません。最後に明石殿は、
「あなたのお好みの婿殿は、高野山に居るらしいですね。その婿殿に付け届けでもしたらどうです。」
と、多田を追放したのでした。それから、明石殿は、多田の三郎と四郎を引き据えると、斬首としました。又、太郎、二郎を召して、
「あなた達は、誠に忠臣でありまたから、その返礼に、多田の跡目をお継ぎなさい。」
と、本領を安堵したのでした。
そうして、播磨の国に帰って明石殿は、再び数々の屋敷を再興し、栄華に栄えたということです。兎にも角にも、重時殿の果報の程、貴賤上下押し並べて、感ぜぬ人こそなかりけり
おわり