弓継 ④
都に入った松野尾夫婦の人々は、東山清水寺にお参りすることにしました。夫婦は鰐口をガラガラと鳴らして、
「南無や、大悲の観世音。私どもが探し求めている子供達に、どうか引き合わせて下さい。そうしてこの狂気の思いを止めて下さい。」
と、伏し拝むのでした。それから夫婦は、西門に佇んで、遥か北の空を眺めました。
「ああ、古里が恋しい。この雲の空と同じように、私達の心も晴れることが無い。しかし、いつかは、兄妹を連れて故郷へ帰る日が来るにちがいない。ああ、儚い我が心。子供はどこに、子供はどこに」
と、狂い狂って、町中へと下りてくのでした。京の童どもが、この夫婦を見つけて、騒ぎ立てました。
「面白い物狂いがいるぞ。夫婦そろって狂っているぞ。首に掛けているのは、ありゃなんだ。狂え狂え、踊れ踊れ」
と、囃し立てます。松野尾夫婦は、これを聞いて、こう言って廻ります。
「なんと、心無い、物言いか。私どもには、玉松、玉鶴という二人の子供がおります。兄の玉松を寺に上らせましたが、ある時、諫めの為に、弓の杖で打ち叩きました。兄は、それを恨みに家出をして、行き方知らずになりました。妹もその後、行方が分かりません。都は、諸国の人々が沢山行き来をしておりますから、知っている事がありましたら、教えて下さい。」
二人は、乱れ衣の裾を結んで、肩に掛け、菅筵(すがむしろ)や菰(こも)を、錦の茵(しとね)と巻き付けて、頼りにするのは、竹の杖だけです。首に掛けた弓の折れを、胸に当て、顔に当てして、
「本、末、中を一筋に、合わせて下さい、神仏(かみほとけ)。我が子に逢う、その為ならば、いくらでも、物に狂って、踊りましょ。これこそ玉松、これこそ玉鶴。いつかは、私の心も晴れるだろ。」
と踊っては、
「親は子を思えど、子は親を思わぬとは、いったい誰が言ったのか。あら、恨めしの子供達。」と、泣くのでした。
さて、国司国光の后となった玉鶴姫は、多くの子宝に恵まれて、元気に暮らしておりましたが、父母兄の事を忘れたことはありませんでした。ある時、国光卿に、
「私が、古里を出てから、もう三十三年にもなります。父母の菩提を弔いたいと存じます。」
と、涙ながらに願うのでした。国光は、
「それは、容易いこと。思いの通りに、やりなさい。」
と、許してくれましたので、早速三七日先に、施行を行うことになりました。国光は更に、
「さて、供養の導師は誰がよいかな。尊っとき導師といえば、東大寺の長吏(ちょうり)か、三井寺の別当か、又は比叡山の延昌座主ぐらいのものだろう。」
と、言うのでした。玉鶴姫は
「『越鳥、南枝に巣を喰い、胡馬、北風にいななく』(中国故事)と、申しますので、古里を懐かしんで、古里に近い天台座主を招きたく思います。」
と、答えましたので、早速に使者が立ちました。
さて、その日にもなれば、高座を荘厳に飾り、金銀珠玉を散りばめ、旗鉾を立て並べました。笛や太鼓、簫(しょう)、篳篥(ひちりき)等で、舞楽を演奏して管弦を鳴らして、導師の入場を、今や遅しと、待ち受けるのでした。やがて、天台座主が、御輿に乗って到着しました。十僧、十弟子を連れて現れたそのお姿は、釈尊が檀特山で、十大弟子、十六羅漢の前で御説法をなされた姿に、勝るとも劣らないと、感激しない者は、ありませんでした。
つづく
都に入った松野尾夫婦の人々は、東山清水寺にお参りすることにしました。夫婦は鰐口をガラガラと鳴らして、
「南無や、大悲の観世音。私どもが探し求めている子供達に、どうか引き合わせて下さい。そうしてこの狂気の思いを止めて下さい。」
と、伏し拝むのでした。それから夫婦は、西門に佇んで、遥か北の空を眺めました。
「ああ、古里が恋しい。この雲の空と同じように、私達の心も晴れることが無い。しかし、いつかは、兄妹を連れて故郷へ帰る日が来るにちがいない。ああ、儚い我が心。子供はどこに、子供はどこに」
と、狂い狂って、町中へと下りてくのでした。京の童どもが、この夫婦を見つけて、騒ぎ立てました。
「面白い物狂いがいるぞ。夫婦そろって狂っているぞ。首に掛けているのは、ありゃなんだ。狂え狂え、踊れ踊れ」
と、囃し立てます。松野尾夫婦は、これを聞いて、こう言って廻ります。
「なんと、心無い、物言いか。私どもには、玉松、玉鶴という二人の子供がおります。兄の玉松を寺に上らせましたが、ある時、諫めの為に、弓の杖で打ち叩きました。兄は、それを恨みに家出をして、行き方知らずになりました。妹もその後、行方が分かりません。都は、諸国の人々が沢山行き来をしておりますから、知っている事がありましたら、教えて下さい。」
二人は、乱れ衣の裾を結んで、肩に掛け、菅筵(すがむしろ)や菰(こも)を、錦の茵(しとね)と巻き付けて、頼りにするのは、竹の杖だけです。首に掛けた弓の折れを、胸に当て、顔に当てして、
「本、末、中を一筋に、合わせて下さい、神仏(かみほとけ)。我が子に逢う、その為ならば、いくらでも、物に狂って、踊りましょ。これこそ玉松、これこそ玉鶴。いつかは、私の心も晴れるだろ。」
と踊っては、
「親は子を思えど、子は親を思わぬとは、いったい誰が言ったのか。あら、恨めしの子供達。」と、泣くのでした。
さて、国司国光の后となった玉鶴姫は、多くの子宝に恵まれて、元気に暮らしておりましたが、父母兄の事を忘れたことはありませんでした。ある時、国光卿に、
「私が、古里を出てから、もう三十三年にもなります。父母の菩提を弔いたいと存じます。」
と、涙ながらに願うのでした。国光は、
「それは、容易いこと。思いの通りに、やりなさい。」
と、許してくれましたので、早速三七日先に、施行を行うことになりました。国光は更に、
「さて、供養の導師は誰がよいかな。尊っとき導師といえば、東大寺の長吏(ちょうり)か、三井寺の別当か、又は比叡山の延昌座主ぐらいのものだろう。」
と、言うのでした。玉鶴姫は
「『越鳥、南枝に巣を喰い、胡馬、北風にいななく』(中国故事)と、申しますので、古里を懐かしんで、古里に近い天台座主を招きたく思います。」
と、答えましたので、早速に使者が立ちました。
さて、その日にもなれば、高座を荘厳に飾り、金銀珠玉を散りばめ、旗鉾を立て並べました。笛や太鼓、簫(しょう)、篳篥(ひちりき)等で、舞楽を演奏して管弦を鳴らして、導師の入場を、今や遅しと、待ち受けるのでした。やがて、天台座主が、御輿に乗って到着しました。十僧、十弟子を連れて現れたそのお姿は、釈尊が檀特山で、十大弟子、十六羅漢の前で御説法をなされた姿に、勝るとも劣らないと、感激しない者は、ありませんでした。
つづく