猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき④

2015年02月24日 18時44分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
弓継 ④

都に入った松野尾夫婦の人々は、東山清水寺にお参りすることにしました。夫婦は鰐口をガラガラと鳴らして、
「南無や、大悲の観世音。私どもが探し求めている子供達に、どうか引き合わせて下さい。そうしてこの狂気の思いを止めて下さい。」
と、伏し拝むのでした。それから夫婦は、西門に佇んで、遥か北の空を眺めました。
「ああ、古里が恋しい。この雲の空と同じように、私達の心も晴れることが無い。しかし、いつかは、兄妹を連れて故郷へ帰る日が来るにちがいない。ああ、儚い我が心。子供はどこに、子供はどこに」
と、狂い狂って、町中へと下りてくのでした。京の童どもが、この夫婦を見つけて、騒ぎ立てました。
「面白い物狂いがいるぞ。夫婦そろって狂っているぞ。首に掛けているのは、ありゃなんだ。狂え狂え、踊れ踊れ」
と、囃し立てます。松野尾夫婦は、これを聞いて、こう言って廻ります。
「なんと、心無い、物言いか。私どもには、玉松、玉鶴という二人の子供がおります。兄の玉松を寺に上らせましたが、ある時、諫めの為に、弓の杖で打ち叩きました。兄は、それを恨みに家出をして、行き方知らずになりました。妹もその後、行方が分かりません。都は、諸国の人々が沢山行き来をしておりますから、知っている事がありましたら、教えて下さい。」
二人は、乱れ衣の裾を結んで、肩に掛け、菅筵(すがむしろ)や菰(こも)を、錦の茵(しとね)と巻き付けて、頼りにするのは、竹の杖だけです。首に掛けた弓の折れを、胸に当て、顔に当てして、
「本、末、中を一筋に、合わせて下さい、神仏(かみほとけ)。我が子に逢う、その為ならば、いくらでも、物に狂って、踊りましょ。これこそ玉松、これこそ玉鶴。いつかは、私の心も晴れるだろ。」
と踊っては、
「親は子を思えど、子は親を思わぬとは、いったい誰が言ったのか。あら、恨めしの子供達。」と、泣くのでした。

 さて、国司国光の后となった玉鶴姫は、多くの子宝に恵まれて、元気に暮らしておりましたが、父母兄の事を忘れたことはありませんでした。ある時、国光卿に、
「私が、古里を出てから、もう三十三年にもなります。父母の菩提を弔いたいと存じます。」
と、涙ながらに願うのでした。国光は、
「それは、容易いこと。思いの通りに、やりなさい。」
と、許してくれましたので、早速三七日先に、施行を行うことになりました。国光は更に、
「さて、供養の導師は誰がよいかな。尊っとき導師といえば、東大寺の長吏(ちょうり)か、三井寺の別当か、又は比叡山の延昌座主ぐらいのものだろう。」
と、言うのでした。玉鶴姫は
「『越鳥、南枝に巣を喰い、胡馬、北風にいななく』(中国故事)と、申しますので、古里を懐かしんで、古里に近い天台座主を招きたく思います。」
と、答えましたので、早速に使者が立ちました。
 さて、その日にもなれば、高座を荘厳に飾り、金銀珠玉を散りばめ、旗鉾を立て並べました。笛や太鼓、簫(しょう)、篳篥(ひちりき)等で、舞楽を演奏して管弦を鳴らして、導師の入場を、今や遅しと、待ち受けるのでした。やがて、天台座主が、御輿に乗って到着しました。十僧、十弟子を連れて現れたそのお姿は、釈尊が檀特山で、十大弟子、十六羅漢の前で御説法をなされた姿に、勝るとも劣らないと、感激しない者は、ありませんでした。
つづく

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき③

2015年02月24日 14時48分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
弓継 ③

 さて、玉松殿は、学問を究めて天台座主となりましたが、父母や妹の玉鶴がどうしているかが気がかりでなりませんでした。ある夜の暁方に、延昌座主は、不思議な夢を見ました。
故郷の頭川は、荒れ果てていて、どことも知らない土地のように見えます。松野尾夫婦の行方を尋ねますと、人々は、『兄妹を失ってから、行方不明となりました。』と答えるのでした。はっと、目覚めた延昌座主は、
「これは、正夢か。天の教えか。」
と、呆然としました。やがて、延昌座主は、
「私は、故郷を出る時、学問を究めるまでは、故郷へは帰らないと決心したが、今や、学問を究めたのだから、一度、帰ろう。」
と思い、早速に山王権現に、暇を告げに行くことにしました。延昌座主が、山を下りて行くと、忽然と白髪の老翁が現れて、こう言いました。
「お前は、これから、故郷へ帰ろうとしているな。お前は、この山の貫首であろう。それ、神と仏は表裏一体。影と形の如きものである。今、故郷へ帰るならば、お前の寿命は終わり、死んでしまうだろう。そこで、長寿延寿の秘法をお前に与える。急いで本坊に戻り、毎朝、この経を唱えよ。」
そして、巻物を一巻、延昌座主にあたえるのでした。延昌は、不思議に思って、
「あなたは、どなたですか。」
と問うと、老翁は、
「私は、この山の主である。」
と答えて、虚空に消え去りました。さあ、延昌は、困りました。親の行方は知りたいが、山王権現が、留める以上、下山することもできません。どうしたものかと思い煩っておりましたが、やがて、使いの者を故郷へ送ったのでした。やはり、夢のお告げのように、父も母も妹も、行方は知れませんでした。延昌は、仕方無く、人々の菩提を、深く弔うのでした。

 さて、頭川の松野尾夫婦は、飛び出して行った玉松丸は、親類を頼って、身を寄せているのだろうと考えていました。越後の国、柏崎に一番近い親戚がありましたから、そこに居るだろうと思って、夫婦は、尋ねて行ったのでした。しかし、玉松の行方は、知れませんでした。それからというもの、夫婦は、それぞれの本弭(もとはず)、末弭(うらはず)を首に掛け、取り上げては、打ち眺めて、寝ても起きても、ちらつくのは、玉松丸の面影ばかりです。ある時は、人も住まない山奥で日を送り、苔の筵に草枕。岩の床に泣き明かして、夢さえもみません。あちこちと彷徨い歩き、玉松を探すのでした。

《道行き》
越後の国を立ち出でて
出羽、ねんちゅう、かめはりさか(不明)
信夫山、忍ぶ甲斐なく、色に出でて(福島県福島市)
秋は、紅葉の摺り衣
今来て、月を、松島や(宮城県松島町)
平泉の郡まで、残らず尋ね巡れども(岩手県平泉町)
その行き方は、なかりけり
思い駿河の富士の根を(静岡県)
他所ながらも、よう打ち眺め
『風に靡くは、富士の煙
空に消えて、行方も知らぬ、我が想いかな』
(新古今和歌集:西行法師)
と、詠せし人の心をも
今、身の上に、白雪の
薄き契や、親と子の
一世に限り、夢の世に
仲、絶え絶えの蔦の細道分け行けば(静岡県静岡市)
一夜、岡部の宿を過ぎ(静岡県岡部町)
小夜の中山、掛川や(静岡県掛川市)
三河に架けし、八橋や(愛知県知立市八橋)
蜘蛛手に物を思うらん
伊良湖崎より、舟に乗り(愛知県田原市:渥美半島先端)
伊勢の泊(とまり)に上がりけり(三重県伊勢市)
大神宮に参りつつ、我が子に逢うせと祈念して(伊勢神宮)
それよりも、行く程に
熊野の参り、三つの山、尋ね給えど、行き方無し(熊野三社)
三十三年、尋ぬれど、その行き方はなかりけり
風には、脆き露の身の
只、つれなきは、命なり
九国中国、尋ねんと
四国に渡り、淡路島
豊後豊前に差し掛かり(大分県・福岡県)
「如何に、我が子の玉松」
と、問えど答うる者は無し
丹後の国に聞こえたる
天橋立、成り合し久世戸の文殊を伏し仰ぎ(知恩寺文殊堂)
但馬、過ぐれば、播磨なる(兵庫県)
こしや々かくかは(不明)宵の宿
過ぐれば、これぞ、須磨明石
早、津の国に聞こえたる
求塚(神戸市中央区生田)、箕面山(みのおやま:大阪市箕面市)
麗々と鳴る瀧の水(箕面滝)
落ちて、逢瀬となるものを
南無や楊柳観音の引く椀、もらし給わずば
兄妹がその中に、せめて一人、引き合わせ
思いを晴らさせ給うべし
あら、有り難やと、伏し拝み
豊島(てしま:大阪府豊中市)、瀬川(豊島河原瀬川宿:現箕面市)、芥川(大阪府高槻市)
行く春、春の花の散り
しどろもどろと泣かるらん
山崎、過ぎて淀の川(京都府大山崎町)
鳥羽の恋塚、眺むれば(京都市伏見区)
時雨ぞ、染むる秋の山
他所は色めく玉絹の
袖を連ぬる都人に
『行方や知ろしめされんや』と
行き来の人に尋ぬれど
その行き方は、無かりけり
哀れとも中々、申すばかりはなかりけり

つづく

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき②

2015年02月24日 12時34分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
弓継 ②

そうして、玉松は比叡山へと向かいましたが、哀れにも玉鶴は道に迷ってしまい、帰る道が分かりません。そうこうしているうちに、能登国の人商人が、玉鶴を見かけるのでした。人商人が
「どこから来たのか。」
と尋ねますと、玉鶴はまだ十一才です。有りの儘に答えてしまうのでした。人商人は、喜んで、筑紫船に玉鶴を売りました。筑紫の人商人が買い取って、又あちらこちらと売られて行きました。そして、とうとう太宰府の山田右五右衛門という裕福な家に買い取られました。ここで、玉鶴は、蚕を飼う仕事を与えられ、毎日桑取りをする生活を送るのでした。
 その頃、筑紫の国司は、橘の国光卿でしたが、御門よりの宣旨があり、上洛することになりました。さて、国司様の行列がやって来ます。桑畑に差し掛かりますと、沿道には、国司様をひと目見ようと、人々が押し寄せていました。国光が、遙かの桑畑を見回しますと、ひとりで仕事をしている玉鶴の姿が目に入りました。国光は、
「私は、この国の国司として、いろいろ見聞してきたが、あの少女のように、ひとり真剣に仕事をする者を見たことが無い。何か事情があるのかもしれない。あの女を連れて参れ。」
と命じました。家来達が、急いで玉鶴を連れて来ると、国光は、
「私は、この国の国司であるが、おまえ一人が、真剣に桑摘みをしているのには、何か訳があるのか。子細があれば、申してみよ。」
と、問い掛けました。玉鶴は、
「はい、私は、加賀の国、頭川の者なのですが、人商人に拐かされ、この太宰府の山田の庄司と言う人に買い留められております。蚕を飼う仕事を命ぜられ、桑の葉を摘まなければならないので、御国司様のお通りを拝みたくても、手を離すことができませんでした。」
と泣く泣く答えるのでした。これを聞いた国光は、
「それは、気の毒なことであった。中国にも、ある娘が薪を拾っていて、王の御幸を拝まなかった話しがあるが、その娘も、この少女と同じ答えをしたという。その王は、人に仕える心の誠実さに打たれて、その娘を最愛したということだ。よし、お前達。この少女の身の代を主に与えて、身請けしてこい。」
と、命じたのでした。周りで見ていた大勢の女房共は驚いて、我も我もと、館に飛んで帰って、この事を山田の庄司に知らせるのでした。
 山田の庄司は、大変に腹を立てて、五人の子供らを集めました。子供達は、
「ええ、馬鹿にしくさって。その娘が欲しいのならば、一言、言ってくれれば、嫌とは言わないものを、なんと礼儀知らずな国司であるか。急ぎ追っかけ、討ち殺せ。」
と、五人の子供を大将に、その勢二百余騎で飛び出して行きました。やがて、山田の軍勢は、追いついて、鬨の声を上げました。
 ここに、国光の郎等、高馬(たかま)の七郎兄弟が、
「狼藉者は、何者か。名乗れ。聞かん。」
と呼ばわると、山田の太郎時春が、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で答えます。
「そこに居るのは、橘の朝臣、国光卿と存じ上げる。我が家で買い置くその女を、押さえて奪い取るとは、言語道断。その女をこちらに返されよ。返さなければ、一人残らずたたき切るぞ。」
高馬の七郎は、これを聞いて、カラカラと笑い、
「さてさて、もっともらしい口上をするものだな。山賊ならば、米銭(べいせん)をくれてやる。早々、帰れ。」
と、相手にもしません。五人の兄弟は、
「なんだと、憎っくき、今の雑言。ええ、思い知らせてくれる。」
と突進し、入れ違え揉み違えての戦となりました。両軍が互いに引いて息をつくと、国光は、
「いやいや、無益な合戦をするな。都への聞こえも悪い。もう、よい。姫を返せ。」
と、命ずるのでした。兄弟五人は、これを聞くと、
「まあ、そういう事でしたら、無理矢理に姫を取り戻そうという訳でもありません。弓矢の礼儀はこれまでとしましょう。どうぞ御上洛下さい。」
と、互いに挨拶を正して、別れたのでした。
こうして、国光は玉鶴を伴って上洛し、玉鶴姫は、やがて国光の一の后となりました。しかし、玉鶴は、片時も父母兄のことを忘れずに、月日を送ったのでした。


さて、一方、比叡山を目指した玉松殿は、やがて、山王権現に着きました。玉松は、神前で、
「ああ、有り難や。ようやくここに参ることができました。今日から、一心に祈りますので、我が心をお導き下さい。」
と、天を仰ぎ、地に伏して、一心不乱に祈るのでした。やがて、権現様も御納受されたのでしょうか、その頃、天台山に、その名も轟く慈覚(じかく)大師(円仁)の一の弟子で、長意(ちょうい)という僧が、山王権現にやってきたのでした。(※慈覚大師・長意、共に天台座主に就いた僧)長意は、玉松を見ると、
「どこから、いらしたのか。」
と、尋ねました。玉松が
「私は、加賀の国、頭川の里の者です。学問をするために、これまで参りましたが、誰一人知った方もなく、只、ひたすらに、権現様に祈誓ばかりです。」
と、答えますと、長意は、
「おお、それは中々、殊勝なお志ですね。そういうことであるならば、愚僧がお引き受けいたしましょう。」
と、玉松を伴って、天台山へと上がったのでした。玉松殿は、長意和尚の弟子となって、学問に精を出しました。元々、利発でありましたから、すぐに顕教密教の両方を修め、人々は、文殊菩薩の化身かと驚いたということです。十九の年で出家をなされると、やがて八宗兼学の大智者と認められ、御年三十五才にして、天台山の第十五代座主延昌とおなりになられました。親の教えのなんと有り難いことでしょうか。

つづく