ちゅうじょう ⑤
鶴岡八幡宮に参拝した二人は、手を合わせて、
「南無や、八幡宮。私たちが、遙々筑紫より、この国までやって来たのは、母の胎内で別れた、父の大橋を探すためです。どうか、父に会わせて下さい。」
と、深く祈願すると、彼の法華経を取り出して、声高らかに読誦を始めたのでした。今では松若も、すっかり法華経を覚えていましたので、二人は、声を合わせて読誦するのでした。
その場に居合わせた参拝の人々は、このお経を聴聞すると、帰ることも忘れて聞き入りました。人々は、
「なんと有り難いお経であることか。これを聞かないで、何を聞く。」
と、言って、折り重なる程に詰め掛けて、じっと耳を傾けるのでした。そこへ、右大将頼朝の御前様が参拝なされました。御前様は、この有様に驚いて、『これはまあ、不思議な事です。まだ幼い者が、この様に尊くもお経を読むとは、これはきっと、八幡様が顕れたに違い無い。』と、お考えになり、安藤七郎を呼ぶと、
「これ、七郎。ここに居る稚児を、ここに留めておくように。」
と、言いつけて御所に急いで引き返したのです。御前様は頼朝公に、
「今、鶴岡八幡宮にお参りに行って参りましたが、大変不思議なことに、十二三歳の子供が二人、法華経を読誦して居るのに出合いました。このお経が大変素晴らしく心に沁みるのです。この稚児を、招いて、是非、ご聴聞して下さい。」
と勧めるのでした。頼朝は、梶原源太景季に命じて、その二人の稚児を、急いで連れて来る様に命じました。早速に源太は、八幡宮に行き、摩尼王を見つけると、
「それなる稚児。我が君、頼朝公がお召しである。早くこちらへ。」
と呼ぶのでした。摩尼王は、
「なんと、有り難や。これぞ、鶴岡八幡のお導き。」
と思って、源太に連れられて、八幡宮を出ようとしましたが、安藤七郎は、
「いやいや、その儘のお姿では、余りに見にくい。この衣装にお着替えなされよ。」
と、上等な小袖と大口袴、それに水干を差し出すのでした。摩尼王は、
「いや、旅の墨衣の儘で結構です。」
と断りましたが、七郎が、
「いやいや、御所にてのお経は、八幡宮のそれとは違いますよ。どうぞお着替え下され。」
と、重ねて言うので、着替えることにしました。
二人は、見違える程の美しい稚児の姿となって、御所の白砂に立ったのでした。さて、頼朝公はといえば、大紋の指貫に、木賊色の狩衣を着て、立烏帽子を被って、笏を手にしておられます。そして、居並ぶ武将は、和田、秩父、畠山、千葉、大山、長沼、宇都宮。その外の諸侍の数は知れません。頼朝が、二人の稚児を近くに呼び寄せます。摩尼王は、臆せず、御座の近くに上がり、法華経を取り出すと、高らかに読誦するのでした。
頼朝公を初めとし、御前の人々も、
「なんと、有り難いお経か」
と、涙を流して、感じ入りました。頼朝は、稚児をつくづくとご覧になって、
「その姿貌も、慈しい。お前は、継母にでも憎まれて家出した者か、それとも師匠に勘当でもされて、国を出てきた者か。何処から来たのか。望みがあるなら言ってみよ。」
と、問いかけるのでした。そこで摩尼王は、
「はい、これは有り難いお言葉です。私は、筑紫の者ですが、、私が、母の胎内にあった時に別れた父が、この国に居ると聞きましたので、父の行方を探すために、鎌倉まで来たのです。」
と話すと、頼朝は、
「ほう、そして、お前は何者であるか。」
と聞きました。摩尼王は、思い切って
「殿の御前で申し上げるのは、畏れ多いことですが、私の父と申すのは、筑紫の国は、大橋の中将です。殿のお怒りにより捕らえられていると聞いておりますが、もしも、まだご存命であるならば、どうぞ一度でも会わせて下さい。もしも、既に死んでおられるのなら、菩提を弔おうと思っております。もしも、まだ生きておられるのなら、どうかお慈悲をもって、お命をお助け下さい。我が君様。」
と、懇願したのでした。頼朝公は、
「なんとも、哀れなことであるな。その大橋のことならば、心配はないぞ。牢獄に繋がれてはいるが、今、呼びに行かせる。只今読誦したお経の布施として、お前に取らせるぞ。」
と、言うと、梶原源太を呼びつけて、
「先年、お前に預けておいた大橋の中将を、この稚児に取らせる。急ぎ解放して渡す様に。」
と命じましたが、源太は、驚いて、
「やや、今日、由比ヶ浜にて首を切ることになっております。」
と、言うのでした。労しいことに摩尼王は、
「ああ、なんと情け無い。どうせ切られるのならば、私が来る前に、切られてしまっていたのなら、こんなに悲しまなくて済んだのに。なんという浅い親子の契りでしょうか。」
と、泣き崩れました。御前の人々も皆、共に涙をぬぐいましたが、頼朝も可哀想に思って、
「ええ、梶原。急ぎ、助命に参れ。誅してはならぬ。」
と、命じたのでした。そして、梶原源太は、馬を飛ばして、由比ヶ浜へ急行しました。父の無事を願う摩尼王の心の哀れさは、言い様もありません。
つづく
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