永平寺開山記 ⑩
しばらく鎌倉で布教を行った道元は、再び修業の旅に出ることにしました。弟子となった最明寺は、名残を惜しみましたが、
「衆生済度の修業の御身ですから、お心に任せましょう。何国へともお出で下さい。そして、お心が止まった土地がありましたら、是非、御寺を建立いたしてください。」と、送り出しました。これは、宝治元年(1247年)八月のことでした。
鎌倉を出立した道元は、波多野出雲守の居る越前の国を目指すことにました。日数も重なり、ようやく道元は、越前の国、湯尾(ゆのお)峠(※北陸街道:福井県南条郡今庄町湯尾)に差し掛かりました。道元はここで一休みしようと、腰を下ろしました。
すると、鬼神が現れ、道元にこう言いました。
「我々は、第六天の魔王の眷属、七千夜叉のその中で、アニラ(額爾羅)神、マコラ(摩虎羅)神の大将である。(※薬師如来に従う十二神将)
しかるに、この度、道元禅師は、疱瘡(※天然痘)を病む時節となりましたので、これより、御身体に分け入り、苦しめ申しあげます。」
道元禅師は、恐れずに、
「無位の真人、面門に現ず、智慧愚痴、般若に通ず、霊光分明にして大千に輝く、鬼神いずれの所に手脚を着けん。」(大般若経)
と、呪文を唱えると、鬼神に向かって柱杖を振り下ろしました。
鬼神達は、たちまちに悟りを得て、頭(こうべ)をすりつけ平伏すると、
「末代に至るまで、この呪文があるところには、二度と現れません。」
と、固く約束をして、消え去ったのでした。
越前の国、湯尾峠の茶屋で売っている「疱瘡神孫杓子」(ほうそうしんまごしゃくし)とは、この時、道元が振った杖の形に木を刻んで、この呪文を疱瘡避けの呪文として書いたものです。(※「湯尾峠孫杓子」という十返舎一九の小説がある)
道元の越前入りの報を受けた波多野出雲守義重(※越前波多野氏:義重は永平寺建立し、曹洞宗の庇護者となった人物)は、丁重に道元禅師をお迎えしました。義重は、
「是非、この越前の国に留まって、お寺を建立してください。」
と、懇願したのでした。道元は、
「それであれば、衆生済度のため、寺地の見立てをいたしましょう。」
と、国内を見て歩き、東の方の峰々が重なり、雲上の土地を選びました。最初のお寺は、波多野重義を奉行として、寛元二年七月十八日に完成しました。その後、寛元四年に、入仏の供養を行い、漢の元号である「永平」を取って、「吉祥山永平寺」と改めたのでした。
そして、道元禅師は、御父道忠、金若丸の菩提のために、法華経全部を修行僧達と共に読誦しました。有り難いことに、この御経の功徳によって、道忠、金若が、成仏の姿を顕しました。 諸々の菩薩が天下り、仏体として顕れ出で、紫雲に乗って、雲井遙かに昇って行く姿は、神々しいばかりでした。
永平寺と道元禅師の御法力。有り難いともなかなか、申すばかりもありません。
終わり
結城孫三郎直伝
元禄二年五月吉祥日
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