角太夫さんせうたゆう ⑤
哀れ姉弟は、別れが辻までやってきました。姉弟はここで涙ならに別れて、姉は
浜へ、弟は山へと登って行くのでした。
姉は、浜辺にやって来ましたが、ひと浪、ひと浪に立つ潮をどう汲んでよいものか見
当も付きません。悲しくなってまた泣き暮れていましたが、潮を汲んでいる海女人のや
り様を見ては、真似をして、涙ぐましくも潮を汲み始めました。やがて時刻も移り、外
の海女人達は、仕事を終えて館へと帰って行きます。置いて行かないで下さいと焦りな
がら、潮を汲んでいると、大きな波に桶も柄杓も押し流されてしまいました。ああ、な
んと言うことでしょう。いくら嘆いても戻って来ません。あまりの事に安寿姫は、もう
これまでと思い切り、小高い岩の上によじ登ると、そこから身投げをしようとしました。
その時、最後に残っていた伊勢の小萩は、安寿の様子を見て、慌てて走り寄って、抱き
止めました。泣き崩れた安寿は、小萩に桶も柄杓も流され、館へ帰れないと話しました。
話しを聞いた伊勢の小萩は、波間に漂う桶と柄杓を取り返して来ると、
「このような、仕事も、今日が始めてのことだから、間違いがあっても当たり前のこと
です。必ず、短気はやめにして、気長にご奉公するのです。とにかく、命が物種です。
さあさあ、一緒に潮を汲みましょう。」
と情け深くも言うと、共に潮を汲みなおし、連れだって館へと戻って行ったのでした。
一方、海と山とに別れた弟は、只一人、友も無く、とほうに暮れて、只泣くより外に
はありません。するとそこに、里の人々が柴を担いで通りかかりました。すると、
「おや、このわっぱは、近頃山椒太夫の館に奉公する者だな。どうやら、柴の刈り方も
分からず、嘆いている様子。よりによって邪険な太夫に使われて、不運なことじゃ。
ひとつ、刈り方を教えてやろう。」
と、言って、鎌を取り直すと、これこう刈って、こう束ねよと、親切に教えてくれました。
しかし、いざその通りにやってはみるものの、そう簡単に行くものではありません。やがて、
人々はもどかしく思ったのか、
「おお、道理、道理、下職とはいえ、慣れぬうちはうまくできるものではない。しかし、
柴を刈らないで帰ったなら、邪険の太夫や三郎が打ち殺すとも限らない。さあ、皆の衆
で、柴勧進して取らせよう。」
ということになり、あっという間に三荷の柴を刈り寄せると、
「さあ、無惨なわっぱよ、これを何度かに分けて運んで行け。」
と、言い残して人々は、帰って行きました。丁度そこに現れたのは、山回りをしてきた
三郎でした。三郎は近づいて来ると、綺麗に刈り取られた三荷の柴を、不思議そうにじ
ろじろと見た後に、こう言いました。
「やあ、お前はさっき、柴の刈り方も分からないと言っておったが、なかなか、上手に
刈るではないか。これほどの腕前ならば、三荷や五荷は、遊び半分。明日からは、七荷
増して、十荷を刈れよ。それができなかったら、ぶっ殺すぞ。」
と、言い捨てて帰りました。
厨子王丸は、これはとても叶わない、どうせ打ち殺されるならば、ここで自害して果
てようと思いましたが、
「いや、待てしばし。姉御に最期を知らせなければ、きっとお恨みあるに違い無い。」
と思い直し、そのまま山を下りました。すると、姉は、弟を迎えに山路まで来ていたのでした。
姉弟は走り寄ると、厨子王は、三郎の仕打ちを話しました。もう自害する外無いと泣き
崩れると、安寿は、
「おお、それは道理なり。私も、潮を汲もうとしましたが、うまくいかずに、身投げを
しようと思いました。しかし、お前に心を引かれて、又ここで会うことができました。
今こそよい折節です。お前はこれより落ちなさい。」
と、再び弟に落ちるように説得を始めました。厨子王は、聞き入れようとはしません。
「その様なことを言ったから、焼き金を当てられたのですよ。落ちたければ、姉上が落
ちればいいでしょ。」
これを聞いた安寿は、とうとう怒り出し、
「何と、焼き金を当てられたのは、私のせいと言うのか。お前が、言った通りにすれば
こんなことにはならなかったのです。私の言うことが聞けないなら、今より姉と思うなよ。
弟あるとも思わない。後の世まで姉弟の縁は切りましたよ。」
と言い捨てて、帰り始めました。驚いた厨子王は、姉に縋り付いて、
「なんと短気な姉上でしょうか。落ちろと言うのならば、落ちましょう。勘当は許してください。」
と、言えば、安寿は涙を抑えて、
「おお、よしよし。嘆いていても仕方無い。ささ、暇乞いの盃をいたしましょう。」
と言うと、樫の葉を盃とし、雪を砕いて酒として、互いに盃を取り交わすのでした。
安寿の姫は、肌の守りの地蔵菩薩を取り出すと、
「のう、厨子王丸、母上の仰せには、姉弟の身の上に自然大事のある時は、このご本尊
様が、身代わりとなってくれるとおっしゃっていました。これからは、これをお前が身
に付けなさい。しかし、これほどまでに憂き目に合いながら、どうして助けてくれない
のでしょうか。」
と、恨み事を言うのでした。ところが、その時、厨子王は姉の顔を見て、
「のう、姉上の額の焼き金の痕がありません。」
と、驚きました。安寿も厨子王の額に印が無いの見て取りました。姉弟が有り難やと、
地蔵菩薩を拝みますと、なんと地蔵菩薩が姉弟の焼き金を額に受けておられたのです。
はっと感じて姉弟は、随喜の涙を流して、感謝しました。安寿は、
「厨子王、この様な奇跡があるからは、いよいよ信じて落ち延びるのです。
これより、在所に下り寺を尋ね、出家に会って頼むのです。また、このような雪の道
では、靴を逆さに履き、杖を逆の持って、登るならば降るように見せるのですよ。さあ、
最早これまで、早く行きなさい。」
と言うと、厨子王は、
「名残惜しやの姉上様、互いに命があるならば、再び巡り会いましょう。」
と言い残して、行きつ戻りつ、振り返り振り返り、谷へと下って行ったのでした。安寿
は、後を見送って、一人つぶやくのでした。
「ああ、明日より後は、憂き事を、誰と話したものやら。恨めしい身のなれる果てじゃ。
定めし、太夫や三郎が、弟はどうしたと聞くに違いない。知らないと答えても通用は
しないだろうけれど、例え責め殺されても、絶対に白状はしない。」
と思い切ると、泣く泣く館へと戻りました。
かの姉弟の別れの体
只、世の中の
物の哀れを留めたりとて
皆、感ぜぬ者こそなかりけれ
つづく
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