yuyuさんと一緒に日光二荒山神社の本宮を訪ねました。
本宮と言うのは、日光二荒山神社の発祥の地です。
非常に混乱しやすいですが、現在日光にある荒山神社は御本社と呼ばれています。
(男体山山頂にあるのが奥宮で、中禅寺湖畔にあるのが中宮祠です)
日光山の開祖である勝道上人は、四本龍寺を本宮に建てました。
これが日光山で最初の寺院です。
四本龍寺は、紫の煙が立ち上がった紫煙石の「紫煙立寺」の音の変化だと言われているそうです。
これは修験者が護摩を焚いた場所です。
現在の二荒山神社(御本社)は、勝道上人の四本龍寺(本宮)を移動して建てたものです。
で、さらに混乱させてあげましょう!
そもそも日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社とは全くの別物です。
日光二荒山神社は、二荒山(男体山)を御神体山と崇める神社です。
境内は、日光国立公園である日光連山を含む広大な境内地であり、さらに華厳の滝や下りのいろは坂、重要文化財である神橋も含まれています。
しかしながら現在では、二荒山神社(御本社)が輪王寺に囲まれた状態であり、四本龍寺(本宮)は輪王寺の外に追い出されています。
そして日光山の開祖である勝道上人の墓地は東照宮の上位にある山内から、仏岩の裏に移されて輪王寺の管轄となっています。
さて、複雑・難解な日光の二社一寺の関係を大胆にまとめてみましょう。
以下は、私の推論です。
1)男体山は、縄文時代から信仰の対象となり、山頂に供え物がされていた。
2)日光山の開祖である勝道上人は登頂に成功した登山道を整備して、二荒山としての信仰を確立した。
3)勝道上人の死後、日光の山内の頂点部に墓地を起き、聖地とした。
4)日光の山内は山岳宗教の中心地となり、室町時代になると修験者(僧兵)の数は数千人レベルとなった。
5)この日光山の僧兵に対して、宇都宮の大明神は、宇都宮氏が僧から武士となることで宇都宮城を建設した。
6)戦国時代になって、秀吉が小田原の北条氏を攻めると、日光山と壬生氏などの多くの関東の武将は北条方に加担した。
7)一方で宇都宮氏は秀吉に加担して、小田原城が落城した後の宇都宮仕置では宇都宮城に秀吉を招き入れた。
8)秀吉は鎌倉時代から戦勝の神である大明神(宇都宮二荒山神社)が関東および奥州の平定に重要だと認識していた。
9)日光山の僧兵は秀吉によって潰されて、領地はほとんどを没収された。
10)秀吉没後、江戸幕府を開いた家康は、やはり宇都宮の重要性を感じていた。
11)しかしながら家康は、秀吉に媚びへつらった宇都宮氏ではなく、秀吉が滅ぼした日光山を選んだ。
12)日光山は、勝道上人の墓地のある仏岩を聖地とした山城であり、家康はその山城の正面入り口を墓地とすることにした。
13)家康が東照大権現となり日光山に祀られるために、秀忠は勝道上人の墓地を仏岩の裏に移動して、四本龍寺(本宮)のある場所に御本社(現在の二荒山神社)建てた。
14)家光は、家康の墓地を大々的に豪華絢爛にリフォームして東照宮の体裁を祭り上げた。
15)天海僧正は、日光山をまとめ上げるために輪王寺を起こして、勝道上人の墓地・四本龍寺(本宮)・東照宮・本社(現在の二荒山神社)をまとめ上げた。
16)明治となり神仏分離により、東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺となった。
17)その結果、日光山内における輪王寺の権力と男体山を含む広大な地域を配下に置く二荒山神社との間で矛盾が生じてきた。
18)その矛盾とは、広大な日光全体を統括するはずの二荒山神社が、日光山内においては輪王寺の管轄内に置かれているということである。
勝道上人の聖地は四本龍寺(本宮)のものでしたが、東照宮ができると追い出されてしまいました。
この開山堂は、輪王寺の管轄です。
その裏手に勝道上人の墓があります。
そして、その崖の上が勝道上人の墓地があった場所です。
この崖は稲荷川にそって続き、天然の城壁となっています。
この崖を登ると全ての謎が解決します。
勝道上人の墓地があった場所はここです。
ここは日光山の中心部となります。
ちょうど等高線がグルグル巻いている真ん中です。
勝道上人の聖地は、崖を登り、尾根を歩くと行くことができます。
山頂付近は平坦となり、山城を築く余地があります。
さらに家来(僧侶)の住まいも確保できそうです。
ここを下ると、家康の墓地(東照宮)に行き着きます。
ここが家康の墓地です。
しかし東照宮は石垣で囲まれ、、勝道上人の聖地を侵してはいません。
そうすると聖地である勝道上人の墓地があった場所は誰のものでしょうか?
二社一寺の配置がこれです。
聖地に対する二社一寺の関係です。
1)東照宮には聖地が含まれていない。
2)聖地の持ち主である四本龍寺は、権利を奪われて二荒山神社に引き継がれている。
3)しかし輪王寺が四本龍寺(本宮)を管轄内においているために、輪王寺と二荒山神社との間で聖地の所属を決着できない。
4)結果として、聖地である勝道上人の墓地があった場所は誰も権利を主張することはできない。
東照宮の山の上にある日光山の聖地・・・
そんなロマンを語りながら、yuyuさんと一緒に日光を歩いています。
本宮と言うのは、日光二荒山神社の発祥の地です。
非常に混乱しやすいですが、現在日光にある荒山神社は御本社と呼ばれています。
(男体山山頂にあるのが奥宮で、中禅寺湖畔にあるのが中宮祠です)
日光山の開祖である勝道上人は、四本龍寺を本宮に建てました。
これが日光山で最初の寺院です。
四本龍寺は、紫の煙が立ち上がった紫煙石の「紫煙立寺」の音の変化だと言われているそうです。
これは修験者が護摩を焚いた場所です。
現在の二荒山神社(御本社)は、勝道上人の四本龍寺(本宮)を移動して建てたものです。
で、さらに混乱させてあげましょう!
そもそも日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社とは全くの別物です。
日光二荒山神社は、二荒山(男体山)を御神体山と崇める神社です。
境内は、日光国立公園である日光連山を含む広大な境内地であり、さらに華厳の滝や下りのいろは坂、重要文化財である神橋も含まれています。
しかしながら現在では、二荒山神社(御本社)が輪王寺に囲まれた状態であり、四本龍寺(本宮)は輪王寺の外に追い出されています。
そして日光山の開祖である勝道上人の墓地は東照宮の上位にある山内から、仏岩の裏に移されて輪王寺の管轄となっています。
さて、複雑・難解な日光の二社一寺の関係を大胆にまとめてみましょう。
以下は、私の推論です。
1)男体山は、縄文時代から信仰の対象となり、山頂に供え物がされていた。
2)日光山の開祖である勝道上人は登頂に成功した登山道を整備して、二荒山としての信仰を確立した。
3)勝道上人の死後、日光の山内の頂点部に墓地を起き、聖地とした。
4)日光の山内は山岳宗教の中心地となり、室町時代になると修験者(僧兵)の数は数千人レベルとなった。
5)この日光山の僧兵に対して、宇都宮の大明神は、宇都宮氏が僧から武士となることで宇都宮城を建設した。
6)戦国時代になって、秀吉が小田原の北条氏を攻めると、日光山と壬生氏などの多くの関東の武将は北条方に加担した。
7)一方で宇都宮氏は秀吉に加担して、小田原城が落城した後の宇都宮仕置では宇都宮城に秀吉を招き入れた。
8)秀吉は鎌倉時代から戦勝の神である大明神(宇都宮二荒山神社)が関東および奥州の平定に重要だと認識していた。
9)日光山の僧兵は秀吉によって潰されて、領地はほとんどを没収された。
10)秀吉没後、江戸幕府を開いた家康は、やはり宇都宮の重要性を感じていた。
11)しかしながら家康は、秀吉に媚びへつらった宇都宮氏ではなく、秀吉が滅ぼした日光山を選んだ。
12)日光山は、勝道上人の墓地のある仏岩を聖地とした山城であり、家康はその山城の正面入り口を墓地とすることにした。
13)家康が東照大権現となり日光山に祀られるために、秀忠は勝道上人の墓地を仏岩の裏に移動して、四本龍寺(本宮)のある場所に御本社(現在の二荒山神社)建てた。
14)家光は、家康の墓地を大々的に豪華絢爛にリフォームして東照宮の体裁を祭り上げた。
15)天海僧正は、日光山をまとめ上げるために輪王寺を起こして、勝道上人の墓地・四本龍寺(本宮)・東照宮・本社(現在の二荒山神社)をまとめ上げた。
16)明治となり神仏分離により、東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺となった。
17)その結果、日光山内における輪王寺の権力と男体山を含む広大な地域を配下に置く二荒山神社との間で矛盾が生じてきた。
18)その矛盾とは、広大な日光全体を統括するはずの二荒山神社が、日光山内においては輪王寺の管轄内に置かれているということである。
勝道上人の聖地は四本龍寺(本宮)のものでしたが、東照宮ができると追い出されてしまいました。
この開山堂は、輪王寺の管轄です。
その裏手に勝道上人の墓があります。
そして、その崖の上が勝道上人の墓地があった場所です。
この崖は稲荷川にそって続き、天然の城壁となっています。
この崖を登ると全ての謎が解決します。
勝道上人の墓地があった場所はここです。
ここは日光山の中心部となります。
ちょうど等高線がグルグル巻いている真ん中です。
勝道上人の聖地は、崖を登り、尾根を歩くと行くことができます。
山頂付近は平坦となり、山城を築く余地があります。
さらに家来(僧侶)の住まいも確保できそうです。
ここを下ると、家康の墓地(東照宮)に行き着きます。
ここが家康の墓地です。
しかし東照宮は石垣で囲まれ、、勝道上人の聖地を侵してはいません。
そうすると聖地である勝道上人の墓地があった場所は誰のものでしょうか?
二社一寺の配置がこれです。
聖地に対する二社一寺の関係です。
1)東照宮には聖地が含まれていない。
2)聖地の持ち主である四本龍寺は、権利を奪われて二荒山神社に引き継がれている。
3)しかし輪王寺が四本龍寺(本宮)を管轄内においているために、輪王寺と二荒山神社との間で聖地の所属を決着できない。
4)結果として、聖地である勝道上人の墓地があった場所は誰も権利を主張することはできない。
東照宮の山の上にある日光山の聖地・・・
そんなロマンを語りながら、yuyuさんと一緒に日光を歩いています。