それでも人生はつづく。
そして人間は自分とは何かをしばしば考える。
自分とは何かを考えることによって、
いったい何が知りたいか、何がほしいか、何をやりたいか、
できるかぎりに明確にする。
自らの欲望を気づくことによって、生きる方向、課題がより明確になる。
人生について考えるということは、
いま自分がどのような生き方をしているか、
この生き方でいいのか、
これからどのような生き方をするのか、
を考えるということだ。
ここで、人生の意味が問題となる。
考えるということは、意味を考えるということに他ならない。
人生の意味とは自分自身の問題である。
そうすすけがどう生きるか?
只それだけのことである。
自分探しの落し穴は過去の出来事に人生の意味を求めてしまう。
すると、只それだけの人生が喪失してしまい、意味は独りよがりな言い訳となり、自分がわからなくなってしまう。わからないから、また自分探しをするという螺旋状に堕ちていく地獄めぐりとなる。
そうすけは、どう生きるのか?
この問いが浮かび上がるときは、喪失体験のあとが多い。
なにものかを失ったとき、どう生きるかとは、
失ったものと失っていないものを明確にし、
明日、変えられることと変えられないことを確認して、
行動を起していく。
この行動こそ自分自身の答なのである。
その答を評価できるものは、神だけである。
そうすけの鼓動は打っている。
生きている。只それだけでいいのである。