お問合せ等は、
メッセージを送る
クリック
うどんの研究
連載中
(13)うどん雑学
3.小麦粉の地域の食文化料理
㉘奈良県
古都奈良の「饅頭際」と
まんじゅうのルーツ
6/7 new
現在、東京に塩瀬総本家が
ありますが、 明治時代より
「宮内庁御用達」の和菓子
商として社会的な信用を築
かれ、創業 650余年の歴史
と伝統を誇る老舗の和菓子
店として繁栄されています
。 祝事に配られる甘い紅白
饅頭には、このようなルー
ツが秘められていたのです。
(次回に続く)
5/7
㉘奈良県
古都奈良の「饅頭際」と
まんじゅうのルーツ
6/7 new
現在、東京に塩瀬総本家が
ありますが、 明治時代より
「宮内庁御用達」の和菓子
商として社会的な信用を築
かれ、創業 650余年の歴史
と伝統を誇る老舗の和菓子
店として繁栄されています
。 祝事に配られる甘い紅白
饅頭には、このようなルー
ツが秘められていたのです。
(次回に続く)
5/7
浄因と官女の結婚式の時に
は、紅白饅頭が各所に配ら
れ、その一組を子孫繁栄を
願って丸い石の下に埋めた
といわれていますが、林神
社の境内には「饅頭塚」と
して今も残っています。
林浄因の子孫は後に京都に
移りますが、 応仁の乱を避
けて、一時愛知県塩瀬村 (
現在の愛知県新城市塩瀬)
へ移り、その地名を屋号と
します。
(次回に続く)
4/7
この饅頭を日本に伝えたの
は、室町時代の貞和5年(
1349)中国から来た僧・
林浄因でした。 林浄因は、
仏都奈良に居を定め、中国
の「マントウ」をヒントに
「饅頭」造りを始めますが、
僧侶は肉食ができないこと
から肉の代わりに小豆を煮
詰めて甘葛と塩で味を調え
た餡を小麦粉で作った皮に
包んで蒸し上げた饅頭を考
案したのです。柔らかな皮
、小豆のほのかな甘さは、
評判となり「奈良饅頭」と
して一気に広まりました。
その饅頭は、後村上天皇へ
も、献上され、浄因は官女
を賜ったと伝えられていま
す。
(次回に続く)
3/7
孔明が率いる蜀の軍が、中
国南方を平定して蜀に帰る
途中、濾水という川が氾濫
して渡ることができなくな
りました。 地元の人は、人
間の首を切って神に捧げな
くてはならないと言います
。 部下を殺すに忍びない孔
明は、一計を案じて小麦粉
をこねたものの中に牛や羊
の肉を入れて、人間の頭の
形にしたものを川の神に奉
ったのです。 翌日、川の氾
濫は、治まったとか、これ
が饅頭の原型といわれてい
ます。 蛮地における儀式に
人の頭の代わりに用いられ
たところからまんとう蛮頭
だったのが、饅頭になった
といわれています。
(次回に続く)
2/7
境内では、地元県菓子工業
組合が饅頭などの即売と上
用饅頭の製造実演を行ない
、その造りたての饅頭を参
拝者に無料で配布されるな
ど祭りは毎年盛大に催され
ています。 奈良は、饅頭の
発祥の地と伝えられていま
す。 「 奈良町回顧録の奈
良町伝説」の記述よりその
ルーツをご紹介することと
します。 饅頭のはじまりは
中国と伝えられていますが
、中国では饅頭の始祖は、
三国時代の諸葛孔明だとい
われています。
(次回に続く)
1/7
古都奈良の漢国神社境内に
ある林神社には、饅頭の神
様として始祖、林浄因が祀
られています。この神社で
は、毎年4月19日に製菓業
の発展を願う大祭「饅頭祭
」が開催されています。
4月19日は、日本に初めて
まんじゅうの製法を伝えた
僧・林浄因の命日と伝えら
れるこの日に毎年開かれて
いる。祭り当日は、近畿各
府県の菓子組合の方々をは
じめ全国の和菓子業者、浄
因の子孫「塩瀬総本家」(
東京都)、中国領事、県、
市の関係者などが参列し、
祭典が執り行われます。
神殿には、全国の和菓子業
者から紅白まんじゅうなど
百種類ほどの和菓子やお茶
が供えられ、宮司による献
菓、献茶そして祝詞をささ
げて製菓業の繁栄を祈祷さ
れる。
(次回に続く)
やせうま 2/2
おもしろい名前ですが、名
の由来は、やせうまの「や
せ」は「八瀬」であるとい
われ、その語源は通常、次
のように伝えられているよ
うです。平安時代、都から
藤原鶴清麿という幼い貴族
が、豊後の国に下向し隠れ
住んだ。鶴清麿の身の回り
の世話をする女は、京都の
八瀬出身だったらしく「八
瀬(やせ)」と呼ばれた。
八瀬は、おやつをせがまれ
ると小麦粉をこね、長く伸
ばして麺状にして茹で、こ
れにきな粉をまぶしたもの
を作って、鶴清麿に食べさ
せた。鶴清麿はこの食べ物
が欲しい時、「八瀬、うま
」(「うま」は美味しい食べ物
の幼児語)といい、「やせ
うま」の語源となった。と、
言われています。
(次回に続く)
は、紅白饅頭が各所に配ら
れ、その一組を子孫繁栄を
願って丸い石の下に埋めた
といわれていますが、林神
社の境内には「饅頭塚」と
して今も残っています。
林浄因の子孫は後に京都に
移りますが、 応仁の乱を避
けて、一時愛知県塩瀬村 (
現在の愛知県新城市塩瀬)
へ移り、その地名を屋号と
します。
(次回に続く)
4/7
この饅頭を日本に伝えたの
は、室町時代の貞和5年(
1349)中国から来た僧・
林浄因でした。 林浄因は、
仏都奈良に居を定め、中国
の「マントウ」をヒントに
「饅頭」造りを始めますが、
僧侶は肉食ができないこと
から肉の代わりに小豆を煮
詰めて甘葛と塩で味を調え
た餡を小麦粉で作った皮に
包んで蒸し上げた饅頭を考
案したのです。柔らかな皮
、小豆のほのかな甘さは、
評判となり「奈良饅頭」と
して一気に広まりました。
その饅頭は、後村上天皇へ
も、献上され、浄因は官女
を賜ったと伝えられていま
す。
(次回に続く)
3/7
孔明が率いる蜀の軍が、中
国南方を平定して蜀に帰る
途中、濾水という川が氾濫
して渡ることができなくな
りました。 地元の人は、人
間の首を切って神に捧げな
くてはならないと言います
。 部下を殺すに忍びない孔
明は、一計を案じて小麦粉
をこねたものの中に牛や羊
の肉を入れて、人間の頭の
形にしたものを川の神に奉
ったのです。 翌日、川の氾
濫は、治まったとか、これ
が饅頭の原型といわれてい
ます。 蛮地における儀式に
人の頭の代わりに用いられ
たところからまんとう蛮頭
だったのが、饅頭になった
といわれています。
(次回に続く)
2/7
境内では、地元県菓子工業
組合が饅頭などの即売と上
用饅頭の製造実演を行ない
、その造りたての饅頭を参
拝者に無料で配布されるな
ど祭りは毎年盛大に催され
ています。 奈良は、饅頭の
発祥の地と伝えられていま
す。 「 奈良町回顧録の奈
良町伝説」の記述よりその
ルーツをご紹介することと
します。 饅頭のはじまりは
中国と伝えられていますが
、中国では饅頭の始祖は、
三国時代の諸葛孔明だとい
われています。
(次回に続く)
1/7
古都奈良の漢国神社境内に
ある林神社には、饅頭の神
様として始祖、林浄因が祀
られています。この神社で
は、毎年4月19日に製菓業
の発展を願う大祭「饅頭祭
」が開催されています。
4月19日は、日本に初めて
まんじゅうの製法を伝えた
僧・林浄因の命日と伝えら
れるこの日に毎年開かれて
いる。祭り当日は、近畿各
府県の菓子組合の方々をは
じめ全国の和菓子業者、浄
因の子孫「塩瀬総本家」(
東京都)、中国領事、県、
市の関係者などが参列し、
祭典が執り行われます。
神殿には、全国の和菓子業
者から紅白まんじゅうなど
百種類ほどの和菓子やお茶
が供えられ、宮司による献
菓、献茶そして祝詞をささ
げて製菓業の繁栄を祈祷さ
れる。
(次回に続く)
やせうま 2/2
おもしろい名前ですが、名
の由来は、やせうまの「や
せ」は「八瀬」であるとい
われ、その語源は通常、次
のように伝えられているよ
うです。平安時代、都から
藤原鶴清麿という幼い貴族
が、豊後の国に下向し隠れ
住んだ。鶴清麿の身の回り
の世話をする女は、京都の
八瀬出身だったらしく「八
瀬(やせ)」と呼ばれた。
八瀬は、おやつをせがまれ
ると小麦粉をこね、長く伸
ばして麺状にして茹で、こ
れにきな粉をまぶしたもの
を作って、鶴清麿に食べさ
せた。鶴清麿はこの食べ物
が欲しい時、「八瀬、うま
」(「うま」は美味しい食べ物
の幼児語)といい、「やせ
うま」の語源となった。と、
言われています。
(次回に続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます