この言葉を金科玉条・座右の銘として長年過ごしてきたが、海音寺潮五郎氏の「孫子」の一文でガツンと一発鉄槌を食らったような気がした。
それに関する部分を少し簡略化して書き出してみると、
「無欲な者はまことに少ない。とるべからざるものを取り、つくべからざる位置に就こうとする者があまりに多い。
そのためこの世はいがみ合い、角突きわせ、血を流し合い、殺し合う場所になっているから、無欲恬淡で一身を清く高く持していく人に対して崇敬の念をおこすのは道理である。」
「呉の賢公子(王子)に“延陵の李子”という大へんな賢人がいた。その評判を聞いて、ある王がこの賢人に天下を譲ろうとしたのを避けて山に隠れた。
後に再び高い地位につけようとしたところ、嫌な話を聞いて耳が汚れたと川で耳を洗った・・・、この人のことを高くいさぎよいと世人は賛美している。」
以下の部分は海音寺氏の創作であろうが、
「ただ無欲なだけで、自分のことしか考えない人としか思えない。その無欲は徳の一つではあるが、世を逃れて一身のことしか考えない人の無欲に何の徳がありましょう。」
これに小生はガツンと来た。
「世に出て働く人間には、徳や、才や、学問以外に、最も必要なものがある。それは度胸といってもよく、図々しさといってもよく、俗気といってもよく、事務処理能力ともいってもよく、人と表面だけを合わせることのできる軽薄さといってもよい・・・。」
生臭爺さんになるべく大きく方向転換してみるのもおもしろそうである。