昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

まとめ・東海道五十三次、日本橋へゴール!

2010-04-15 23:52:14 | 東海道五十三次
(4月13日の記録)
とうとう東海道五十三次ひとり歩きシリーズの最終日を迎えた。2007年4月14日、3年計画で京都三条大橋をスタートする時、最終日は、70歳の誕生日2010年4月13日と宣言をして、HPにすべての予定と経過を公開し続けてきたが、ほぼ計画通りに順調に楽しく歩き続けることができた。

あれから3年、30日目は「品川」から「日本橋」まで8キロ。これまでは、ひとり歩きというタイトル通り、ひとり歩きに徹してきたが、今回はお二人が同歩を申し出てきたので一緒に歩くことにした。


日本橋では応援を続けてくれたまだ見ぬ応援コミュニティの皆さんが待ってくれている、ゴールは16時30分とお知らせしてあるので、到着時間を約束したプレッシャーもあるが、それより会ったことのない皆さんに会える楽しみを思うと、新大阪9時37分の新幹線のぞみが12時16分に品川に着くまでわくわくわどきどきが続いた。

12時30分、背中に鯉のぼりをたてて、待ち合わせ場所タクシー乗り場横でりょうさんとスズさんと合流。スズさんは、ずっと応援をしてもらってきた一番古い応援団員?昼食代わりのパンを買っていざ出陣!スタート。


15号線をすすむ。やっぱり一人で歩くのとは違ってなんとなく自分のほうにぎこちなさがあって、泉岳寺へ行くまでは足も戸惑っていた。

最初に訪れた泉岳寺は、慶長17年(1612)、江戸城近くで創建されたが、寛永の大火で焼失、浅野家他、五大名の協力で寛永18年(1641)に現在地に移されたらしい。浅野家との縁はこのときに始まった。曹洞宗・江戸三カ寺のひとつ。赤穂浪士・浅野長矩と大石良雄をはじめとする義士の墓で知られている。境内には浪士の墓の他、浅野内匠頭切腹の際にその血がかかったという血染めの梅と石、吉良上野介の首を洗ったという首洗いの井戸が残っていた。47義士の墓前には線香の火が絶えることはないという。ゆっくりする間もなく去って行くのは気が重たかったが仕方がない。




高輪2丁目を過ぎ高輪神社へ寄った、いつものように今日の交通安全を祈願。少しすすみ道路右側にあるという高輪木戸跡を探す、高輪の木戸は宝永18年(1710)に江戸の南の入口として道幅約6間の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めして、治安の維持と交通規制を持っていたところらしい。いまでも立派な石垣の一部が残っている。


このあたりが日本橋から6キロ地点。13時40分、スタートして約1時間、かなりのスローペース。内心やばいかな?
三田歩道橋、高輪郵便局を過ぎ左手にある八幡神社へ寄ってみた。和銅2年(709)創建の古い歴史を持った神社だ。このあたりから三田という地名、もともと朝廷に献上する米を作っていたために御田と呼ばれたのが由来で風光明媚な台地だったらしい。


さらにすすむと札の辻交差点に出た。
地図は、スズさんに渡した、えらそうに次の見所は?と指示をする。地図には見所に印をつけているので見逃さないようにとお願いをした、付いてくるならそれくらいの仕事しろ!というわけ。

田町駅前の交差点からより道をして息子が6年間学んだ大学へよってみた、院の卒業式に来てから何年振りか・・・レンガ造りの建物がなつかしい、図書館前の福沢諭吉像を訪ねてみたかったが、時間的なことと、そこまで二人をひっぱりまわすことはできないのでパス。


通りから東京タワーが目の前に見えた、ああ東京タワー。青信号を待ってあの交通の激しい道路のど真ん中で東京タワー撮影、二人には来ないように言って・・・これ、ランドセル撮影術なり。素人?はやらないこと。


元の東海道に戻るのに三人でもわからなくなった。初めて地元の人に尋ねた、三菱自動車角の薩摩藩鄭跡がみつかってほっとした。三人が1つの地図に額をよせて、どうじゃらこうじゃら・・・なにしろ手持ちの地図は日本橋から書かれていて、こちらは逆を歩いている、これがむずかしい。京都からずっとそれに悩まされ続けて歩いてきた。14時38分。ゴールまで2時間弱、すこしきついかなあ・・・心配になってきた。

西郷・勝会見の碑と薩摩藩邸のきれいな碑が立っていた。江戸城無血開城を取り決めた勝・西郷会談の行われた薩摩藩邸、当時は屋敷のすぐ裏は海に面した砂浜で、薩摩から送られてくる米などがここから陸揚げされていたという。


三田を過ぎ芝へ、やがて金杉橋へついた、川に屋形舟がたくさん停泊していた、花見シーズン、毎日、ここは夜になると風流な宴が繰り広げられるのだろう・・・神野美伽の歌に金杉橋、屋形船のくだりがあるのを思い出した。


次は増上寺へ、大門の交差点から左へ入ると増上寺の大きな山門が見えてきた。高校生の時、東京の伯母に連れられてきて以来50年余りになる、まったく記憶にない。
明徳4年(1393)、聖しょう上人によって開基、江戸幕府成立以降は、徳川家康の手厚い保護があり、徳川家の菩提寺として選ばれ、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の墓がある。


ご朱印をもらって東京タワーを背景にデジカメをかまえたら・・・・おっ、おっ!だれ?
目の前にマスクをして顔を隠した怪しい男がたちはだかった!あの人だ!また、やられた、箱根で待ち伏せされて以来、横浜でも待ち伏せに遭った山賊さんだ!



大門交差点に戻ると15時36分。残り時間は54分、距離は3.5キロ。普通に歩けば問題ないが、まだ見どころを何か所も残しているのできついかも。浜松町を過ぎ新橋5丁目、新橋駅手前、ごちゃごちゃして、漂うにおいが鼻をつく、こんな空気の悪いところで・・・JRのガードをくぐって表通りへ出た。ここでゴールまで2.5キロ。
15時57分。やばいなあ・・・。もう、日本橋で待ってくれているのだろう。
高速道路の下にあるという新橋の親柱さがし、三人で必死で探す、気の毒に鯉のぼりを背中にたてた変なおじさんと一緒では、りょうさんもスズさんも大勢の人からなんと思われるやら。親柱に銀座の柳碑を発見した。あたりは外人観光客がバス待ちして人があふれていた。ひどい悪臭がただよっていた。


このあたりから天下の銀座か、道路の色が違う、柳色なんだろうか。スズさんがゴールのメンバーに携帯で刻々と連絡をしてくれる。もう、みんな揃っているらしい。
ピッチをあげる、急げ急げ、しかし、見所は見逃すな!と言い聞かせて銀座の人波の中を松坂屋、銀座4丁目は16時9分になった。1.6キロ地点。うーん、時間がない!


4丁目交差点、三越、松屋、写真で見なれた景色もほっとけ!速歩、速歩。
きっと後ろの二人は、慣れぬ東海道歩きに戸惑っていることだろう!

マロニエ通りを過ぎ銀座発祥の地の碑前を通過。


高速道路手前の京橋親柱、すぐ見つかった。かってここには京橋川があり橋がかけられていたが昭和34年に埋め立てられ橋は撤去されたらしい。その親柱が残されていた。京橋は、日本橋を発って最初に渡る橋だったそうだ。日本橋と同じ慶長8年(1603)につくられたそうだ。


高速をくぐるとりっぱな江戸歌舞伎発祥之地碑が立てられていた。寛永元年(1624)、中村勘三郎が付近の中橋で江戸歌舞伎を始めた記念碑だ。


すぐ近くに京橋大根河岸青物市場蹟碑もあった。寛文4年(1664)以降、青物市場がもうけられていたところ。16時22分。時間との闘い、もう時間的に30分到着は無理。まずいなあ。ゴール日本橋までちょうど1キロ地点になった。あと少し。


八重洲通の中央分離帯にある八重洲の名前の由来になったヤン・ヨーステン記念碑に寄った。


丸善、高島屋の前を通過、前方を見ながら急ぐ、日本橋がはっきりと見える、向こうで背伸びするようにして手を振っている、こちらも帽子で応える、スズさんが鯉のぼりを振る・・・あっ、カメラをこちらに向けた・・・


お待たせしました!ありがとう!


向こうからこっちへ寄ってきた、ついに日本橋へ着いた!やった!16時38分。万歳!

応援隊の隊長、九州のよっくんさん手製の横幕の両端を持った二人に従って真ん中をすすむ、あいさつの度に立ち止まるのでとにかく橋を渡れとだれかが叫んだ。
初めて会う人ばかりなのでひとりひとりと挨拶もしたい・・・

ここまで来たらスターの行軍みたいなもの、人通りの多い日本橋をそのままの姿ですすむ。
まるでパレードのような気分だった。


ゴールは、高速道路下をすすみ北側の一角にある日本国道路元標。
ここが五街道の起点。やっとそこにたどり着いた、Yさんが約束通りハグしてくれた!
あー、初めての経験に新米の70歳は足から解けていきそうな気分、脳みそはぐちゃぐちゃになっていた、ハグでバクバク、酸欠状態。

そこから撮影ラッシュ、知り合いのプロカメラマンの指示に従って何枚撮ってもらったやら、道行く人たちが立ち止まって人の輪ができた。
NHK来てる?アサヒは!インタビューは共同にしてください!サインは後で!と言いたい放題、一度でいいから言いたかった。

ハプニングの「完歩賞」を道路上でもらった。びっくりした。



全員で記念撮影。


場所を移して夕食会、2次会、70歳の誕生日を日本橋で大勢の仲間と一緒に迎えられた幸せは、生涯の思い出。こんなすばらしいプレゼントをしてくれた応援隊の仲間たち、古い友人たち、多忙な時間をさいて遠くから来ていただいた人たちになんとお礼をしたらいいのやら。居酒屋「北海道八雲町」にて


2次会「高田屋」にて


2次会で席が隣り合わせになった紳士グループと帰りも出口で一緒になった、店の前でそのグループが誕生祝いのコーラスをしてくれた。日本橋ロータリー倶楽部の人たちだった。こんなことがあるだろうか・・・夢のような時間だった。

ホテルに帰ると携帯へはお祝いのメールがたくさん入っていた。興奮してなかなか寝付けなかった。こうして、70歳の初夜はお江戸日本橋近くのホテルで一人で迎えた。
みんなありがとう、ありがとう。


●プロカメラマンの目
https://www.walking-sns.com/u/sakky/QFM7ly8AbkwUImdOThGn

●紹介記事
http://www.walking-sns.com/u/sakky/

感動の一夜が明けたお江戸で!

2010-04-14 23:39:34 | 輝いて生きる
14日

昨夜の興奮が残っていたのか四時には目が覚めて
うつらうつらを繰り返して朝を迎えた
日本橋から新橋まで昨日歩いた銀座ウォーク

新橋からゆりかもめでお台場にある
シューズメーカーのムーンスター社を訪問
昨日、日本橋で出迎えてくれたのは

この会社が運営しているSNSの仲間たち
2年前からオフィシャルブロガーをしているので
挨拶がてら一度訪問してみたいと思っていた


10時に訪問の約束ができていたので   
大変気持ちよく迎えていただいて
社員さんからランドセルさんと声をかけられ

おっ有名人! 

お客様関連部門の室長さんや
執行役員さんとも話ができて
ショールームにも案内してもらった

天気がよかったので弁当を買って
お台場海浜公園駅で下車
弁当を公園の砂浜のベンチで食べた


そこからお台場を散策(第3台場内)


ここから眺める小さな島々(台場)や
レインボーブリッジは絶景
しばしのんびりと時間を過ごした


(第3台場・レインボーブリッジから)

[台場公園]
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が
黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。
設計者は、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で
ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年(1853)8月
に着工、1年3カ月の間に6基が完成しました。

現在は大正15年(1926)に国の史跡に指定された
第3、第6台場だけが残されています。

このうち第3台場は、昭和3年東京市(都)によって
整備され、台場公園として開放されています。
周囲には、海面から5~7メートルの石垣積みの土手が
築かれ、黒松が植えられています。
また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などが
あります。
・・・説明板より・・・





(第3台場)





曇り始めると強い風で寒くなってきたので
あわてて一枚を重ね着をした

いよいよ待望のレインボーブリッジを渡る
約1500メートルの海側・サウスコースを歩く
ここからの眺めは抜群にいいが

(第6台場・レインボーブリッジから)

なにしろ高所恐怖症なのでおそるおそる歩く
それでも慣れてくると絶景を楽しめてきた
写真を撮りながら22分で渡り終えた


そこからJR田町駅までウォーキング
二日間、思い出になる時間を過ごして
品川から新幹線で18時過ぎ大阪へ戻ってきた

たくさんのお祝いメールや
コメントの書き込みをいただいていた
70歳のスタートに大変な励ましとなった

少しずつお礼をさせていただきたい
みなさん、ありがとうございました。

60代最後の日!さらば69歳。

2010-04-12 20:00:51 | 輝いて生きる
今日は60代最後の日ですね

やり残したことはありませんか

こんなメールをいただいた


この一年ずっと同じことを

自分に問い続けてきたが

振り返るより明日を考えよう


明日は70歳

70代のスタートの日

自分だけの特別な日


その日の迎え方にこだわって

三年前に三カ年計画を立てた

その日がいよいよ明日やってくる


東海道五十三次ひとり歩き

京都からお江戸日本橋へ

70歳は日本橋で迎えよう


その三年の思いを夢にして

一歩一歩東海道を歩き続けて

それが明日実現できる


品川から日本橋へ最後の歩き

日本橋では会ったことのない十数人の

勝手応援隊がゴールを出迎えてくれる。


無事に終えて・・・あー疲れた!

2010-04-11 22:59:01 | 仕事
合宿二日目を終えて仕事場へ戻ってきた

今日は朝8時半から21時まで
二日間を全力でびっちり働いて
さすがにくたびれた

荷物をもって
新大阪駅へ降り立った時は
足が重かった

仕事場でひと休憩
これから自宅へ帰って行く

あさっては東海道五十三次最終コース
明日一日しかないが体調を整えて
日本橋で70歳のゴールをしたい。

合宿1日目。

2010-04-10 23:37:47 | 仕事
初日のスケジュールを終えて
宿泊先の部屋へ戻ってきたところ

一息ついて明日の準備にかかる
若い人たちとの勉強は楽しい
韓国の有名大学出身の韓国人がひとりいた
大変熱心で韓国若者の学習意欲の高さを
感じた

明日は6時半から周辺を歩いて
8時半から21時まで二日目の勉強が続く

いい1日にしたい。

週末はまた合宿で留守します!

2010-04-09 19:44:47 | 仕事
先週に引き続いて今週末も勉強会で
合宿にでかけてくる

明日は夜の11時頃になるかも
明後日の帰宅は終電頃になりそう
お付き合い23年目の先だけれど

前日になると準備物が気になって
最終チェックをしているとあれこれ
メモの作成や内容の入れ替えになる

お天気も心配だがそれ以上に大事な
自分の体調を整えて万全な状態で
いい仕事ができるよう明日に備える

戻ってくれば一日おいてお江戸へ行く
そちらのことも気になっているが
まず目の前の仕事に全力を尽くすこと。

長浜城の桜を見てきた。

2010-04-08 18:54:58 | ウォーキング
(6日のひこにゃんの彦根城と桜ウォーク!の続き)
彦根城の桜めぐりをして再びJR彦根駅へ、ここから北陸線の長浜駅へ移動した。


長浜も2年振り、行くと必ず立ち寄るのが駅前にある豊臣秀吉と石田三成の出逢いの像、整備された駅前の一角に出会いの像はいつものように立っていた。

説明板には
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。
秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。


三成公は、ここから五キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地あたりには官名にちなんだ治部という小字が残っています。また、観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。(秀吉公と石田三成公 出逢いの像・・案内板より)

駅の琵琶湖口へまわって豊公園にある長浜城へ向かう。ここの豊公園も桜の名所で公園についたら15時45分になっていた。傾きかけた花曇りの陽光を浴びた長浜城の天守閣が満開の桜に包まれるように咲きそろっていた。




長浜城は、織田信長と浅井長政が戦った姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉が、天正2年(1574)頃、小谷(湖北町)から当地に城下を移し、地名を今浜から長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。

天正11年(1583)、織田勢力を二分する激しい戦いとなった秀吉と柴田勝家との賤ケ岳の戦いでは、ここを根拠地として大勝し、織田信長の後継者としての立場を確立した。秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から五年間在城したことがある。江戸時代になって、慶長11年(1606)には、徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻(大坂)に移るに至って元和元年(1615)に廃城となった。・・・
建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移された。城跡の遺構はあちこちに残されている。


ということで、先に見てきた彦根城とここ長浜城は、深い関係があることがわかる。
公園内の桜の木の下は、夜桜見物、宴会の用意なのだろう、すでに多くの場所がブルーシートで覆われて写真を撮れる状態ではなかった。せっかくの桜もあれではかわいそう、彦根城ほどではないが大勢の観光客も訪れていたのにがっかりしただろう。
この城が一番きれいに見えるのは、琵琶湖岸からだと思っているので湖岸へ足を延ばした。ここも琵琶湖一周で歩いたコースだし、何度も訪れてよくしっているのでしばらく周辺をウォーキング、暖かくて湖面から吹いてくる風がとても気持ちよく感じられた。


戻りのJRは長浜駅でいっぱい、座れずに立ったまま、米原駅で列車を増結してやっと座れた。
彦根駅手前左手の小高い丘に石田三成の佐和山城跡の看板が見えた。安土では信長の安土城跡の丘が夕陽に包まれていた。彦根城、長浜城ともに駅から近い立地にあったおかげで、離れた場所にある二つの城の桜を見ながら軽いウォーキングを楽しむことができて快適な一日、いやしの一日になった。

ひこにゃんの彦根城は桜満開!

2010-04-06 22:56:05 | ウォーキング
先週末の合宿から今週末も合宿が続き来週は東海道五十三次の最終コースでお江戸に行くので今日は「いやしの日」にすることにして滋賀県の彦根を訪ねた。


彦根は桜田門外の変に倒れた大老井伊直弼の城下町として知られている歴史の古い町で、これまでも数多く訪れている個人的にもお気に入りの町だ。
JR彦根駅についたのが12時半、駅前には彦根藩初代藩主の井伊直政の像が立っている。


そこからまっすぐに延びるお城通りの向こうに天守閣がやや左手に見える、10分足らずで突き当りの護国神社を左に行き、すぐ右折する彦根城中濠と満開の桜が目の前に飛び込んでくる。
ここから濠の向こうに天守閣が眺められる最高のスポットで大勢の人が写真を撮っていた。2年前に来た時は冷たい雨で寒々と桜見物をしたが、今日は花曇りながらほぼ満開で濠に映る桜の風情も見事だった。

城の中堀には満開に近い桜が咲きそろって、その向こうに天守閣が眺められて最高のスポット、写真を撮っている人が大勢いた。
二年前に来た時は冷たい雨で寒々と桜見物をしたが、今日は花曇りながらほぼ満開で歓迎してくれるように咲いていた。

何枚撮ったやら・・・デジカメのシャッターを押し続けた。




城への入口、佐和口多聞櫓まで中濠にそって続く松並木は、植樹当時47本あったそうでいろは松並木と呼ばれている。


そのまますすむと松並木の右手に井伊大老(井伊直弼)の歌碑が立っている。
 
「あふみ(近江)の海 磯うつ浪のいく度か 御世にこころを くだきぬるかな」
 
安政7年(1867)の正月、この和歌を井伊家菩提寺の清涼寺に納めたという。
この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。直弼は、この2カ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。(説明板の一部)



中堀にかかる橋を渡り佐和口多聞櫓から城内に入って天守閣をめざしてすすむ。







天守閣前の広場へ行くと桜を求めて観光客が大勢押し掛けていた。天守閣に登るのに30分もかかった。天守閣には登ると何年も前に琵琶湖一周をしたときのコースが眼下に見えるので懐かしい。


彦根城といえば、元祖ゆるキャラの「ひこにゃん」がすっかり有名になっているが、なんと、天守閣下の広場で14時からひこにゃん登場のイベントに遭遇した。大勢の人に囲まれ首に鈴をつけたひこにゃんがいろいろなかわゆいポーズをとるたびに思わず歓声がわいてスターそのもの。大勢の人の後ろからデジカメを持つ手を精一杯延ばして撮った一枚がこの写真。このひこにゃん、バレンタインデーに全国から何千個もチョコレートが届いたというから、オスにゃんこかな?
井伊家の武士は、鎧や旗など赤一色に染め、常に徳川軍の先峰を務め、混戦の戦いの中でも目立つようにしてきた。ひこにゃんの兜も赤!

後ろからデジカメを持つ手を精一杯延ばして撮った一枚がこの写真。


国宝彦根城が、2年前に築城400年祭「井伊直弼と開国150年」を開催したが、その際にマスコットキャラクターとして誕生したひこにゃん、いまではすっかり有名なにゃんこになり、町中にひこにゃんの絵があふれていた。

城内をぐるりめぐって桜を楽しみ、帰りがけに「埋木舎」へ寄った。



埋木舎は、直弼が17歳から32歳まで過ごしたところで

「世の中をよそに見つつも埋もれ木の 埋もれておらむ心なき身は」

と和歌を詠み、武道、茶、能などを学び、この屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と呼んだ。


第11代藩主直中の14男として生まれた直弼に家督を相続する見込みはなかったので埋木舎で生活していたが、直弼が32歳の時、藩主だった兄が亡くなり彦根35万石の藩主となり、しかも安政5年(1858)には、幕府の大老に就き、開国と攘夷に分かれた中を、孝明天皇の勅書も得ずに開国に決め、日米修好通商条約に調印、反対派を弾圧した。2年後の3月3日、江戸城桜田門外で攘夷派の水戸浪士らの襲撃に遭い殺された事件はあまりに有名だ。

城の見えるホテルのラウンジでお菓子コーヒーを飲んでくつろいだが、まだ15時だったので長浜城へ行ってみることにした。


彦根から北陸線の長浜へ移動、ここも2年振り、駅前の豊臣秀吉と石田三成の出逢いの像を訪ねて長浜城へ向かった。以下は明日に・・・

あと8日!

2010-04-05 21:19:45 | 輝いて生きる
やっと暖かくなった
久しぶりの快晴、窓を開けて外の空気を
いっぱい仕事場へ入れた

あと8日で
70歳の誕生日だ
60代は残り少なくなった

その70歳の誕生日を
東海道五十三次の日本橋で迎える
三年前に計画した通り

日本橋で会ったことのない人たちが
待ってくれている
あと8日になった

あるコミュニティで勝手応援隊が
結制されてまる二年になったが
その人たちと70歳の出会いができる

オーバーな表現だが
自分にとって歴史的な日
2010年4月13日

あと8日になった
ドキドキワクワクしている
いい日にしたい。

琵琶湖の三日目最終日。

2010-04-04 18:06:44 | 仕事
琵琶湖の朝は早い

勉強会会場&研修室のある施設は
琵琶湖から流れ出る瀬田川湖畔にある

早朝からボートチームのオールを漕ぐ
音に目が覚める
カーテンを開けると何組ものクルーが
一生懸命にオールを漕いでいる
琵琶湖はボート競技のメッカだ

6時、周辺の散歩にでかけようと思って
いったん起きたが体も疲れているはず

朝の散歩はやめて部屋にとじこもって
今日の資料の再確認と気づきメモを作成

ネットで東海道五十三次の応援をして
くれている友人からメールが入った

ゴールの日のことでいろいろ準備をして
もらっているがその様子が書かれていた

85名+スタッフで90余名の大朝食会
ここの施設の食事はおいしくて楽しい

8時半から三日目のスタート
ビールも飲まず食事も食堂だけの三食だけ
のどの状態もよく声もよく出て快調だった


三日間で学生からどこまで社会人に意識が
変わったかはわからないが実技(形)を重
視したので見た目はかなり変化した

施設内で同じように新人研修をしていた
クルマ関連企業の若者たちも向こうから
大変気持ちよい挨拶をしてくれて若者の
すがすがしさに元気をもらった三日間

12時に終了、昼食後85名を九州から青森
まで5地域別にして記念撮影をした

一人がそっと”若いですね”と言ったくれた
そう思ってもらえたのなら現役◎の評価か?

若者たちとはスタッフとビデオ学習をした後
14時に終了するのが自分の担当は終わった
ので瀬田唐橋周辺のウォーキングを楽しんだ

今朝からの快晴でさくらも三日間の頑張りの
ご褒美のようにきれいに咲いてきていた

そのまま帰阪、仕事場へ戻ったが、さすがに
疲れを感じた

それでも滞りなく責任を果たしてほっとした。


(瀬田唐橋)

(近畿+東海メンバー)

琵琶湖から二日目。

2010-04-03 22:04:48 | 仕事
勉強会二日目を終えて宿泊先の部屋へ戻ってきた

1日たったまましゃべってさすがに少し疲れた
ビールが飲みたいが
万一のことがあってはいけない
禁酒だ!

明日も8時半から三日目
最終日、責任を果たしたい
今日の琵琶湖も寒かった。


琵琶湖畔から

2010-04-02 23:19:12 | 輝いて生きる
今日の琵琶湖畔は冷たい風が吹いて寒かった
瀬田川のサクラもまだ三分咲きで寒そうだった

85人の若者達と遅くまでみっちりと勉強して
部屋に戻ってきてくつろいでいるところ

あすは8時半から22時まで
これからその用意

若い人達と過ごすのは楽しい
明日もみっちりと鍛えてやるぞ!


47年前の自分!

2010-04-01 19:33:45 | ひとりごと
昭和38年4月1日
いまから47年前の今日
社会人としてスタートした日だ

快晴、西宮の夙川沿いにあった寮から阪急電車で
大阪に向かう車窓から眺めた満開のさくらの
情景がいまでもわすれられない

確かな人数は覚えていないが150人ほどだったか
新入行員を代表して答辞を述べている自分の姿
兄が新調してくれたスーツを着ている



古びたコピーしか残っていないが
忘れられない47年前の22歳の自分を見ると
無性になつかしい

社会人としてはいいスタートをしたが
一年後に体を壊したのが悪運のはじまり
ころがり落ちるように沈んでいった

思い出したくもない
消すことができるものなら
人生から消したい時代もあったが

ここまで生きてきて
ここまで生かしてもらってきて
やっと過去の写真をみる気になった

どん底を味わったからこそ
自分ではい上がって行くことを身につけた
若い人たちに語れるものもある

あせるな、くじけるな
じっくり力をつけろ
自分の名前で生きるんだ!

それを今年も教えてやりたい。

さあ新年度のスタート、実践モードへリセット!

2010-04-01 16:54:41 | 交流
今日も昼に駅で新人さんらしい男女の一団と
出合った

どこに行くのだろうか
入社式を終えてこれから新人研修のために
どこかの施設へ移動していくところだろう

服装もきちんとしている
ちゃんと整髪もしている
感じがいい若者たちだ

明日から三日間
一人で85名の新人さんと
合宿で勉強をしてくる

二日目までは朝8時半から22時まで
最終日は13時までが担当だ
息が抜けない三日間

自分にとっては孫世代の若者たち
もうすぐ70になる者の顔を見て
どう見るだろうか・・・

その人たちの前に出て
相手をするのは
大変緊張するし勇気もいる

なによりも立ちっ放しは
体力との勝負
基本的に座って話さない

こんな時にウォーキングで鍛えた
下半身の粘りとフットワークが
自分を助けてくれる

いま頃は入社式のあとから続いた
初日のプログラムも終わる頃だ
疲れたことだろう

明日は85名と会う
今年はどんなメンバーだろう
わくわくどきどきする

この緊張感があるから元気でいられる
配属前の勉強を担当する責任は重い
この責任感があるから現役でいられる

彼らの感想(文)によって評価をされ
合格であれば来年の契約(仕事)になる
不合格であればそれまでだ

これを繰り返して30数年
クリアできなければ現役引退が待っている
ここで引退させられてたまるか!

だから

これから数日は
昨日までの生活をリセットして
すべて仕事モードに!

いい仕事をしてくるぞ

そして

若者から多くの学びをしてくるぞ!


(姫路城中堀-22.3.30)