☆今日3月18日は我が家の先祖、曾祖父・轟が栗川家に養子入りし、姓が名越から栗川に変わった日でした。
追記:川上イサさんと写っている男の子、「久良」となっていますが、年代から、またイサさんの様子からすると、長男・久良さんではないと思われます(2020.9.22追記)
轟の長男である私の祖父・篤彦は明治14年生まれ。
その翌年の明治15年3月18日に、曾祖父・名越轟は妻子を伴い、栗川家に養子入りしました。
養父・栗川用行は、曾祖父が養子に入る時には既に亡くなっていたと思われます(詳細は不明)
養母・スガは島津對馬の長女で天保8年(1837)生まれ
計算してみると、養子である轟じい様(当時32歳)とは13歳しか違わないようです!
☆養母・スガについては、関連記事:今年1月11日の『島津對馬の長女・スガ』もご覧下さい。
☆養父・栗川用行については詳しい事がわかりません。
「さつま歴史人名集」(稲葉行雄 著・高城書房出版)には
[ 栗川 ] ‥‥ 薩州家島津仲 正徳年間、二男以下の苗字栗川氏、諱字は嫡男 久、二男以下は 用 と命名するよう命ぜられた。
と、あります。また、今和泉島津家の家臣にも名を連ねています。 Wikiより→「栗川用常」
大河ドラマ『篤姫』でも「栗川孫六」という人物が出ていました。 過去記事「孫六さん。(mixi日記より)」
※指宿・岩本の今和泉島津家墓地にある当主の墓前の献灯には「用」の字が付いた「栗川」姓の名前がいくつか見られます。
※左は忠剛様の墓前、右は忠冬様の墓前
※鹿児島には割合に少ない姓であり、鹿児島市の教育長が同姓だったことから、中学時代に何人かの教師から度々親族か問われた事がありますが、辿れば繋がるのかもしれません。
10年程前に私がお世話になったお医者様からも聞かれた事があります。その先生は「高校時代の恩師で、教育長の立場よりも現場に籍を置くことを望み教壇に立たれた尊敬する方だった」と仰っていました。
轟の姉・川上イサさんの孫にあたる方から写真のコピーなどを頂いた事があり、そこには同姓の親族らしき名前を書き込んで下さっているのですが、轟との繋がりも残念ながらよくわからないままです。
その写真の中の1枚に、轟の妻・ツタ(私の曾祖母)と一緒に写っている少女がいます。
名前は丹下幸代
着物姿の肩には毛糸で編んだようなケープのようなものをまとい、それとお揃いのような大きな手編み風の帽子を冠って立っていて、椅子に腰掛けたツタが背中に手を添えている写真です。
「明治26年4月22日」と書き添えてあります。
轟は、明治29年には台湾総督府で勤務しているので、鹿児島で撮った最期の写真だと思われます。
☆「丹下幸代」の名前は「さんぎし」に掲載された『都見物日記』の冒頭に出てきます。
これについては、またおいおい書いていきます。
☆上記リンク記事内にあるように「*月刊誌「さんぎし(竹馬)」は昭和32年に創刊され、昭和57年に復刊し、平成19年3月で300号が復刊継続」と書かれていました。