最後の1ページは「さんぎし」未掲載分です。
イサさんのお孫さん・川上久雄さんが平成6年3月27日に完成させたものです。
『都見物日記』(このページは「さんぎし」には未掲載)
(桜島の頭のような山を描いて)↑※トップ画像
此のやうな所が見えて元気も出。チン〳〵甲板にあがり眺めおり候所、早。故郷のなつかしき所などそろ〳〵見え、天保山の前も通りて いよ〳〵前の浜に着き 荷物などかたつけ 端舟(ハシケ)にて上陸致し候。上より皆々様がお出迎に来り居られ、精一殿(久良の弟)ツバタ(津端?)迄来たり居られ 久々にてうれしき事妙々
酒匂問屋より皆々さんとお分かれ致し、精一どのと帰り 武之橋の入口に迄に着く。
又 子供皆々「おとみ」「貞」他に「おみか」「おけさ」来り居り
夕暮より「お君さん」を取寄せ(芸者を呼び の意?)三味などひき 心悦びいたし候。
酒肴にて精一どの待ちうけ居られ 大喜び。さらば地歌「君さん」にお頼み申さん
ペコ〳〵ツン〳〵テン〳〵とひかれ候所 ぢきにオババが踊り。伊勢音頭のナリソコネなど出し大笑。皆々よろこび 嬉しさおめでたさ おかしきなり 実に〳〵すぐれた初のぼりの新下り妙々
(※ 以下は、結びにイサさんの孫・川上久雄氏が書かれたものです)
明治廿三年 寅 五月廿九日着
五十一才 川上いさ 記
この最後の頁は寺師若法師「さんぎし」に記載の内 未完の項を いさ日記原本から猶野(ナオノ)耕一郎・芳即正様の御協力を頂き、いさの孫 川上久雄が完結し 猶野耕一郎氏(久良の娘・丹下幸代、長男)、二階堂飛虎氏(久良の次男=久雄の弟)、内村八紘氏(名越左源太翁 子孫)へ贈る
平瀬実武氏は平成六年一月十八日死去の為 未贈
平成六年 三月二十七日
長い旅を終え、皆さんに迎えられてほっとするやら嬉しいやら、といった様子が目に見えるようです
最初にこれを読んだ時にはよくわからなかった「武之橋の入口」の意味。
「精一どのと帰り」着いた「武之橋の入口」にあった川上家の場所については以前書いています。
『 川上式部邸跡と「授産社跡」 2019-10-19 11:31:49 』
☆下の画像の右下に「武之橋」があります。「松方正義誕生地」と橋との間の一画が川上式部邸跡。(画像共追記:'20. 5.31 15:21)
「子供皆々」と名前が並んでいますが、最初イサさんの子供?と思いましたが、おそらく精一さんの子供さんでしょうか
最後は芸者さんだか三味線弾きの「お君さん」の地歌に合わせて賑やかな様子です。
「オババが踊り 伊勢音頭のナリソコネなど出し」とあるのは、イサさんご本人?
「実に実にすぐれた(東京)初のぼりの新下り」と大満足で締めくくられて、めでたしめでたし、ですね
『都見物日記』ご紹介(完)
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。