いつもお読み下さりありがとうございます
今回は、島津久光公の御両親の墓所を画像でご案内します。
墓所入り口から広場を横切り、
左手の区画が斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所。
案内図のこの画像で、右手やや下の部分です。
入り口の手水鉢。
階段を上ると、正面に斉興公の墓。
周りにはずらっと石灯篭。
背景に緑が広がります。
第27代 島津斉興之墓
石塀に囲まれ、そこだけ異空間な感じも。
こちらはお由羅様=真了院殿。
お由羅様のお墓越しの斉興公の墓。なんだか、ますます二人だけの世界、という空気感
斉興公の墓、向かって左手に「島津周防忠教(ただゆき)=久光公」
2008年に初めて見た時もこんな感じでした。かなり風化も見られますが、刻銘は読めます。
ひとつ隣のものは更に風化が見られます。
ここで、ふと思ったのですが、久光公が「忠教(ただゆき)」だったのはいつ頃かな?ということで、いつものように『島津歴代略記』で確認。父親である斉興公の略歴から考えてみます。
・島津斉興(島津氏二十七代・藩主)… 斉宣長男。母は鈴木甚五郎勝直の女子。お八百。御内証様。宝鏡院殿。
寛政三年(1789年)十一月六日、鹿児島に出生。
※ 享和五年(1808年)斉宣が隠居して斉興が襲封したが、若年だったため藩政は初め祖父・重豪が後見した。
(中略)
※ 嘉永二年(1849年)、嘉永朋党事件、別名,高崎崩れ(俗に「お由羅騒動」)をきっかけに、
結局、同三年(1850年)斉興が引退し、斉彬が後を継ぐことになった。
斉興は安政六年(1859年)九月二十日、鹿児島玉里邸に亡くなった。歳六十九。
亡くなった後の石塔に「忠教(ただゆき)」の刻銘があるということは、1859年時点ではそう名乗ったということ?
この辺詳しくないので参考にはなりませんが
また、久光公の兄・斉彬公が亡くなったのは安政五年(1858年)で、斉興公よりも一年早く亡くなったわけですね。
万延元年(1860年)久光は島津本家に復し、子・忠義を補佐して藩政を執り、「国父」と称えられることとなった。
残念ながら、『島津歴代略記』では一貫して「久光」で書かれているので、名前の変遷についてはわかりませんでした。久光公についての他の本を読めばそのうちわかるかも知れません〜
斉興公の夫人 … 鳥取藩主池田相模守斉邦の妹。弥姫。周子。賢章院殿。
岡田小藤次利武の妹。お由羅。真了院殿。
☆ちなみに、「斉興夫人=賢章院殿(弥姫)」の墓は継豊公の隣に斉彬男子二人の墓と並んで立っています。
墓所の右奥には外への出口があります。
墓所右手の石灯篭。風化しているものも見られます。苔むして、名前が読みにくくなっています。
「御中臈」ほか。
「御年寄 花田」など見えます。
刻銘の部分に苔が。
「徳寿院」などの刻銘もあります。
「◯壽院」?風化で不明。
もう一つ別のもの。こちらは「松壽院」とも読めるが不明。
左端、「徳壽院」か、他のものも埋もれて読めなくなっている。
長年の降灰なども影響があるのかも知れませんが、名前の半分ほどが埋もれています。
石塀にあいた出口から外へ。
お二人の墓所を後にすると、足元に石畳。
振り返ると、斉興公の墓が夕日に浮かび上がっていました。
目の前には、もはや見慣れた吉貴公墓所。特別な空間から解放されて、懐かしささえ感じました。
右へ行くと、久光公墓所前の大階段と広場に出ます。
☆参考になりましたでしょうか?
では、また。