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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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⑭ 島津斉興と真了院殿の墓所は別世界

2022-07-13 10:51:57 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読み下さりありがとうございます 

 

今回は、島津久光公の御両親の墓所を画像でご案内します。

 

 

  墓所入り口から広場を横切り、

左手の区画が斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所。

 

案内図のこの画像で、右手やや下の部分です。

 

入り口の手水鉢。

 

階段を上ると、正面に斉興公の墓。

 

周りにはずらっと石灯篭。

 

背景に緑が広がります。

第27代 島津斉興之墓

 

石塀に囲まれ、そこだけ異空間な感じも。

こちらはお由羅様=真了院殿

お由羅様のお墓越しの斉興公の墓。なんだか、ますます二人だけの世界、という空気感

斉興公の墓、向かって左手に「島津周防忠教(ただゆき)=久光公」

2008年に初めて見た時もこんな感じでした。かなり風化も見られますが、刻銘は読めます。

 

ひとつ隣のものは更に風化が見られます。

 

ここで、ふと思ったのですが、久光公が「忠教(ただゆき)」だったのはいつ頃かな?ということで、いつものように『島津歴代略記』で確認。父親である斉興公の略歴から考えてみます。

 

・島津斉興(島津氏二十七代・藩主)… 斉宣長男。母は鈴木甚五郎勝直の女子。お八百。御内証様。宝鏡院殿。

    寛政三年(1789年)十一月六日、鹿児島に出生。

※ 享和五年(1808年)斉宣が隠居して斉興が襲封したが、若年だったため藩政は初め祖父・重豪が後見した。

         (中略)

※ 嘉永二年(1849年)、嘉永朋党事件、別名,高崎崩れ(俗に「お由羅騒動」)をきっかけに、

結局、同三年(1850年)斉興が引退し、斉彬が後を継ぐことになった。

    斉興は安政六年(1859年)九月二十日、鹿児島玉里邸に亡くなった。歳六十九。

 

亡くなった後の石塔に「忠教(ただゆき)」の刻銘があるということは、1859年時点ではそう名乗ったということ?

この辺詳しくないので参考にはなりませんが

また、久光公の兄・斉彬公が亡くなったのは安政五年(1858年)で、斉興公よりも一年早く亡くなったわけですね。

万延元年(1860年)久光は島津本家に復し、子・忠義を補佐して藩政を執り、「国父」と称えられることとなった。

残念ながら、『島津歴代略記』では一貫して「久光」で書かれているので、名前の変遷についてはわかりませんでした。久光公についての他の本を読めばそのうちわかるかも知れません〜

 

斉興公の夫人 … 鳥取藩主池田相模守斉邦の妹。弥姫。周子。賢章院殿。

        岡田小藤次利武の妹。お由羅。真了院殿。  

☆ちなみに、「斉興夫人=賢章院殿(弥姫)」の墓は継豊公の隣に斉彬男子二人の墓と並んで立っています。

 

墓所の右奥には外への出口があります。

墓所右手の石灯篭。風化しているものも見られます。苔むして、名前が読みにくくなっています。

 

「御中臈」ほか。

 

「御年寄 花田」など見えます。

 

刻銘の部分に苔が。

 

「徳寿院」などの刻銘もあります。

 

「◯壽院」?風化で不明。

 

もう一つ別のもの。こちらは「松壽院」とも読めるが不明。

 

左端、「徳壽院」か、他のものも埋もれて読めなくなっている。

 

 

長年の降灰なども影響があるのかも知れませんが、名前の半分ほどが埋もれています。

 

石塀にあいた出口から外へ。

お二人の墓所を後にすると、足元に石畳。

 

振り返ると、斉興公の墓が夕日に浮かび上がっていました。

 

目の前には、もはや見慣れた吉貴公墓所。特別な空間から解放されて、懐かしささえ感じました。

 

右へ行くと、久光公墓所前の大階段と広場に出ます。

 

☆参考になりましたでしょうか?

 

では、また。

 

 

 

 

 

 

 


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