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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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「5月21日 和田すみ殿と再会、 三原氏母様とも久々にお目にかかり上げ」

2020-05-21 17:21:36 | 『都見物日記』

 前日、大阪の宿屋「増元」に落ち着いた御一行です。

 

『都見物日記』(七)‥‥ ⑥

 五・二一  今日も天気よし。六時過目醒め 茶、朝飯たべ、一寸私二階よりおり候えば、下へ和田すみ殿居られとりあい候て お互いにハラアハラアと申し 挨拶致し、お互いにお噂致し居候ひしに 亦よき所にて御出合申せし事よとて大喜び之事。九時過に皆連れ立ち 近所の風呂屋にゆき ゆるゆると入り、此所へ帰り候。轟殿は三原氏母様の所へ 如何(イカガ)之事かと伺いに参上せられ候。

 両人にてここに留守淋敷致し居候得ば、十一時過に此方へ三原氏母様と轟殿てなみ(←※傍点有り)お出にて、久々に御目に懸り上げ ゆるゆるとお話し申上、此宿屋にて昼飯四人にてたべ候也。 四時過にはお帰之事。 三人は早々夕飯などたべ 大坂の人形芝居見に行き候。これは人形の方よりも浄瑠璃の方が名高きとのこと。少々はおそく参り候故 漸く二幕ほど見候。それでも肝心の跡(アト)語りにておもしろく、耳も新しく相成り候樣 覚え候。明烏にて有之候ひし。此近辺はいろいろの店有り賑々敷事。十一時前に帰り直(スグ)といね申候。

 

 和田すみ殿は、【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば や4月22日の日記 にも書きましたが、この大阪「増元」は、和田屋のおすみ殿の知人のようですね。 帰りに寄ったらまたばったり再会したので喜び合っている様子です。

 轟は、妻・ツタの母、三原氏母様のところへ出かけ、宿屋へ連れ立って参られた後、ゆっくりお話しされ、お昼もこの宿屋で4人で召し上がり、夕方には帰られたようですね。

 大坂での人形浄瑠璃はどんなところで演じられたんでしょうね?「明烏」というのは劇場の名前???

             ↓↓↓

 俄然気になったので「大坂 浄瑠璃 明烏」で検索したら、「明烏六花曙(あけがらすゆきのあけぼの)」と出てきました

上方では「文楽」と言われますね(そういえば随分前に大阪在住の兄から聞きました)。「人形浄瑠璃」というのは関東だそうです。

 

検索した結果、咲寿大夫という方のブログに「文楽は大阪弁で作られたお芝居。じゃあ江戸のお芝居はないの??」という記事がありました。江戸で大流行した「新内節」の「明烏」を元に作られた文楽が「明烏六花曙」だそうです。

 かなり詳しくしかも分かりやすく解説されていて、文楽では「花魁」という言葉は滅多に使われないのだ(この作品には出てくる)とか、花魁の髪飾りや格好、遊郭の文化や衣装なども上方と江戸では違いがあって、その違いも楽しめるのだとか、興味深いことがたくさん紹介されています。読んでみられたら楽しめると思います

 

こちらの→『文楽応援団』というサイトで紹介されていたものによると、

『‥‥ 舞台で上演された初めは嘉永4(1851)年2月、江戸・市村座の『仮名手本忠臣蔵』八段目の裏に清元の所作事『明烏花濡衣(はなのぬれぎぬ)』としてですが、翌3月には大坂・大西の芝居で新内を地とする切狂言『明烏夢泡雪』として上演されています。2年後の嘉永6(1853)年2月には大坂新築地清水町浜の竹本綱太夫座で初めて操り浄瑠璃芝居『明烏雪の曙』「山名屋の段」(もちろん義太夫節)となり、安政元(1854)年4月道頓堀・竹田芝居で現行外題『明烏六花曙』となりました。』

他にも「明烏」について書かれた記事が読めたので、「大坂 浄瑠璃 明烏」で検索してみて下さい〜

「大阪 文楽 明烏」でもいいかも知れません

 

つい長々と書いてしまいましたが、「明烏」に関しては別途記事にすればよかったでしょうか?

ともあれ、大阪での文楽鑑賞、これまた面白かったことでしょうね、イサさん達


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