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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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加治木島津家関係の墓地?

2021-02-15 00:49:06 | 歴史探索

このブログを始めたのは、2008年3月20日の春分の日だった→『春分の日に、ブログを始めてみた。

 

その後、それ以前に書いていたmixi日記を当時の日付でいくつか当ブログに記録し出したのだけど、

2008年3月のブログを読み返してみた。

坂元墓地で猫の兄弟に出会う(mixi日記より)』などを読むと、まだこの頃は名越家のお墓のことも町田家とのこともほとんど知らない状態だったんだなぁ、ということがよくわかる

 

「なぜ?」mixi日記より』(2008年3月10日の日記)に書いたように、左源太の長男の家系の方が書いた資料に載っていた、移設前の長谷場墓地のお墓というものがどうしても気になっていたので、「深固院」だか「長谷場墓地」だかの跡がどこなのか知りたくて市役所で教えてもらったのだった。

 

現在、池之上の玉龍高校の裏手の小高い山にある、深固院龍源寺の墓地があるらしく、

市役所の担当の方によると「加治木島津家の関係の墓しかないですよ」「少し前の台風被害でそのままになってるみたいです」ということでした。

あれ以来行ってないけど、今どうなってるのか、気になっています。
丸十紋のお墓もありましたが、文字は読めない状態でした。
 

 2008年の3月13日、父と行ってみた時に写真も撮ったので、いくつか並べてみます。

 

玉龍高校(2006年以降は中高一貫校になっている)の裏手にある「深固院龍源寺」

 

 また別のお寺さんらしき「發照寺(ほっしょうじ)」の表示もある

その右手に伸びる長い階段を昇ると、

 

   

上から見ると、こんな感じ

 

 

そこから更に奥の小高いところに、墓地、らしきところがあった!

 

その右隣には何やら立派な墓石が‥‥!

 

父の前、向かって左の五輪塔 側面を見ると、

「新納刑部大輔 忠秀 室」とありました。

 

そして、真ん中の石の祠の背後には、草に覆われた墓石群が‥‥既に無縁仏なのだろうか?

  

 

父の前の右手の五輪塔の横にも、雑草に埋もれた小さな墓石が並んでいました。 

 

他にも没年月日や「法名」?の刻字なども見える墓石群‥‥

 

更に、五輪塔の手前にある石祠に添えられた石柱には

「樺山資賢」「小山田貞雄」「向井友敬」など刻まれていました。 

 

他に丸十紋らしきものが刻まれた墓石もありました↓(画像をクリックして見て下さい)

 

 丸十紋の五輪塔 名前は不明ですが、こちらが加治木島津家のどなたか、でしょうか?

 

「亀山氏」の墓石群がありました。右側の墓石に「亀山良盛」の名があります。

 

こちらの五輪塔周辺も「亀山氏」。奥の墓石には「亀山良智」の名も。

 

こう言う状態のものが多くありました。

  

 

更に奥の方にもお墓があるようでした。

 

丸十紋の五輪塔越しに、桜島を撮影

 

この日、上空には飛行船が飛んでいました。

  

結構頭上近くをゆっくりと旋回して行きました。

 

 

日が傾いてきたので、この辺で降りることにしました。

 

登り口とは違う寺の名前、「発照寺」

 

長い階段を降りて帰りました。

 

帰りにはワンコに吠えられつつ見送られ、、、^^;

 

最後に、墓地から見下ろした景色

 
(ここまで全て2008年3月13日撮影)


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