いつもお読みいただき、ありがとうございます
(画像は以前、鹿児島市内の常盤町で写したもの)
さて、FBの歴史を語るグループで昨日話題に上ったのが石敢當(せっかんとう)でした。
沖縄や鹿児島ではよくみられるもので、「中国から入ったのでは」とか「琉球から」と話題になったことから、私は「唐人町」のある都城あたりも関係するのでは?と、以前購入していた佐々木綱洋氏の『都城唐人町』や『都城島津家墓地』をめくってみたのです。
すると、前回書いた北郷家について、
『都城島津家墓地』の冒頭、第1章 第1節に「北郷氏と都城島津家」と題して詳しく書かれていました。
ただ、以前は「和泉(今和泉)島津家」に関するところに興味があり、北郷家については気になりつつも、詳しいところまでは読んでいませんでした。
北郷家は川内の平佐北郷家もありますが、都城島津家を離れ作った別家とのことで、その辺りのことや、鹿児島側からではなく都城や宮崎の歴史の動きも知らなくては始まらないな、と思っていました。
飫肥城、伊東氏、はたまた豊州家との関係なども気になるところ。
忠平(のちの義弘)の妻が北郷忠孝の娘であり、二人の間にできた「お屋地」は北郷時久嫡子・相久(すけひさ)に嫁いだが、謀反の疑いによって自害すると、お屋地は義弘のもとに返され、豊州家朝久の室となり‥‥等々、詳しく書かれているのです。
また沼にはまってしまいますが、
これを機に今回はじっくり読んでみることに島津。