☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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追いつけない。。

2008-04-25 16:44:51 | これまでの経緯

私が、後追いで調べ始めたのが今年に入ってから。

大河ドラマで『篤姫』が始まるのを機会に
島津家との関わりや、我が家の家系の事をもっと把握しておきたいと
郷土史にも疎かった私は、まず手始めに家にある資料を読む事にしたのでした。

そんな折、ちょうど1月6日から1月12日まで
鹿児島市の篤姫館で開催されていた「篤姫展」を見に行ったのが
1月の10日。

篤姫館へ(2008.1.12 mixi日記より)


一通り展示物を見てまわり、出口に向かうとそこに
篤姫が暮らしていた頃の鹿児島城下の絵地図があり、
ウチの先祖の名前が書かれた屋敷跡の場所を発見したのです。



それで、俄然興味を持ったのでした。

それからはほぼ毎週、郷土の史跡巡りの日々で
まずは一度も行った事の無かった南洲墓地・南州神社へ。

郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)

郷土史探訪の日々<2. 南洲墓地~南洲神社(mixiアルバムより)

「ほ~ぅ、これが南洲墓地かぁ。」とぐるぐる歩き廻り、
ウチと関わりのあるお墓があるかと探してみたり、
歴史上名の知れた方々のお墓を拝見して回ったりしました。

この時点では、西郷南洲翁についても明治維新に関わる「郷土の偉人さん」で
西南の役の主役、城山で自害した人、くらいの認識しかありませんでした。
西郷南洲顕彰館も初めて行きました。


家に帰れば帰ったで、母の残した資料から興味のあるものを引っ張り出しては
あれこれと読みあさり、『「さつま」歴史人名集』で自分ちの名前の由来や
島津家歴代の名前や繋がりを調べまくり、脳内の日頃と違う分野を使い過ぎたために
頭痛をおこしたりしてぐったり疲れてしまうような事もありました。(笑)

ちなみに、現在の姓は今和泉島津家の家臣の家の名。
ドラマ『篤姫』にも出てきました。

母は以前から「今和泉島津の家来だった家なんだよ。」と言っていたので(*↓に☆☆☆《補足》☆☆☆あり)
「はぁ~、お母さんの言ってた事はこれだったのかぁー」と
ちょっとした感動を覚えました。

まだ大河ドラマの話題も無い頃、2年程前に今和泉島津家の領地だった指宿岩本にあるお墓も見に行き、

    

孫六さん。(mixi日記より)

忠剛・忠冬両領主の墓にある献燈に名前が残っているのを目にしてはいましたが、やはりこういう形で名前が出てくると、また違った感慨があるものです。

      

      

実は、この燈籠に名前を見つけたのは、
随分前にこのお墓を見に行った母だったのです。

母の残したメモや集めた資料を眺めては関連づけて読むのですが、
めぼしいところは既に目を通した跡があり、
赤鉛筆で傍線を引いてあったりします。

もう、どこまで先を行っているのか、「もうコレはチェック済みなのか~!」
「これもすでに知っていたのねー!」などと父と二人驚くばかりで
なかなか追いつけそうになく、ただただ脱帽です。



☆☆☆《補足》☆☆☆2017年3月9日

(*)我が家が「今和泉島津家の家来だった家」というのはちょっと違っていて、同じ姓ではあっても繋がりまでは未だに分かっていません。

この件は、当時の母にはまだ解明できていなかった懸案でした。
そのため、父をお供に指宿市役所に戸籍を調べに行ったりしたようです。

なぜそう思い込んでいたのかというと、指宿岩本の今和泉島津家の墓地で見つけた献灯石に刻まれていた名前は「栗川用邦」「栗川用郡」で、
曾祖父・轟が妻ツタ(旧姓:三原)と長女・長男とを従え養子に入った先の養父の名前が「栗川用行」なのです。
(これについては2016年5月25日の「我が家のファミリーヒストリーを思う」にも書きました。)

また、上記本文にもあるように『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄/高城書房出版)で見てみると、
  「薩州島津仲正徳年間、二男以下の苗字栗川氏、諱字は嫡男 久、二男以下は 用 と命名するよう命ぜられた。」とありました。
  「栗川用次 島津帯刀久元二男、今和泉島津家臣。」とも書かれています。

それですっかり「間違いない!」と思ったのかもしれません。

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