左源太の長女の川上いささんが書いた「都見物日記」のことは、以前このブログでも紹介しましたが、その日記が連載で紹介されていた地元の月刊誌「さんぎし」のことをネット検索してみました。
※関連記事
『「篤姫」と"いささん"の日記』
『いささん、51歳』
すると、鹿児島西ロータリークラブのHPに行き着きましたよ?!
※残念ながらリンク切れてます
「さんぎし」って薩摩狂句の月刊誌だったんですね~~
しかも、鹿児島西ロータリークラブの本部が山形屋(鹿児島市にある百貨店)内にあったなんて知りませんでした。(すみません‥‥?)
*あとで気付いたのですが、HOMEから「沿革」によると
'90年に鶴鳴館から移ったらしいです。
こういう発見をした時には
「へぇ~~~?!」と楽しくなってしまいますねー♪
「さんぎし」のことを知ったのは、去年の日記↑にあるように鹿児島県立図書館の司書さんに教えて頂いたのが切っ掛けですが、鹿児島市立図書館に蔵書があるようです。(県立図書館にもあるのかも?)
ただし、いささんの日記が掲載された時期もハッキリしませんし、その頃のバックナンバーが残っているものかどうかもわかりませんが、とにかく、近いうちに行って調べてみようと思います。
*月刊誌「さんぎし(竹馬)」は昭和32年に創刊され、昭和57年に復刊し、平成19年3月で300号が復刊継続(上記リンク先の掲載記事より)
それから、左源太が小林の地頭所勤務だった頃の日記も残っているとかで、内村氏から頂いた文書にも紹介があった「小林市史」も、一度読んでみようと、昨晩父とも話したのでした。
夕べは、左源太の名前が「泰藏」に変わったのはいつだったのだろうと気になって、内村氏がまとめた資料を久しぶりに読んでいたところ、明治4年廃藩置県になってからのことでした。そのあと明治6年6月から明治7年4月に依頼退職するまでの間、以前の任地だった宮崎の小林で、宮崎県十二大区区長(西諸県郡長に相当)として勤めるワケですね。
結局、寝る前になって小一時間ほど資料を読みふける父と私でした
下記ブログに東京の「奄美の家」で左源太さんの子孫に会ったと書かれてます。絵の巧いかたのようです。
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2009/04/post-d8af.html
今日改めて基山さんのブログを読み、
リンク先の「奄美の家」の奄圓さんの関連日記も読んでみました。
お知らせくださってありがとうございました~♪
お返事遅くなってしまってごめんなさい。。
「喜山」さんでした。失礼致しました。
以前mixiでも指摘されていて、今日たまたまここを読み返して気付いたので訂正。長いこと放置していて済みません。。