☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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8月もあと3日。その後のことあれこれ。

2011-08-29 08:46:42 | 名越左源太と家族

6月にアップしたきりもう8月も終わろうとしていますね。
お久しぶりのブログアップです。

老齢になった犬猫の世話に奔走する毎日でしたので、
ブログ更新も滞っておりました。
相済みません。。


さて、そんな中でも新しい発見と出会いがありました。


1月20日の「名越左源太泰藏の子供たち」では、
「左源太の子供は4人」と書いたのですが、
前回画像で紹介した『鹿児島県史料 名越時敏史料ー1』によると、「三男・吉次郎、四男・徳熊」とあり、4男2女がいたとのことです。文久2年の正月の日記に左源太時敏本人が書いています。

ただ、この二人についてはその後どうなったのかが不明。
おそらく養子にでもなったのか、とも思いますが、
県の調査室の方でも手がかりが欲しいご様子でした。


それから、これも以前書きましたが(1月19日の日記)、
祖父母や父が戦後お世話になった吉野・実方の従兄の家がようやくわかり、
その娘さんお二人に会うことが出来、またご家族のお墓参りをすることも出来ました。

その家に間借りしていたのは終戦後の短い期間で、その後区画整理や新しい橋建造などで近辺の景観がすっかり変わっていたようで、以前父に付き添って探して歩いた時にはわからずじまいでした。

ところが、6月半ばに時成さんの子孫でウチの縁戚である内村氏から数年ぶりかの電話があり、その後たびたびお話をするうちに、氏が以前から時成さんや左源太のことを調べる中で偶然にも接触があったその人物が、ウチの近い親戚家族だったことが電話のやり取りで判明したのです。
何しろイサさんの家と同じ姓なので混同されていたとのことでした。

それに、亡くなられた従兄のお墓のすぐ後ろには父の姉とその夫家族が眠るお墓が作られていたこともわかりました。

姉弟といってもそれぞれに暮らしもあるし、その後一家で県外へ移って行ったこともあり、子供たちとは年賀のやり取りはあってもお墓をどこに作ったのかまでは訊いても父も曖昧なままわからなかったそうで、この発見は大きかったです。

父の姪姉妹に連絡を取り、これから足繁く墓参させていただくことを告げるととても喜んで下さいました。

早速後日、父と二人でお墓周りの雑草を刈り込み、私にとっては伯母と伯父であるその御霊に拝礼することが出来ました。


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