9日の記事『佐々木 克氏監修『大久保 利通』からのあれこれ』で、
佐々木 克(すぐる)氏監修の『大久保 利通』(講談社学術文庫)を読んで気になったことや気付いたことなどを書きましたが、
米田虎雄(※)氏の談話の中に、「野津鎮雄(のづ しずお)」の名前が出てきます。(→26. 佐賀陣中の公 27. 沈勇なりし公)
(※) 米田虎雄(こめだ とらお)…… 1839(天保十)年 〜 1915(大正四)年
熊本藩家老 長岡監物(ながおか けんもつ)の子。父の旧姓の米田(こめだ)を名乗った。
1871(明治四)年七月、宮内省の改革が行われた際、熊本県権大参事から侍従に登用された。ついで侍従番長となり
1873(明治六)年三月の明治天皇断髪に奉仕した。また、佐賀の乱の際には熊本士族の鎮撫のために派遣された。
1879(明治十二)年に侍従長就任、以後も長く宮内省に出仕した。
父 長岡監物は1859(安政六)年八月に没したが、西郷隆盛と大久保利通が信頼を寄せていた熊本藩の要人である。
( 同書P.144-145 より)
この本、貴重な上とても面白いので、是非実際に読んで頂ければと思いますが、談話の内容を簡単にまとめると、
大久保公が佐賀の乱の時自ら進んで平定に出かけ、米田氏も河野敏鎌(こうの びんけん・とがま)と一緒に随行したところ、大戦争の真っ最中に鉄砲の弾丸が飛んでくる中を周章(あわ)てる様子もなく当時司令官だった野津のところへ歩いて向かい、それを見ていた河野も米田もその沈勇ぶりに愕いたという話、また、陛下が北越御巡幸になったことがあったがその御巡幸の前に近衛兵が混雑を起こした時には、騒動が起こって第一に飛んで来たのは大久保さんであった(※※)と、後になって野津(この時は近衛の参謀長をしていた)から聞いた話で、公の次に大隈(重信)さんが来たほかは騒動が済んで弾丸の雨の降り止むまでは誰も来なかった、危険な中を冒し陛下のご機嫌を伺い、野津を御前に召して万事をご命令になるように取り計らったのは実に泰然たるもので、野津も敬服したと言い、公は実に沈勇な人であった。……といったことが綴られているものです。
(※※)ただ近衛兵の騒動、いわゆる「竹橋騒動」が起こったのは明治11年8月23日で、大久保はこの年の5月14日に暗殺されているから、野津から聞いたと紹介しているこの話は米田の記憶違いである、と<監修者注>には書かれている
談話は最後に、(取材時)72歳になる米田氏が今までに感服して真に天下の豪傑だと思ったのは大西郷と藤田東湖、それからこの大久保公、この三人だ、と語られます。
(『報知新聞』明治四十三年十一月十七日、十八日掲載記事) 《参考までに→「tsubu(ツブ)」さんのHPより「西郷隆盛と藤田東湖」》
で、ここで父の話になるのですが、
ある日、藤田東湖が出てくる部分としてこの談話を音読して父に聞かせている最中のこと、
急に「野津鎮雄の孫だという人が居てねぇ、」と語りだしたのです。
話の続きを訊いてみると、弟が通っていた幼稚園の保護者会でその「野津(鎮雄)の孫」という人に「会長になってくれ」と言われ、
父は何度か固辞したものの、やむなく承知、しばらく任に付いた後、退いた、という話でした。
またまたひょんな話でしたチャン、チャン
佐々木 克(すぐる)氏監修の『大久保 利通』(講談社学術文庫)を読んで気になったことや気付いたことなどを書きましたが、
米田虎雄(※)氏の談話の中に、「野津鎮雄(のづ しずお)」の名前が出てきます。(→26. 佐賀陣中の公 27. 沈勇なりし公)
(※) 米田虎雄(こめだ とらお)…… 1839(天保十)年 〜 1915(大正四)年
熊本藩家老 長岡監物(ながおか けんもつ)の子。父の旧姓の米田(こめだ)を名乗った。
1871(明治四)年七月、宮内省の改革が行われた際、熊本県権大参事から侍従に登用された。ついで侍従番長となり
1873(明治六)年三月の明治天皇断髪に奉仕した。また、佐賀の乱の際には熊本士族の鎮撫のために派遣された。
1879(明治十二)年に侍従長就任、以後も長く宮内省に出仕した。
父 長岡監物は1859(安政六)年八月に没したが、西郷隆盛と大久保利通が信頼を寄せていた熊本藩の要人である。
( 同書P.144-145 より)
この本、貴重な上とても面白いので、是非実際に読んで頂ければと思いますが、談話の内容を簡単にまとめると、
大久保公が佐賀の乱の時自ら進んで平定に出かけ、米田氏も河野敏鎌(こうの びんけん・とがま)と一緒に随行したところ、大戦争の真っ最中に鉄砲の弾丸が飛んでくる中を周章(あわ)てる様子もなく当時司令官だった野津のところへ歩いて向かい、それを見ていた河野も米田もその沈勇ぶりに愕いたという話、また、陛下が北越御巡幸になったことがあったがその御巡幸の前に近衛兵が混雑を起こした時には、騒動が起こって第一に飛んで来たのは大久保さんであった(※※)と、後になって野津(この時は近衛の参謀長をしていた)から聞いた話で、公の次に大隈(重信)さんが来たほかは騒動が済んで弾丸の雨の降り止むまでは誰も来なかった、危険な中を冒し陛下のご機嫌を伺い、野津を御前に召して万事をご命令になるように取り計らったのは実に泰然たるもので、野津も敬服したと言い、公は実に沈勇な人であった。……といったことが綴られているものです。
(※※)ただ近衛兵の騒動、いわゆる「竹橋騒動」が起こったのは明治11年8月23日で、大久保はこの年の5月14日に暗殺されているから、野津から聞いたと紹介しているこの話は米田の記憶違いである、と<監修者注>には書かれている
談話は最後に、(取材時)72歳になる米田氏が今までに感服して真に天下の豪傑だと思ったのは大西郷と藤田東湖、それからこの大久保公、この三人だ、と語られます。
(『報知新聞』明治四十三年十一月十七日、十八日掲載記事) 《参考までに→「tsubu(ツブ)」さんのHPより「西郷隆盛と藤田東湖」》
で、ここで父の話になるのですが、
ある日、藤田東湖が出てくる部分としてこの談話を音読して父に聞かせている最中のこと、
急に「野津鎮雄の孫だという人が居てねぇ、」と語りだしたのです。
話の続きを訊いてみると、弟が通っていた幼稚園の保護者会でその「野津(鎮雄)の孫」という人に「会長になってくれ」と言われ、
父は何度か固辞したものの、やむなく承知、しばらく任に付いた後、退いた、という話でした。
またまたひょんな話でしたチャン、チャン