皆さま今晩は 最近は鹿児島でも朝夕涼しくなって徐々に秋めいてきました
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さて、6月に『寺山源右衛門家』と題して記事を書きましたが、そもそも「寺山源右衛門家」がどういったものなのかを書いていませんでしたので、改めて記しておこうと思います。
それには「薩州島津家」についても知っておいたほうがいいのですが、
薩州島津家については島津用久が祖である事くらいはわかりますが、
正直自分でも把握しきれていないので、ここに書くのは自分のためでもあるのです。
前述の6月の記事にも書いたように、
「 昨年7月には除籍謄本を取り、曽祖父・寺山用之の兄が「寺山用信」であり、「寺山源右衛門」を継いでいること、明治20年9月7日に兄から戸籍を相続している事」
また、曽祖父・寺山用之は
「 同じ稲荷馬場町の町田藤蔵の長女・スキと結婚したこと、子供は3人だったこと、長男・用麿は明治21年に生まれ、大正9年に小倉市で亡くなっていること、長女・節は明治25年に生まれ、妹より3年後に清水町の肥田木氏と結婚していること」
などもわかりました。
で、この「寺山源右衛門家」ですが、「島津家家臣団系図集」に「寺山氏」が載っており、
『「薩州家六男家」(源右衛門家)小番』とありまして、
「寺山源右衛門」が別立てで出ています。これが父の母方の実家、ということです。
薩州島津家というのは、一度改易されているのですよね。(←詳しくはリンクのページをご覧下さい)
これまではなかなか把握出来ずにいましたが、そういうこともこの1年くらいの間にようやく理解出来るようになりました。
でも、悲しい哉、寺山源右衛門家を継いだ用之(曽祖父)は昭和16年に台湾で亡くなり、その長男は親よりも先に大正9年に亡くなっていました。
父から今年になって聞いた(もしかしたら以前一度は聞いていたかも知れない)のですが、
台南一中に入った頃(昭和14〜15年か?)に、母親(私の祖母)から「寺山家を継がないか?」と言われたそうなのです!
でもその時は父もそんなの何だか訳がわからないから「いや!」といったそうで、その話は無くなったようです(苦笑)
もし寺山を継いでいれば、父が「寺山源右衛門」となっていたのかも知れませんが、そうすると今の私はいないかも??
結局「寺山源右衛門家」は曽祖父・寺山用之が台湾で亡くなった時点で潰えてしまった、ということになります。
思うに、我が家の(現在の)家系は父方も母方も子孫が残らない家系のようです。それはそれで仕方ありませんね
『鹿児島城下絵図』を見ると、「寺山」は「寺山源右衛門」の1件だけで、家は上竜尾町、今の南洲墓地・南洲神社の階段下の付近のようです。今の区画との違いもありますが、安政年間の地図にも麓の一番端の三角形のような土地で表示されています。
ただ、戸籍には「稲荷馬場町六番戸」とあるので、用信兄の頃には別の場所に移っていたのでしょうね。
稲荷馬場は稲荷川沿いで大乗院橋を北に渡った清水中学校の前の通りのようです。
これは以前『寺山源右衛門家』で、「坊中馬場」の「大乗院坊中 善聚院」と書いていますが、
現在の「稲荷町6」で探した結果の間違いでした。ごめんなさい。
では、おやすみなさい。