夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「10月29日という日」

2024年10月29日 08時02分09秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

≪過去の記事≫

【2003年】
晴れ。暖かい一日でした。
日記を今までトップページのほうへ書いていたのですが、掲示板に書くことにしました。日記の字数が違うとレイアウトも狂ってきてしまうので掲示板に書くほうがいいと思いました。
また、どうも書き直すたびに更新をしたりするのが面倒なので移しました。
この掲示板は、たしか100項目は保存されると思うのですが、前日分の日記は、今までどおり「日記ページ」に入れて行きたいと思います。
EZBBSの仲間の皆さんでこちらにいらしたから、左上の「ホームページ」をクリックしてHPにもいらしてくださいね。
こちらは日記兼用にしましたが、HPにいらした方も気楽に書き込んでください。
これからもよろしくお願いします。

【2004年】
角田さんの「エコノミカル・パレス」の感想を入れたのですが、なんとなく書き残したものがあるような?後日追記するかも。
めっきり寒くなりました。急に寒くなりかぜひ機も多くなっています。気をつけたいと思います。そろそろ鍋物もおいしくなりますが、白菜などの野菜が高いですね。昨夜スーパーに行ったら、小さなレタスほどのキャベツを4分の1にしたものが90円ほどでした。白菜も高いし、狂牛病騒ぎから豚肉や鶏肉も国産となると高いし、鍋にしようかなどと気楽に言えなくなりました。

「エコノミカル・パレス」角田 光代  著
先の読みました「みどりの月」と、同じ文庫に収められた「かかとのしたの空」の続編といわれる作品です。
『みどりの月』では、結婚をした直後に夫が仕事を辞め、そのうえカップルの同居人までいる生活を描き、家事も何もせずにただ生きているような生活がありました。このような人々が「かかとの下の空」では、すべての家財を売り払ってアジアの国々を放浪します。
「エコノミカル・パレス」は、この人々が帰国をし、年齢も30歳半ばになります。
相変わらずのバイト生活、内縁の夫はやはり「魂を感じない」仕事をやめて失業します。失業保険を頼りにするも保険金が出るまでには3ヶ月かかる。悲惨な経済状況に陥る二人。そこにまたしてもカップルの居候が。。。。。
主人公の「私」は働きます。雑文書き、レストラン。
レストランのバイトから帰ろうとすると内縁の夫から形態に電話があり、夕食のコンビニでの買出しを頼まれます。居候が来てからはその人たちのメニューも。その上発泡酒。先の見えない生活とそれ以上にその日暮らしの生活。悪いことは重なるものでクーラーの故障からサラリーマン金融に。
内縁の夫は、大学を出たインテリ。しかしこの夫の理想とする職業はなくて頭に描いた理想を追う。バイトを探すがない。
「私」は、逃げようとすれば逃げられるが、ある意味では夫はアジアを一緒に放浪した運命共同体な様な存在で離れられないのだろう。また、「私」自身も今ある生活から抜け出す気力がない。
結局は、二人はアジアでの放浪と同じよう日本という国の中で放浪をしているのである。アジアは貧しさゆえに二人の放浪は物のない不潔な旅であった。にほんでは物があふれている中での貧困である。しかし、アジアでは二人は好きな場所に移動する自由があり、貧しい国の人々にうらやましがられた。日本に住む二人にはこの自由はない。アジアの放浪は、心にはゆとりがあったが、日本に住む二人にこの心の余裕があるのだろうか?
2人のアパートに転がり込んだカップルは、彼女の実家の仕事を手伝うようになる。昔の放浪を共にした一人が働き出す。どこか取り残される思いと裏切られたような思いを「私」と内縁の夫は持ったことだろう。アルバイト先の店主は、20代で店を持った話しをする。苦労をしながら店を持つという話は、「私」の胸にぐさっと刺さるものがあったろう。
内縁の夫は相変わらずである。「私」はスナック勤めをし始める。尻ぐらいを触られることは気にしないで客にタバコの火をつけていれば、サラ金の返済ができて貯金通帳には貯金がたまっていく。
そんな時、料理人を目指す一回りも年下の男に出会う。料理学校の入学金を貯めた金で出してやろうとするが、その応えは、オレをバカにしているのかという返事であり、金はバイトで稼ぐんだといわれる。「私」は、自分の惨めさを思い知る。
「私はちゃちな恋をした。
 私はちゃちな夢を見た。」
               (帯からの言葉)
フリーターという自由を求めた人たちのひとつの人生だろう。
しかし、感想としては保守的に「変な自由を追い求めずに現実がこうなんだから逃げずに働け」という言葉は書けない。
今は社会の仕組みからフリーターを余儀なくされている若い人たちがたくさんいる。派遣社員などという不安定な雇用形態が作られた。たしかにその中から起業をして金を稼ぐ人たちもいるだろうが、すべての人がそうできるものではない。このような社会においてフリーターという若い人たちを批判はできないだろう。
たしかにバブルの頃は生きがいのない余裕のない(過労死までさせられる、休暇も完全消化できない)会社勤めに嫌気をさしてフリーターとなった人たちもいるだろう。夢に描く自由を求めて。。。。
この気持ちはわかるが、結局は逃げてしまっていたのではないか。しかしこの逃げを見たときに、企業というものに魅力を感じない人たちが多いということだろう。
若い人たちに魅力を失わせる社会や企業は、それ自体が活力を失っていくだろう。だからこの作品の「私」と内縁の夫は、まったくの個人の問題努力のなさで片付けられるものではないのである。

【2005年】
冬の定番「鍋」には少し早いのですが、今夜は鍋にしました。
水炊きです。
ところが、いざ土鍋を火にかけたら、土鍋の底から水が滴り落ちていました。ずっと使っていなかったのでひび割れが大きくなってしまったようです。
そこで裏技。。。。ネタバレかもしれないけど
土鍋に牛乳を入れて煮立てます。ひび割れから牛乳が染み出てきますが、そこは少し我慢をしてに立てていきます。するとしばらくすると滴らなくなる。牛乳が焦げないうちに火を止めてそのまま土鍋が冷えるまで置いておきます。
するともうひび割れから水が滴りません。
牛乳のたんぱく質がひび割れに入り、火によってひび割れの中で固まりひび割れをとめるようです。
オジヤも作りました。
塩味もいいですが、我が家は味噌味。。。溶き卵と長ネギのみじん切りを入れます。

【2006年】
この前、ブログのコメントに「この世の中には、体に悪い、無駄だ、迷惑だといわれているものにみんな何かしら楽しみを得ている。」と書いたが、今朝の新聞の読書欄に、野坂昭如編の「けむりの居場所」という本の紹介があった。煙草についての本である。
その中に遠藤秀作の言葉として次の言葉が引用されていた。
「無駄にみえても、その無駄が人間のうえに大切なような楽しみなのである。」
なんとなく僕の考えと煮ているのでニヤニヤして読んだ。
この無駄が人間のうえに大切なようなという意味においては興味深い記事がやはり朝刊にあった。郵政の民営化後、郵便の職場にもトヨタ方式なるものが現れたようだが、これは、無駄を排除するものであるらしい。人の働く行動を精密に測定して労働効率を上げるのが目的らしい。郵便局では0.1秒単位の測定。。。。ううう
たしかに煙草を吸うことと違って働くことへの無駄の排除ではある。しかし、効率的ではない部分があるらしい。
競争の結果としての矛盾は、高校の必修科目である世界史をぜんぜんやらなかったというものが出ているが、これも受験競争の結果である。高学歴で外国で働いた時に世界史は問われないのだろうか?歴史や文学、音楽などは知識人の教養として人間関係においては大切なものである。日本近代史をはしょったことも問題になったことがある。
競争のために何か大切なものがなくなってきているような気がする。
それは無駄だろう。。。。
受験には世界史や日本近代史は無駄なのかもしれない。でもこの無駄が必要なのである。トヨタは自動車業界で世界1になる勢いであるが、このトヨタ方式にはびっくりした。まるで無駄は許されないのだろうか?無駄がないということはぴんと張りつめた糸のようである。こうでもしないと日本の企業も存続できないほど余裕がなくなってきているということである。働くことに無駄はいらない。。。しかし公務員の病気休暇制度の問題が大きく取り上げられているが、これを無駄の代表のように言われている。
しかし、病気休暇の悪用は別問題であり、病気の時はゆっくりと生活のことを考えずに休む事が無駄なのだろうか?民間企業がおかしいのであり、先進国と言いながらも国自体もおかしくなっている。病気をすれば給料はなくなり生活保護?
この無駄をなくすことは、雇用人員を最低限にして人件費を最低限に抑えるためにアルバイトやパート、派遣社員を使う。これがこの間行われてきた競争原理である。この競争原理に巻き込まれて損をした人々が負け組みと呼ばれる。この中に貧困が生まれる。無駄が豊かさなのである。
だいぶ前に、日本の貧困は相対的だと書いた覚えがあるが、豊かさの中の貧困である。やはり読書欄に「相対的貧困」につおいての本の紹介があった。
もう矛盾がごまかしきれないほどになっている。まともな社会を見つめる目がまた出来てくるだろう。
二大政党の馴れ合い政治もそうは長くない。

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
事業仕分け第三弾として特別会計に踏み込んだ仕分けがされはじめている。無駄なものは削減することはいいことだがこの世の中無駄ではあっても必要とするものはある。この無駄というのは普段は必要としないが何かあったら必要とするものもあり、または今の制度が生かされていないから無駄になっているというものもある。
枝野議員が「ねんきん特別便」は無駄でご自分もすぐにゴミ箱に入れてしまうと言われるが、たしかにそういう人も多いでしょうが、年金問題の解決や不安をなくすためには必要なものでしょう。たしかに誕生月に来たときにまた同じものかぁで済まされることがあるでしょうが、引越しをしたとか勤務先が変わったとか、あるいは厚生年金から国民年金に変わるとかいう場合、この特別便が一つの契機になって変更を確認したり国民年金に切り替えたりする人も多く出るのではないでしょうか。
また、ジョブカード制度の廃止も言われているそうですが、すでに31万人の方が取得されており、それをすぐに廃止というのはその方々に無責任ではないか。無駄かどうかの裏にはそれに依拠している人もたくさんいるということです。
無駄をなくすなら廃止や節減もいいが、例えば雇用問題に関連する上のジョブカードを廃止するなら雇用問題を解決するためのジョブカード廃止後を具体的にすべきでしょう。ジョブカードを廃止しても雇用問題はなんら変わらない、そればかりか100%無駄というものはないわけだからその有益なものに変わるものがないなら事業仕分けは雇用問題解決を後退させるものとなるだろう。
ねんきん特別便廃止もそれに変わる国民に安心を与える何かしらのものをどう作るのか?民主党の言う全件照会をやはり相当な税金を使って行わざるを得ないのだがその妨げにならないか?全件紹介の金に無駄はないか?節約してねんきん特別便に回せないか?
雇用問題についてジョブカードを廃止するならしろ、それに変わる雇用問題解決を示せ。。。。というような仕分け人にその責任を問うことぐらい役人や特別法人など言ってもいいし、マスコミも問うべきだろう。
無駄をなくして節税するわけだが、一方では法人税減税のための原資を問われている。その中で民主党は企業献金を見直すという。下司の勘ぐりもしたくなる。

【2011年】ツイッターつぶやき
朝日新聞に「記者が消えた街」という元アメリカの記者スティーブン・ワルドマンさんという方のインタビュー記事があった。
いろいろと考えさせられるものがありましたが、新聞とネットとの関係は今後どのようになっていくのでしょうか?
新聞もネットも広告料からその運営が成り立ちます。広告料がある一定ならば、ネットというものが現れたて多くの広告料が流れるならば相対的に新聞の経営は苦しくなります。新聞だけではなくてテレビやラジオ雑誌なども。
朝日新聞の記事中では、この広告に頼らないNPOでの運営を提起してその財源を寄付という形に求めていますが、この寄付というのは成熟した情報源のマスコミに当てはめるにはどうなんでしょうか。ネットやマスコミも市場経済の中における広告料に依拠しながら続けるべきかと思います。もちろん広告料を通した企業からの圧力問うものが危惧されますが、昔から左翼新聞だとたたかれた新聞もその購読者が多くなれば広告は集まっていたはずです。企業の広告は多くの読者に観られなければその金は生かされません。企業に都合が悪い傾向の新聞でも広告の効果が大きければ広告を出さざるを得ないというのが市場原理です。その意味でネットに多くの広告が集まるのを見てもネットの危険性などとは言われながらもその広告効果が大きいからです。
この広告効果から今現在の新聞の在り方を考えることが合理的でしょう。
広告料の収入に対する取材すべての経費が新聞は大きいです。本をネットでタダで読めるといったようなものが問題化されたり音楽配信でもネットの力が大きくなっていますが、新聞でも多くの金と労苦を持って取材をされた情報がネット上で簡単に(もちろんその中身は薄いものとなりますが)手に入ってしまいます。もちろんそれもネットを通じた新聞の広告的な物でありますが。新聞ももうネットから切り離されたところでは存在しにくくなっているのが実情ではないでしょうか。これから新聞が生き延びるためにどのようにネットを活用するかが新聞社の経営にも大きな課題になっているでしょう。ここからも新聞が寄付金で運営されるNPOであればよいというものも考えにくくなります。
新聞とネットとの接近、これは新聞とネット都市うシステム上の接近(活用)だけとして見たらそれでは足りないのではないでしょうか?
新聞にはなくてネットにはあるもの、それは一般の人々の声や意識です。生の声です。これをゴミとしてとらえたらおしまいなわけです。ここに迎合するということではありませんが集約の中で今後の記事を書く上での問題提起は出てくるのではないでしょうか?この一般の人々の意識の集約による問題提起を取材で検証をして記事にしていきネットで記事の方向性を示せば読者も増えるのではないでしょうか?国民と政治の意識が乖離していると同じように新聞と国民意識が離れたらそれが新聞の命とりなのではないでしょうか。繰り返しますが、新聞による大衆迎合ではありません。
本も新聞ももちろん高い意識や知識そして広い視野で書かれます。しかしそれは新聞などが大衆を引っ張ることだけでその責任が果たせるわけではないのです。新聞が大衆の意識を引っ張っていると思っているが、実は大衆は違うところに意識があり洗脳されているとしか見ないこともあり得ます。ここに大衆迎合か大衆意識を的確につかんだ方向生かの違いが出てきます。新聞はその主張に読者の反応がなければ成り立ちません。それがネット時代というものです。昔は高くその主張を新聞は掲げていればよかったのですが、そして新聞社同士の議論をしていればよかったのですが、ネット時代はそこに生の読者の声が入ってきます。これは言論や民主主義の発展なのです。もちろんネットには有害なものもありますが。
今問題になっている放射線量も、多くの一般の方が地道に調べていた結果が今新聞やテレビで報道されている。ネットにも情報発信はあるのです。福島のお母さんたちの生の声もある。ネットも組織性はない中にもマスコミの役割を持っています。これらを分析することなくして新聞は成り立たないと思った方が良いのではないでしょうか。

【2012年】ツイッターつぶやき
急に冷たい雨が降り出した日
駅に着いて暗い空を見上げた
(ワンメーターだから傘を買うよりタクシーに乗ろう。。。。)
駅前に止まっているタクシーに乗り込んだ
「駅前通りをまっすぐ行ってください」
その時ハッと思い出した。。。(この運転手さんは?)
「国道は越さないです!」
この運転手さんは三回目だった
なぜ覚えているかというと二回とも
「お客さん、国道越すの?」と訊いてきたから
駅前通りをまっすぐ行くと国道にぶつかる
だいたい国道を越えるとワンメーターも越えるのである
「国道は越さないです」
運転手さんは人や自転車をよけながら飛ばす

晴れた秋の日差しが差し込む電車の車内
ターミナル駅も過ぎて車内はひっそりと
ぼうっと風景を眺めていたら
いびきが聞こえる
向かい側のシートの端っこでオヤジがいびきをかいて寝ている
駅に着くとそのいびきは社内に響き渡る
(どこまで行くんだろ?)
また電車は走り始めた
どうも気になって仕方ない(たぶん寝過ごすだろうなぁ。そのいびき)
しばらくして次の自宅のある駅で僕は降りようとした
電車が駅に止まるか止まらないかしたその時
そのオヤジはぱっと目覚めて僕と降りて行った
電車は次の駅に行くと国道を越すのである
オヤジは国道は越さなかった。。。。。

そういえば、歩いてその国道を越えたことって
長年住んでいるが数えるほどしかないかなぁ。。。。
用事もないしどんな店があるのかも知らない
国道は越さない。。。。

【2013年】ツイッターつぶやき
まずツイッターから
小泉元首相と社民党の吉田党首の会談があったが、その中身は脱原発を国民運動にすることとそれを各政党が政党ごとに進めることというような中身のようですが、正しい流れだと思います。小泉元首相は自民党を動かすことに集中をしていくということでしょうか。
脱原発、これを現在の原発ゼロを維持することという明確さが出ていませんが、社民党はこの原発ゼロの維持からの脱原発を目指すべきでそれを国民運動にしなければならない。
同時に原発問題も今の社会矛盾の現れなわけですから脱原発と様々な形で表れている経済問題や平和と民主主義を結びつけたトータル的な国民運動を目指す必要があるでしょう。国民運動を脱原発に集約をしてはならないでしょう。

小泉元首相の脱原発の主張はやはり政治的勘の鋭さを見せていると思います。
アベノミクスという経済政策には賃上げや雇用そして国民生活全般で多くの矛盾をつくりだしていますし、政治的には自民党のさらなる右傾化に国民の警戒感が出はじめています。自民党の多数の中でのねじれの解消は数の力としては絶対的なのですが、各都市の市長選などを見れば神奈川の川崎市のような結果も出ています。国政選挙は3年はないと言われていますがそうは自民党が安泰ではないことを示しています。
その中で今の自民党そして安倍内閣の中に脱原発を国民運動にしなければならないという視点を持ち込むことは国民を引き付けるでしょう。「国民運動」というのが味噌です。
野党は小泉元首相の言葉に近寄ってくる。今はそのような野党の状態です。勢力的にも弱くなっている。その中で自民党が脱原発を自ら言葉にすることは自民党にとっては一つの安定を引き起こすでしょう。
しかし脱原発には民主党政権時の国民の意見集約でもその脱原発には相当な温度差がありました。多くは一部再稼働を認めつつ将来的には脱原発の社会にするというものでした。当然自民党がもし脱原発を口にするならばそれは再稼働をしつつ将来的には脱原発の社会にするという方向になるでしょう。しかしそこには何の保証もない。今のアベノミクスでの賃上げや雇用と同じでしょう。
もちろん僕には小泉元首相のお考えでどのような脱原発なのかはわかりませんし、今の原発ゼロの状態を維持しながらの脱原発なのかもわかりません。ですからこのへんの中身の爪詰めが必要でしょう。
社民党や共産党は独自な原発稼働ゼロの維持というものを対置して国民運動を進めるほかはないでしょう。
同時のその国民運動は低賃金をはじめとした格差社会や貧困、ブラック企業問題、雇用の危機など勤労国民側に立った経済問題と平和や民主主義の後退に反対をして逆に平和と民主主義の拡大を国民運動にしなければならないでしょう。原発事故とその後の状態は、経済問題そのものですし、同時に政治矛盾そのものです。脱原発ならば当然経済問題や平和や民主主義という部分にかかわってくるわけです。このようなトータル的な国民運動が求められているということでしょう。その中で初めて脱原発の社会も実現できるのではないでしょうか。

【2014年】ツイッターつぶやき
昨日書いたものの続きとなりますが、賃金は労働力の再生産費であるということは次の日も次の年も良質な労働を続けるために必要な労働力を維持するということである。それは肉体的な維持だけではなくて精神的な安定の面も含まれる。そして労働力は世代を超えて維持されなければなりませんから子育てもまた労働力の維持ということになります。日本社会の経済の状態においてこの労働力の再生産がどの程度保障されるかが平均値として決まるでしょう。そのためには賃金がどのくらい必要かということです。
そうすると独身の方と夫婦子供二人という標準世帯の労働力の再生産費は違ってきます。また子供が一番金のかかる時期の中高年世帯とでも違ってきます。これは平均化すれば年齢において一定の必要額が決まるということです。もちろん年齢だけで家族の攻勢が決まるわけではありませんから平均的なという意味です。
それが賃金カーブとして現れます。そしてそのカーブは年功序列型賃金のカーブと一定程度一致をしていきます。
労働者が労働力の再生産に必要な賃金額は年功序列型賃金という日本の特殊な賃金制度として保障されてきました。その中で一定の経済成長があれば総中流意識といったものが実現されます。
もちろん日本は低賃金でしたから総体的に賃金が低い中での賃金カーブが描かれて年功序列型賃金となっていました。
若い人から見れば年寄りはもらいすぎだといった不満も出ていましたが、その若い人も年齢を重ねていくうちに家を買ったり子育てをできるようになった。
そしてその年功序列型賃金は企業内の賃金格差も少なくて同じ年齢ならそうは格差のない同一労働同一賃金となっていた。
もちろん格差は企業規模や男女間にも現れていてその矛盾は出ていたのは確かですが、ここの部分の賃金カーブを引き上げて是正することが同一労働同一賃金の要求だったわけです。
今、年功序列型賃金をなくそうという動きが出ていますが、それは正社員をなくすということでもあります。日本独自の賃金制度をなくしてはいけないでしょう。維持する中での改善です。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
ツイッターからの転載です。
世界中で資本主義保守の政治的経済的限界が見え始めているのかもしれない。その中で保守の中でより右寄りなナショナリズム的な政策が出たりその保守の動きに対して過激的な反対勢力が出ているのかもしれない。そのどちらも社会を発展はさせないでしょう。資本主義の最高段階である社会民主主義しかない
経済的限界の一つにデフレがある。このデフレをどうにかインフレ傾向に持っていこうというのが今はやりの金融政策でしょう。しかしデフレの原因とは何か?ただ単に商品市場に貨幣量が足りないことか?そうではなくて貨幣量が多すぎてその貨幣が生産設備などの資本に転嫁できない状態。
といっても個人消費をさせる一般庶民にも貨幣量が多すぎるわけではなくて、企業や富裕層に貨幣が滞留している状態あるいはその金が金融市場などばかりに流れている状態です。貨幣の資本への転嫁が行われない状態ですから経済の発展・好循環はおきません。
企業は物が売れないことにより労働の節約(低賃金や解雇など)を行います。一般庶民の懐には貨幣量は減少していきます。すると個人消費は減少して物が売れないわけですから値下げ競争となり物価が下がります。さらなる労働の節約はさらなる物価の下げを促します。
このような状態の中で量的金融緩和で貨幣量を増やしたところでその金は庶民には行き渡らないのですから商品市場での貨幣の供給過剰と同じ傾向を示します。経済は過熱もしていないのにバブルが発生をします。人の生産物ではない土地などの投機的なバブルや金融バブルです。
冷たく凍り付いたバブルは崩壊をします。これは経済の過熱による熱いバブルに比べると相当悲惨なバブル崩壊になるでしょう。
このようなデフレスパイラルの中での物価の下落が真のデフレかと言えばそうではなくて、そのようなデフレスパイラルを引き起こす「デフレ不況」と「デフレ(物価の下落)」は別物なのです。なぜモノやサービスなどの商品の価格が減少し続けるのか?
モノの価格が下がるというのは生産性の向上による経済法則です。しかしこの経済法則から二通りの道が見えます。一つは物の値段が下がるのですから国民生活はより豊かさを持つことができるという道です。もう一つの道がデフレスパイラルの道です。どちらの道を選ぶかは人の自由な選択。
どちらの道を選ぶかは自由ですが、商品価格が下落傾向になることが経済法則ならばその経済法則に従うのが真の自由であり選ぶ道でしょう。そうしないと必ずどこかで道はふさがります。アベノミクスが失敗といわれているのもこの道がふさがれ崩れ落ちていたのです。
商品価値が同じなのに金融政策によって(貨幣価値の低下によって)価格を吊り上げようとした場合、商品価値に変化がないなかで貨幣価値が低下したわけですからただ単に商品価格が変化しただけなのです。貨幣量が商品価格を規定するというものが人為的貨幣価格は商品価値に何の変化なし
商品価値が同じである場合、ある商品の価格が100円だったとし、人為的な貨幣価値の低下によって110円となった場合、それはその標品価値を110円とあらわしているだけなのです。商品価値が100円ならば110円という貨幣量はは100円という貨幣価値でしかないのです。
そもそも商品価値はどのように決定するか?それはその商品の生産に要した労働時間によります。これは、昔1足1足を手作りで生産していた靴と今のように機械で糊付けして大量生産をされた靴1足では、その同じ1足の靴でも価値は違うというのは経験上からも明らかです。
極端にえば、アベノミクスは機械で大量生産された靴を昔ながらの手作りの靴と同じ価格で売ろうとすることです。経済法則に逆らっていることは明らかでしょう。機械で靴を大量生産するというのが生産性の向上です。ですから生産性が向上すれば商品価値は下落するということが法則です
国の権力において商品価値を変化させようとすることは愚の骨頂なのです。
全体主義と社会民主主義をイコールとしてみる方が多いと思いますが、それは間違いです。国の政策(力)で商品価値を決定するために力により統治を強めようとするのが経済的に見た全体主義です。社会民主主義は経済法則から価値低下(価格の低下)をそのままに国民生活を豊かにします。
貨幣価値は高いほうが良いのです。特にエネルギーや食糧・原材料も含めて貨幣価値だ高ければより安い商品を生産できますから。同時に輸出をしなければならないのですが、輸出というのは何も為替により価格競争だけで勝てるものではないことはアベノミクスを見ても明らかです。
諸外国にとっては為替の変化では110円も1ドルですし、100円も1ドルです。
日本の高度成長は確かに為替での円安もありましたが、基本はより高品質(使い勝手も)でより安いモノづくりにありました。もちろんこの時代は日本の労働者はウサギ小屋のような小さな家に住むエコノミックアニマルだともいわれていたのも事実ですが、労働者の賃金や労働条件は改善した
社会保障は一定程度確立しました。これは労働者とその力を支持基盤とした政党の努力です。もちろん平和も維持しました。商品価値は労働時間によって決定するということは、商品の価値を生産しているのは労働力であることが明らかになります。労働力を浪費して利益を出すことは間違い。
社会民主主義はこの労働力を大切にするということです。労働力は人間の体に備わったものですから労働者を大切にするということです。ここから個人消費は伸びるでしょう。そこから設備投資も伸びるでしょう。成長が始まります。。。。
・・・おわり・・・
(余談)ダーウィンの進化論を弱肉強食の生存競争ととらえることが不通になっていますが、力の強い生物が生き残るというだけでは進化論ではありません。このような形而上学ではなくて弁証法的なのです。自然の中でその法則に従えるように進化する生物が生き残ったのです。
人間社会も同じです。社会は生きていくための生産にあるわけですから経済が土台です。その経済に法則性がありますから、その法則に沿うように経済を進化させていく国家が生き残り発展をしていくということです。自然界と違うのは、社会は人の自由な活動により動いているということです
人間の自由な活動により社会は発展しますし変化もします。大きな力(権力や金力など)がある者が社会を動かしていくという発想は弱肉強食的な発想です。そうではなくて社会が主に経済がどのような方向に進むかの法則に従う者が社会を発展させます。人の自由な活動は法則に従うこと。

【2017年】ツイッターつぶやき
まずはツイッターから
冷血の経団連 国民に痛みを強いてでも消費増税実現を提言。。。アベノミクスの特徴は低所得層から高所得層や企業に所得を移転させること。財界はさらにそれを求めた。しかし企業の不祥事や景気の低迷を深化させる。
政府は年金積立金100兆円や財政再建をやめて公共事業や防衛費により株価のつり上げをし、日銀は出口の見えない円安誘導と国債や株の買い入れ。同時に低所得層からの所得の移転で企業は生き延びようとする。企業は内部留保というカネを資本に転嫁できない。ここに経済の好転の材料があるだろうか?
資本主義においては、企業の内部留保をはじめとした貨幣を不変資本と可変資本(設備投資や事業拡大と労働者の雇用増と賃金)に転嫁できなくなるというのは致命的な状態です。更に金融投資に金を回して株価の維持等をしなくてはいけなくなる。ゼロ金利もあるが、銀行の利潤率低下は顕著になっていく。
新自由主義とは、実は自ら資本主義の自由を縛り付ける結果になる。資本主義を死滅に近づけるでしょう。経済の戦争によるリセットに進んでいかざるを得ない。莫大な資産と命を犠牲にして。
この資本主義の行き着く先を目標とする政治と経済界。仕方がないとみて排外主義に乗っかっていく国民。しかし資本主義にはもう一つの道があるのです。それは社会民主主義です。ここには私有財産制も保存される。社会的富の平等な分配方法は経済の活性化をもたらし、平和主義がそれを支えるでしょう。
朝日新聞朝刊1面と4面に「日本にこだわらない」という記事があった。
日本の大学に行って日本の企業に就職して将来は大丈夫かと若い人々がアメリカの大学に行く。高学歴の若者だけではなく、以前新聞に載っていた若い職人さんも海外に出ていく。技術の伝承が難しくなる。もちろんこういう若い人たちは多数ではないが、今の若い人たちの日本に対する気持ちが表れているのでしょう。そして企業経営者はつぶやく。
「長い間、正社員を雇ってこなかったツケが回ってきた」「日本でモノづくりは続けられない」(引用)
そして企業自体が海外にシフトしていく。
軍事面で日本を守るという勇ましい言葉がたくさん聞こえるようになっているが、国家の土台である経済と若い労働力が崩れてしまっては国の安全もままならないでしょう。
すべてが企業間競争のためにという目先の対処が将来の日本を危うくするのである。

【2018年】ツイッターつぶやき
先日テレビで日航日光中禅寺湖の紅葉がきれいだとやっていましたので今日行ってきました。
土日はいろは坂も渋滞するだろうと思い平日の今日にしました。明知平付近は渋滞していましたがあとは順調でした。
明知平はパスをして中禅寺湖へ。
毎回中禅寺湖に行くときは駐車場には車を止めないで、少し止められるようなところを探して少しの間風景を眺めることにしています。
紅葉はもう遅いのか?
そうはきれいではありませんでした。特に奥日光はもう葉が落ち始めていました。
それでも残る紅葉を十分楽しめました。
紅葉は少し車を止めたり走りながら眺めました。
紅葉を眺めながら今回も食べ歩きのように。。。。。。
行きの羽生サ-ビスエリアで朝食セット、竜頭の滝でみたらし団子、光徳牧場で牛乳、金精峠の茶屋で湯葉メンチカツとゴボウ茶。ゴボウ茶は試飲させていただきました。
そして今回のドライブの二つ目の目的の道の駅川場園プラザへ。
ホームページの円内マップを見てもらうとわかるようにたくさんのお店が並んでいます。少し離れたホテルでは日帰り温泉もあるそうです。
ちょうど昼飯時でしたので何をべとうかと……
ミート工房の山賊焼きにしました。
山賊や切手肉やいろいろなものを豪快に焼く料理ですが、ここはハムやソーセージです。
食券で500円の山賊焼きを。。。。。。
これまでの人生、ハムやソーセージを腹いっぱい食べた記憶がありません。
食券を出して目の前でハムやソーセージを焼き弁当箱のような紙パックに入れてくれるのですが、ウインナーを5本ほど、ソーセージハムや普通のハムが山盛りになっていました。
アイスコーヒー150円も飲んで、試飲の飲むヨーグルトも飲んで、ベーカリーでクロワッサンや甘いパン、そしてフランスパン生地のクロワッサン?などを買ってきました。
夜はシチューを作ってパンと一緒に。そして湯滝の売店で買った豆たっぷりの大福を。。。。
いやぁ・・・・・またたくさん食ってしまいました。
道の駅は今度ゆっくり温泉に入ったりうまいもの食べたりしたいと思います。沼田かいわいはほかにも大きな道の駅(匠の里だったかな?古い街並みのようです)があったり足を延ばせば水上温泉が。

【2019年】ツイッターつぶやき
ネット上のクッキーというものの仕組みはよくわかりませんなぁ。。。。。
朝日新聞に「クッキー規制を検討」という記事がありました。
最近リクルートが内定辞退率の個人情報を流して問題となりましたが、これも当初はクッキーを使ってデーターを集めたようです。広告はネット運営では欠かせないもので役に立つ広告も少なくありませんし、こうしてブログを楽しめるのも広告があるからでしょう。そしてこの広告情報を「押し売り」するのがクッキーで、ずっと個人を付け回してどこのサイトを見ても同じ広告が付きまとう。時にはうんざりしますし、ほかの広告を見ることができないという情報隔離を行います。
一定の規制は必要でしょうね。
個人を付け回すのではなくて、例えばブログなら、記事を書いた中身に関連した広告が現れるようにしたほうが良いかもしれません。
個人の好みや興味あるものをたくさん教えてくれるというのも一つの親切かもしれませんが、この親切は企業の利益誘導でもあります。親切だとか言う言葉は親切ではありませんね。情報を教えてくれるというのも親切ではない。

【2020年】ツイッターつぶやき
全国的に新規感染者数が微増している。
Go Toとの関連については政府は否定的ですが、大きな増加はないまでも減少傾向が見えないという中では関連性も一定あるでしょう。
Go Toといっても旅行に出かけたりするだけではなくて、人の行動を活発化させることに影響を与えています。イートや商店街やイベントというものが加わりますからさらに感染拡大の要因になりかねません。
政府は感染防止と経済の両立を言いますが、これは感染者数の減少と経済対策がセットにならなくてはいけないはずです。感染者数が増加傾向を示せば、現在のクラスターの発生もうなづけます。
感染者数の減少に合わせてGo Toを慎重に進める必要があるでしょう。

【2021年】ツイッターつぶやき
東京の新規感染者数も30人を下回る日が続いています。全国的にも減少していますね。
しかし大阪をはじめ関西から西の方を案外下げ止まりになっているように思います。
感染が下げ止まりから増加傾向に移るときは地域差が出ますから下げ止まり判断が出た時には危ないですね。
これからハロウィンをはじめ年末にはクリスマスそして正月に入ります。
ここ2年程帰省もできない状態でしたから今年は帰省する方も増えるかもしれません。
去年はGo Toで人の動きが出てきていましたが、今年はワクチン証明で人の動きが出はじめるのかもしれません。ここで一気に規制全廃となればどうなるでしょうか。
今朝、NHKの朝ドラ「お帰りモネ」が最終回でした。2020年の正月明けから「それから数年後・・・・」という字幕が出た。コロナも終息した数年後という未来の姿が。モネも恋人と抱き合うことができるように。それを見ていて、この「数年後」という未来がいつなのかと思ったりしました。来年なのか。。。。。
今の感染防止の進み方からすれば無理かな。。。。。

【2022年】ツイッターつぶやき
日本では黒田総裁が金融緩和を引き続き行っていくとした。
企業利益も金融商品の利益に依存度を高めているのですから出口には向かえないのかもしれません。
一方アメリカでは利上げによるインフレ抑制効果が弱まるのではないかと憶測されはじめている。インフレによるそして利上げによる経済の縮小もはじまるかもしれません。
どちらの国も国民生活を犠牲にしながら互いにその道を突き進む。
でも、日本はアメリカ経済を少しでも支える絶対条件がある。
資本主義も実体経済から乖離した金融経済ですから、我慢比べをしながらこの乖離は大きな経済矛盾を産むでしょう。

【2023年】ツイッターつぶやき
フランスでトコジラミ大量発生しているというニュースがありましたが、日本でもじわじわと増加しているそうです。日本では見なくなったトコジラミですが、もしかしたらインバウンドの影響かとも。
トコジラミはカメムシの仲間だそうですが、今年は東京でも大量発生していました。気候の変動もあるのか、カメムシたちも頑張っているようですからトコジラミも発生しやすいのかもしれません。
小さな虫ですからね。どこでくっつくかわからない。一度家に持ち帰ればえらい騒ぎになるそうです。
外出でひどいかゆみがあったら、玄関先で裸になり洋服をビニール袋に入れて捨てるぐらいしないとだめですかね。。。。
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