【2024年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
≪過去の記事≫
【2003年】
晴れ。
と、思ったら少し雲が出てきました。はっきりしない天気です。
どうにか昨日の洗濯物が乾きました。
群ようこの「午前零時の玄米パン」を読み終えました。近いうちに感想を書きます。思わずゲラゲラ笑ってしまった。。。。。
女性の表と裏というのか、、、、、、ハハハ
【2004年】
電車の座席に座っていたら、社内車内のつり革にほとんどつかまるぐらいの混雑でした。本を読んでいたのですが、ふと僕の前に立っている人を見たら二人のご夫人。二人とも60歳少し前かな?どちらかというとおとなしそうなご婦人と、少し積極的そうなご婦人。
僕が降りる駅になったので立ち上がると、その積極的そうなご婦人が。。。。。
おとなしそうなご婦人を押すように蹴散らして座った。
この世の中積極的(ずうずうしい)人間が得するものですなぁ。。。。
社会に寄生をしたり、詐欺などの犯罪、政治家の裏金作り。。。。。会社の中にもある人を陥れたりする出世競争。。。。すべてずうずうしい人が得をしています。
まじめに地道に働くのがばかばかしくなるような気の遠くなるような単位の金が動いている。その金を動かしている人たちはどんな人たちだろう。
【2005年】
人には引きずっている過去がある。そして今という時間があり、未来がある。
引きずっている過去が消せたらと思うような過去だったら、そして未来が幸せに生きられるものだったら、今のあなたは消し去りたい過去を消すことを選ぶか?過去を引きずっても幸せな未来の約束を選ぶか?消し去りたい過去を消せるとすれば、今の自分は明るい気持ちで生きられる。しかし未来への約束はない。未来への幸せを求めたとすれば、しかしそこには消し去りたい過去が重く心にのしかかる。その幸せな未来も幸せな気持ちにはなれない。
主人公は、消し去りたい過去を消すことを選んだ。
消し去りたい過去を捨て今という時間のつかの間の心の安らぎを得た。しかし人というものは、時間の流れの中に必ず未来が来るはず。ふと未来の幸せを望んだ。
未来への幸せを望んだ瞬間、その幸せを手に入れることができたが主人公の心に消し去りたい過去が戻ってしまった。
主人公は、未来の幸せをはじめから望めばよかったのか?いや、結局は幸せを手に入れたが消し去りたい過去を引きずってその幸せは色あせてしまうのであり、結果は同じなのである。
それは今という現実の時間をいかに過ごすかという現実に主人公を引き戻す。
過去という時間の流れ、今という現実という時間、そして未来という来るべき時間の流れは消し去れないということである。
しかし、今という時間も幸せな状態ではない。金の世の中で心の平安はない。主人公は今という時間の中に闘うしかない。今という時間の中に闘う中でしか過去を清算できず、未来の幸せもないのである。主人公は、今という時間の中で過去と戦い未来を切り開こうとする。
過去は越後、未来は越前、今は越中。。。
これを擬人化とする。越後を八嶋智人、越前をカムカムミニキーナの座長松村武が演じる。八嶋と松村のカラミがおもしろく、コメディータッチで描かれている。主人公が過去を捨て去るときには、越前牛乳が流行り、未来の幸せを望んだときには越後牛乳が流行る。牛乳といえば母。。。。未来を切り開く子を産みミルク(母乳)で子を育てる。
そんな母性を感じさせられながら、いろいろと今という時代を思い描くような作品でした。
劇団「カムカムミニキーナ」
「越前牛乳」を観て来ました。今売り出し中の山崎樹範(ヤマシゲ)も劇団員で出ていました。
「西日の町」
文藝春秋社文庫
湯本 香樹実 著
もう25年以上昔の冬の頃だと思う。
すでに新幹線は博多まで開通していたが、それでも今の「のぞみ」ほど早くはなく、午前の早い列車に乗り込んでも冬の時期ということもあり関門海峡のトンネルをぬけたら日は西に傾いていた。
西日の町
小倉は僕の印象としても西日の町であり、トンネルを抜けてはじめて目に入った工場群の赤茶けて錆びた塀を西日は照らしていた。西日は心を感傷的にするが、赤茶けた工場群の風景を照らす西日は写真のように僕の心に張り付き、小倉の町を感傷的な風景のままに残している。
この「西日の町」に出てくるK市とは、小倉だと思われる。
離婚をし、息子和志とともに母(さー)は夫から逃げるようにして西へ西へと移り住み、列車からの風景である西日を追いかけるように小倉の町にたどり着く。こんな感傷的な作品の出だしと僕の心の中に残る西日の町小倉が重なっていった。
湯本さんの作品は、「夏の庭」と「ポプラの秋」しか読んでいませんが、どちらの作品も老人と子供が出てきて、その老人の死を見つめるという作品でしたが、この「西日の町」も小学生の和志と祖父「てこじい」とのふれあいとてこじいの死に向き合う和志の物語である。
「夜切る爪は鷹の爪」と子供の頃によく聞かされた。夜の暗い電灯の下で切る爪は目に入ったら危険だというようなことだったと思う。また夜に爪を切ると親の死に目に会えないとも。。。
この作品は、40歳を過ぎた頃の今という時間を生きる和志が思い出すように語っていくが、ある日、母さーが逃げるように避けていた父からもう長くは生きられないから人目会いたいと電話をしてきた。その夜和志は夜に爪を切った。子供の頃、祖父てこじいが転がり込んできたときも母親さーが夜に爪を切っていたことを思い出し語る。
和志と顔を覚えてもいない父との関係、母さーとてこじいとの夜に爪を切るような心の中の関係。和志は、なぜ父を避けようとしたのかは、母親さーが逃げるように父から離れたという事実からしかない。子供の頃になぜ母さーがてこじいを避けるようにし辛くあたったのかは霧の中である。
てこじいは布団にも入らずに壁にもたれかかるように毎夜寝る。それに対して母親さーは何も言わない。
少年和志は、てこじいからもその親子関係を「仕方ない」と聞き、おじや親類からもてこじいやその親のことを聞く。霧の中にわずかながら断片的に見える母親さーとてこじいとの過去。これが少しづつ明らかになる中で読者もさーがてこじいを憎むようにも感じる過去を知っていく。
しかし同時にさーとてこじいの中にある切手もきれない親子関係も現れる。さーが会社の男と肉体関係を結び妊娠をし、堕胎するが、その後寝込むようになると、さーはてこじいに「何とかしてよ」と涙ながらに話しをする。しかしそのときはてこじいは体もぼろぼろ状態で「何もしてあげられない」という。しかしもう歩くのもままならないてこじいが、さーの体がよくなるようにと遠い海に赤貝を採りに行きたくさんの赤貝の赤貝を持ち帰る。電車賃がないのから雨の中を歩いて。。。。てこじいが今できることができる一つだけの気持ちなのである。さーを捨て去った男に対して何も手助けもしてあげられないが。。。。
てこじいが突然倒れる。てこじいが壁に寄りかかるように寝ていたのは、もう横にもなって寝られないほど心臓が悪くなっていたのである。
入院をしたてこじいは、肝臓も悪くなっており、余命もそうはなくなっていた。毎日肝臓によいといわれるシジミ汁をさーは持っていく。
てこじいも過去をすまなかったとはさーには言わない。さーも過去をほじ繰り返すようには言わない。さーはてこじいに置き去りにされた過去を許しはしない。しかし父として甘えること、支えてもらいたいことを今も持ち続ける。ここにどうしても避けられないというのだろうか、血のつながりがある。父は父であり、娘は娘なのである。親子関係というものは、絵に描いたように素晴らしいものではない。てこじいも過去に親子関係があり、さーもてこじいとの親子関係があり、覚えもない父と和志との親子関係もある。しかしいろいろあっても子は親に頼り、親は子に骨を削ってまで育てるのである。平凡な言い方だが、親になってから親の大変さやありがたみがわかるというが、そんな親子の言葉では言い合わないような関係が存在するのである。
もちろん、夜ゆる爪を切ると親の死に目に会えないという古風な迷信を書いているが、この作品が、ありきたりな「親になってから親の大変さやありがたみがわかる」というような教訓的なものを表現したものではないだろう。
そこには、人の死があるのである。
親子関係は、その死の連鎖でもある。
親子関係はその人と人との関係がもっとも密な関係としてあり、そのもっとも密な関係にある人の死をも見つめるものである。和志は、てこじいと元気になったら馬に乗せてくれという。さーはシジミ汁を祈るように作り続ける。死神を見たてこじいは「やめろ!」と暴れまわるが孫や娘への思いを残しながら死んでいく。今の中に生きる和志は、さーも亡くし、父も他界しようとしている。もっとも密な関係にあった人の死は、人の一生をよく見ることができるだろうし、人の一生のはかなさを見るだろう。
以前ある方の掲示板でお話をさせていただいたことを「夕方らせんに住む人々」としてHPに残させていただいたのですが、その中に次のように書きました。
「この郷愁という意味では、生から死もひとつの帰るべきところへ急ぐということにもつながるのではないかと思います。死が帰るべきところ、行き着くところと見たとき、死に人は郷愁をおぼえるのではないかと思います。
『気狂いピエロ』の『夕方5時は恐ろしい』という言葉も、人の心を夕暮れが狂わせるという意味では恐ろしいのですが、恋人を殺して自分も死ぬということは、ある意味では死への郷愁というのか、最後に行くつく場所へ行く安堵感が出ているのではないかと思います。
この前、江國さんの『つめたいよるに』(新潮文庫版)を読み終わりましたが、その「解説」に『マジック・アワー』という言葉が紹介されています。映画カメラマンの専門用語だそうですが、太陽が沈みその瞬間に空が美しく光かがやく瞬間の時間で、信じられないような美しい映像が得られるそうです。『気狂いピエロ』のラストシーンもこのような美しい瞬間の映像ではと想像してしまいました。」
西日はさらに傾き、夜へと向う。
昼と夜の先目に心を狂わす思いが残り、一瞬のきらめきであるマジック・アワーの中に消えていく。人の死も同じである。しかしそこには、なんともいえぬ安堵感に近いものがあり、郷愁がある。それが温かみとして残る人たちの心に残る。
この作品のなんともいえぬ温かみは、この温かみかもしれない。
和志は死にゆく父に会いに行くだろうか?行くとすればどんな気持ちで行くだろうか?
【2006年】
昨日、沼津の魚市場で買ってきた味の干物やシャケのミリン漬けは、すごく脂がのっていておいしかったです。
今夜もシャケのミリン漬けの残りを焼いています。
世界史の未履修問題は解決したという報道がありますが、どうも未履修問題が受験の問題ばかりの視点と事後処理ばかりが目立ちます。世界史や以前問題となった近代日本史など、子どもたちが履修しなければならないことの本質的な議論をあまり聞きません。
また、今回の問題では、ゆとり教育との関連で授業時間数削減との関連での議論があり、まるでゆとり教育が間違いだったというようなことがあるような意見も聞きます。しかし、ゆとり教育と言っても、過度の競争が排除されたわけではなく、私立校では土曜も授業がある中での公立学校の週休二日制授業で、そこにも無理があるわけです。過度の競争をそのままにしたゆとり教育の矛盾を言っても何もならないでしょう。
そういう中で、新聞の一面を見てびっくりした。。。。
生徒の学力テストの結果如何によって学校予算に差をつけるという。クーラの害悪は別にして公立校では未だに教室のクーラー普及率が少ないという。西日カンカンの中で生徒は勉強する。。。公立校での教育予算の足りないことを見ないで予算格差をつける中での格差の拡大。
この記事は、足立区という区で実施されるようだが、以前から保護者が学校を選ぶというようなことがされているということを聞いていたが、競争はさらに強まるのでしょう。ネットで調べたが、ある意味いろいろな面で問題のある区で子どもたちを使って教育や効率学校運営の実験でもしようという試みかもしれない。
【2007年】
夕螺の文学論(笑)
<リンク1>
<リンク2>
女性作家を中心に読んできましたが、この狭い範囲内においてもいろいろ考えてきました。
なんだか風邪を引いてしまったかなぁ。。。。
少しのどが痛いし鼻水が出てだるいです。昨夜夕食後、またごろんと寝てしまい寒くて震えながら目が覚めました。いけませんなぁ。。。この悪癖。
まだ寝込むほどではありませんが、明日の朝が怖い。
紺屋は牛肉の焼肉風炒めと、水菜・トマト・モッツェレラチーズのサラダを作りました。モッツェレラチーズは、生チーズでチーズから出る水分もそのままにパックしたものです。チーズらしくないし、なんだかスカスカの歯ごたえ。でもなんだか知らないけど好物なのです。トマトによく合いますよ。
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
銀色夏生著 「つれづれノート⑲ 出航だよ」
(2010年9月25日角川文庫より初版発行)
「つれづれノート⑰」の感想だったか、以前まだ「かんちゃん」が高校1年生の頃から夏生さんの子離れ親離れがすすんでいるのかと書きました。もちろんまだ「さくちゃん」は小学生ですし「かんちゃん」もまだまだ親離れできる年齢ではないのですが、その頃から成長するお子さんたちの母親から一人の女性そして作家(詩人)としてまた羽ばたくことをお考えになっているものが見えました。その羽ばたきが今回の「出航だよ」に具体化されているのではないでしょうか。
もちろんお子さんたちは自立はできない。「さくちゃん」は東京の学校や友達関係になじめない。「かんちゃん」もその生活はまだまだ子供の部分を残している。「さくちゃん」はいろいろとお世話してくださる方に囲まれながらも宮崎の実家に一人暮らし。「かんちゃんは」相変わらず(笑)の野生児。夏生さんは宮崎と東京の二重生活を送ります。このような生活上での母親の立場を送りながらも一つひとつを解決しながらそして気持ちを強くしながらその時点での子離れ・親離れを形にしていきます。
「つれづれノート⑱」で感じたのですが、上のような生活の中で「さくちゃん」の飲酒疑惑からの兄「せっせ」との気まずい関係ができたり、元夫「イカチン」との関係もすれ違いも生じる。その中に夏生さんご自身の苛立ちや「さくちゃん」へのご心配で胸が張り裂けるような思いをされているものが行間に見えますし、「さくちゃん」への「ごめんね」と同時に宮崎生活を楽しんでいることに「だいじょうぶだね」という思いを感じる。「せっせ」「イカチン」「さくちゃん」もどんよりとしていることは夏生さんも知っているはず。でもそこから「出航だよ」と呼びかける。
あれだけ喧嘩が絶えなかった「かんちゃん」も一人の女になりかけ、今ではある意味夏生さんのパートナーという面も出てきます。それは音楽活動に見えます。心のふれあいも一人の大人の面も。「出航だよ」に応える「かんちゃん」。。。。
このような中に「つれづれノート⑲」では、「出航だよ」は具体化していきます。
ご自身の詩に曲をつけて音楽配信の会社を創る。そして何よりもその音楽活動を通じて新たな仲間をつくっていく。その人の中に入っていく面ではホームページを立ち上げ読者やファンとの直接的なふれあいのためにツイッターも立ち上げる。
夏生さんご自身お書きのように数年間こもっていたような生活とアーティストとしての自分を抜け出す。そこにはすごいエネルギーを感じます。このエネルギーは、やはり「今、やりたいこと」からくるのでしょうが、やはりもう一度自分を取り戻すことに、それは同時に読者やファンとのある意味親離れ・子離れとならざるを得ないものが出てきます。その中での読者やファンへの問いかけとしての「出航だよ」でもあるわけです。たしかに夏生さんに大きな変化があった。読者やファンにとってはどこかへ行ってしまうような気持ちでの親離れの寂しさや不安が沸き起こるでしょう。「出航だよ」に戸惑うような寂しさや不安。「さくちゃん」や「かんちゃん」がまだ母親の夏生さん引きつけようとする深いところの心理と同じようなファンの心理。このファンの心理は夏生さんもお気づきなはずで、最後のほうのページにとつとつと夏生さんを批判したりファンである人を非難するようなネット上の書き込みや他人になりすましてツイッターに入ってきた知人など、その真理を深く考える。結局は親の気を引こうとする子供のイジケのようなものなのでしょう。
夏生さんがご自身を厳しく取り戻すこと、それはまた読者やファンも自分を取り戻すことでなければなりません。
そうしないと「出航だよ」の夏生さんが何を読者やファンに投げかけているかが読み取ることができなくなるでしょう。同じように成長しようよ。。。。
ネット上にいるファンは、せっかくのネットがあるわけですから自分の「つれづれノート」をその個性や資質の中に書き込まないと今の夏生さんにはついていけなくなります。読者やファンも自分を取り戻しましょう。そして一歩進みましょう。
もちろん夏生さんのような同じことはできない。今の社会の中生活に生きているわけですから。何か大きな変化を求めるならそれは空想や勇み足の失敗にもなる。できることは今ある生活の中に自分を取り戻すということではないでしょうか。そして何か小さな楽しみややってみようということを見つけること。それは夏生さんの真似ではだめだし、夏生さんの言葉の鵜呑みでもだめでしょう。夏生さんの今の行動と言葉をどう自分の言葉に翻訳をするかです。
このように読者やファンもある意味寂しさと不安があるわけですが、それはまた夏生さんの寂しさと不安でもあると思います。外に出て行けば新たな人との交わりが起きる。ファン層も違ってくるでしょうし。作家詩人。。。。アーティストの面が強くなれば「つれづれ」に登場する人々も業界関係者やプロが多くなる。その世界から離れたところにいるアーティストではない裕福ではない読者やファンとのすれ違いがでる。
例としては適当かどうかはわかりませんが、チリノ炭鉱で生き埋めになった方。。。。。ひょんなことから英雄になり大統領にも直接会えるようになり、マスコミにも注目をされてしまった。それはその方々の誇りでしょう。うれしく思うでしょう。しかしいつしかまた自分の生活に戻るわけです。たぶんそうは裕福ではない日常の生活に。この落差の中に寂しさをなお感じることになるでしょう。そして事故がいつしか忘れられる中に孤独も出るでしょう。
夏生さんも一仕事終わったときにこの孤独が強く出るのではないでしょうか。雑誌やラジオなどはプロ集団とのかかわりです。こう言っては変かもしれませんが「ツツミさん」も「虫くん」もその他の人たちもその道のプロです。夏生さんにとってはやはりある意味仕事上のお付き合いなわけです。読者やファン層も変わりはじめる。。。。。
ですから夏生さんはずっとソウルパートナーを求める。歩き続けるために。
誰もが社会の中に出て行く中に孤独を感じる。だからこそ愛を求める。それは社会の中により強く人を引っ張るような立場になるとその孤独はより強くなり、やはり愛を求める。読者やファンの母親に帰るわけです。
夏生さんがどこへこれから向かっていくのか。。。。作家・詩人というアーティストから社長業が本職になったら。。。。でもそんな心配はないですね。
孤独を共有しながら悲しみを共有しながら!!
【2011年】ツイッターつぶやき
今日、実家に帰ると、お袋はしみじみ言いました。
「四十九日の内は死んだ人間が家の周りにいるというがほんとだね。。。。」
何があったのかと詳しく訊いたら、遺骨や遺影を飾る祭壇があるのですがお袋がちらっとそちらを見たら亡くなった親父が祭壇のテーブルの下を探し回って大工道具のカンナやのこぎりなどを出していたというのです。親父は昔から木工関連の職人でしたから大事な道具だったのでっす。あの世に持って行こうとしたのか道具が心配だったのでしょう。
先週は、親父が玄関近くに立っていたそうです。その日は大切な年金が通帳に振り込まれる日だったそうです。お袋が「ちゃんと後で小遣いをあげるから」と言ったら安心したのか消えたそうです。年金が入るとささやかにパチンコをするのが楽しみだったようです。
明日、親父の四十九日をやる予定です。
そういえば、僕も2週間ほど前から左足の膝が痛くて夜中に痛みで目が覚めていました。
今はだいぶおさまってきて夜中の痛みがなんだったんだろと思うほどです。
そういえば、親父はよく僕に体は大事にしろよと言っていましたので何か伝えたかったのでしょうか。親父歯は医者嫌いでよほどのことがなければ行きませんでした。早く医者に行けということだったのでしょうか。。。。でも、これといって今の内はそうは大きな病気はないようですが、気をつけろよということだったとは思います。
【2012年】ツイッターつぶやき
夢を見た
森、サバンナ、水辺。。。。。。
ものすごく広い大きな公園に風景が続く
僕は檻の中にいた
すごく楽しい気分で檻から風景を眺めた
なぜ楽しいのかと思ったらそこは動物園だったから
たくさんの動物を自然のままに見られる動物園だから
僕は檻から檻へと風景を眺めながら歩いた
しかし動物たちが全然見えない
唯一遠くに見えたサルたちが日常をおくっていた
たくさんの動物たちは生きるのに一生懸命なのだ
好き好んで檻になんか近づいてはくれない
僕は隣に立つ飼育員に文句を言った
飼育員は「まぁ、そう言わずにもう少し進んでみなさい」と
僕はたくさんの連なる檻の中を歩いた
しばらくすると視界が開けた広い広場に出た
区分けした檻に人がたくさん入っている
それをたくさんの動物たちが楽しそうに見ているのである
サルが僕にバナナをくれようとした
するとさっきの飼育員がサルに「餌をあげてはだめだよ」と
サル語で話をしている。。。。。。
檻はさびて悲しい色をしていた
【2013年】ツイッターつぶやき
毎日新聞社説に「黒田日銀の政策 物価だけ上昇しても」というのがありました。
このブログでも何度か書きましたが、デフレからの脱却の目安として物価上昇が置かれます(以前はインフレターゲットというさらに間違った概念)が、物価が上がればそれでデフレからの脱却になるかと言えばその物価が上がった中身が大切です。デフレからの脱却とは、経済が好調になった時に消費と供給のバランスにおいて物価が上がることもありますし、それが過度に作用したときにはインフレともなります。しかし今の日本での物価上昇はどのように起きているかと言えば、高級品などの売り上げは確かに伸びていますが、一般的な消費財がどうなのかと言えば伸び悩んでいる状態でしょう。そして物価の上昇は
「このところ物価が上昇している主な要因は、円安とエネルギー価格の値上がりである。景気の改善に導かれたものとは言い難い。このため、消費者の多くが「物価が上がっている」と実感しながら、それを「困ったことだ」と受け止めている。日銀の「生活意識に関するアンケート調査」によるもので、暮らし向きについても、9月調査で「ゆとりがなくなってきた」と回答した人の割合は6月調査より増えた。」 (上記リンクページより引用)
という状態にあると思います。景気の回復から物価が上昇したりそれがインフレ傾向になるという経済法則からではなく、金融緩和からの(たとえ副産物だとしても)円安による単なる物価上昇と国民生活の低下は「悪性」の物価上昇ととらえるべきでしょう。
ですからデフレからの脱却としてあげられる物価上昇はそれ自体では景気の回復とはならないわけです。悪性の物価上昇でも物価が上がればデフレからの脱却でそれは経済の回復であるという結論付けは危険とも思われるし、経済学的にも逆立ちをした論理と言えるでしょう。
そもそもデフレという規定付がどうなのでしょうか?物価が下がり続ける要因は生産性の向上により一つの商品に含まれる労働力量が減って大量に生産できるという経済法則にありますし、その上に日本の場合は賃金そのものを企業はコストとしてしまいこのコスト削減からの賃上げを続けてそれを生産性の向上と位置付けてしまった。この間違いから当然に経済法則は崩れてデフレ現象となったと見た方がよいわけです。それだけ日本のデフレは深刻なわけです。
それにもかかわらず悪性の物価高を経済の回復基調としてしまっている。ここから見えるのは更なるデフレ圧力でしょう。商品の値段が上がって物価高社会になってもそのあがった物価の中でデフレは続くわけです。
【2014年】ツイッターつぶやき
古い機械で生産されていた商品がその生産に新しい機械が導入された場合、以前は10個しか生産されなかったものが30個生産されるようになった場合、その商品の一つあたりの価値は同じでしょうか?
この場合労働者の数や労働時間(可変資本)は同じとして原材料など(不変資本)の価格も同じとした場合です。
1つあたりの商品への不変資本の価値移転の量は同じですから商品の価値には不変資本は関係をしません。残るのは労働力です。たとえば1日単位の労働者の数も労働時間も変わらないと仮定していますので、一つあたりの商品を生産する労働時間が短くなっているという違いだけが残ります。
物々交換を考えてもたくさんの労働力(労働時間)をかけた物と少ない労働力しか必要のない物の交換は、同じ1個だから1個と1戸個で交換されるかといえばそうはならないでしょう。1つあたりにたくさんの労働時間をかけて物を作った人は交換としては損をします。ですからこの場合同じ1個単位の物でもその価値が違うから交換はできないということになる。これと同じようにより少ない労働力量しか必要なくなった商品は価値低下を起こすでしょう。
このように同じ商品でも1つあたりの商品を生産する労働時間が少なくなり価値の低下を起こすのが生産性の向上です。
この価値低下から先の商品を生産する企業はより多く生産しても利益は同じといった矛盾に陥ります。
ではなぜ企業は生産性を向上させるのでしょうか?
もちろん答えは利益が大きくなるからなのですが、そのからくりはどこにあるのでしょうか?
その商品を生産する企業は多くの同じ商品を生産する競争相手がいて一つの産業となっています。その産業全体で商品市場に商品を並べるわけです。この中で先ほどの生産性を向上させた企業の商品は価値低下を起こしているが市場の中では他の企業の商品と同じ価格で売れるなら、小さな価値しかない物でも同じ価格で売れるのですからその差額は特別な利益(特別剰余価値)を生むでしょう。
ですから企業は競争をして生産性の向上を行います。
この競争自体が資本主義の発展につながるわけです。
しかし先の商品を生産する産業内の企業がすべて同じ競争力のある生産性の向上が行われて新たな生産性を上げる材料がない場合どうなるでしょうか?
商品はその価値どおりの価格となります。
もちろん一つあたりの価値の低下は商品の価格も下げるわけですから今まで特別剰余価値を得ていた企業の利益も低下をしていきます。もちろん産業内すべての企業で利益の低下を起こします。
同時に生産性の向上は少ない労働力量でより多くの商品を生産するわけですから市場における商品量増大をしています。その商品がすべて売れたとしても企業にとっては利益の縮小と感じるでしょう。
さらに商品量の過剰が見えてきたときに産業内の企業は値下げ競争に走り出してその安売りを支える体力のない企業は淘汰をされる。あるいはその淘汰過程で市場を独占するために合弁が行われる。倒産する企業も現れればそれは労働力の過剰となり失業が発生をする。
また、企業は利益を維持するために失業という労働力の需給関係を利用して賃下げに走るでしょう。
失業と賃下げが何をもたらすか?
それは個人消費の縮小です。
この時に先の産業ばかりではなくて国内の産業すべてで同じことが起きてしまった場合、その個人消費総体が落ち込むでしょう。商品は総体的のな過剰傾向を示す。するとまた企業は安売り競争とそこからの淘汰を起こしてさらに失業や低賃金を生む。このような悪循環がデフレ不況となります。
デフレの根本的な原因は貨幣量にあることではないことは明らかです。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
この前まで夏日のような暑い日が続いていたと思ったらいきなり夏から冬へ。
ニチニチソウやトリニアが落とした種が自然に発芽し花をつけそうでした。これを集めてプランタや鉢に植えておいたのですが、こう寒くなるとだめになるかと思いベランダの日が当たるところや一部を出窓に移しました。
今日のように暖かい日差しがあるときに日光浴をさせて夜は出窓に移しています。
小さな花が咲き楽しめるかもしれませんし、冬を越せればまた元気にたくさんの花を咲かせると思います。
種はトリニアと松葉ボタンをとってありますので春になったら蒔いてみようと思います。
種から育てたビオラがだいぶ大きくなり、鉢の底に根っこが出てくるようになりました。もう一息・・・・
【2017年】ツイッターつぶやき
朝日新聞朝刊に「車大手無期雇用を回避」という記事があった。
期間従業員は5年間雇用されれば労働者の希望により無期雇用に切り替えることができるという方がある。しかし5年間雇用をされていても途中で6か月以上の空白があると無期雇用の希望を企業は受け入れなくてよいという。この法の抜け穴を利用して企業が期間従業員との契約ルールを変更して無期雇用をしなくてもよいようにするという。
不安定な1年契約より無期契約の方が労働条件も安定するでしょうし、将来の生活設計も立てやすくなる。
今の日本経済の停滞のために全体的な賃上げが必要になっているが、同時に雇用の安定化と正社員化が不可欠です。
車大手のやり方は他の産業にも波及するでしょうし、実際に法の抜け穴を使っている企業もあるのかもしれない。すると個人消費上昇の妨げの一要素となってしまうでしょう。
車産業も国内の販売台数で四苦八苦して、売れる車は軽自動車という実態にあるのではないでしょうか。結局は労働者の低賃金と不安定雇用は企業の活動や利益に跳ね返ってきます。
最近の新車の点検不正が問題となっています。他の巨大企業での不正も多くなってきています。企業の利益という問題ではなくて日本企業の信頼までが揺るがされてしまう懸念も出てくるでしょう。日本製品は安くて品質が良いという世界の常識から転落していくのではないか。失われた信頼を取り戻すには長い年月を必要とします。
【2018年】ツイッターつぶやき
当たり前のことではあるが忘れてしまうのが、社会すべては人の労働によって作り出され維持され運営されている。
人の労働も社会の分業が進む中でより細分化された労働となる。また、これまで必要であった技術などが新たな技術に変化をする進歩があるから労働の中身にも変化がある。
しかし人の労働によって社会は成り立っていることに変化はない。
現在という瞬間において社会は過去の労働によって作り上げられている。この過去の労働は蓄積の中にあり、古い技術での労働が新しい技術による労働に変わったとして、古い過去の労働ガムになったわけではなく、新しい技術での労働の土台となっている。
労働は人の労働力の消費である。
過去のすべての労働力が様々な分業において消費をされて人の労働となる。人の労働力の蓄積による具体的な労働の蓄積によって社会は成り立っているのならば、人というものを中心に社会は運営をされなくてはいけないでしょう。
ところが社会のすべては人の労働力の消費という具体的な労働によって成り立つことが忘れられる社会においては過去の労働の蓄積も忘れられる。
今の社会はこれが目に見えて社会の現象として表れているでしょう。
人の労働は大切にされない。経済面においても生活においても。過去の労働は今の高齢者による労働でした。しかし高齢者は邪魔者となり高齢化が社会問題だとされる。
過去の労働がないがしろになるということは、先にも書いたように現在労働をしている人たちの労働もないがしろにされることにつながらる。安心して結婚も考えられない若い人たち。それは少子化にもつながるでしょう。もちろん結婚をしても子供は1人でやっととか。
社会をどのような形にするかは政治の責任である。
政治の劣化は加速度的に悪化をしている。
【2019年】ツイッターつぶやき
8日はもう立冬ですなぁ。。。。。
天気予報では東京も今週は10度を下回る日が続くそうです。
慌てて冬支度です。
明日はこたつ布団を出して干したいと思います。
寒いですが天気は良さそうなので助かります。
冬物の下着やパジャマがよれよれ。。。。
早めに買いに行こう。。。。
今夜はしゃぶしゃぶです。夕螺家恒例レタスしゃぶしゃぶ。。。。
しめはいつもスープを使ってきしめんなのですが、昼にうどんを食ったのでシャケ茶漬けにします。
先日はおでんで、そのまた先日は水炊きでした。
鍋料理が増えます。。。。。。
【2020年】ツイッターつぶやき
アメリカ大統領選の結果が混とんとしていますが、どちらが勝ってもアメリカの低所得層貧困層のための政治は期待できないでしょう。4年前のトランプさん勝利ではこの低所得層の支持を得たようですが、結局は貧困問題などの解決には至らなかったようです。ポピュリズムも破綻をします。
アメリカは二大政党制ですが、その中身は保守二大政党制でしょう。
日本でも社会とがいつまでも政権をとれなかった中で二大政党制が言われて社会党の解党にまでつながりました。しかしその後の民主党勢力を見ても一時的に政権をとれましたがすぐに安倍内閣を産んでしまいました。民主党が保守政党であることがはっきりすれば自民党には勝てないのです。
それにしてもアメリカの大統領選は政策が見えますか?舌戦は激しいですが国民のための政治特に経済政策が見えません。これは日本でも同じでスキャンダルの追及などの舌銭で明け暮れています。
二大政党制というと数のバランスの様に勘違いをしてしまいますが、実は政策の違いがはっきりした勢力のぶつかりでなければ二大政党氏とは言えないのです。
55年体制での自民党と社会党(万年野党であっても)政策論争の方がある意味二大政党制だったのです。数の力では負けていた社会党ですが、労働組合や市民団体そして知識層との結びつきが自民党への対立として力をもって今のです。
今の日本の二大政党制はくっついたり離れたりして数合わせになっています。これでは上記したような本来の二大政党制はできないでしょう。
アメリカはもっと悲惨でその反共主義は格差の解消など社会の改良を言うだけで社会主義だとなってしまっている。その中での二大政党制ですから、悲惨です。もちろん日本もその方向に向かっているのですが。。。。
【2021年】ツイッターつぶやき
軽井沢から小諸へドライブに行ってきました。
≪軽井沢 白糸の滝≫
≪小諸 懐古園≫
≪千曲川≫
【2022年】ツイッターつぶやき
コロナ感染者数が増加傾向がはっきりしてきた。
下げ止まりかと思っていたらすぐに増加傾向ですなぁ。。。。
第八波という言葉を多く聞くようになりました。
年末にかけてまた波が来るかもしれません。
その中で、国はもう規制をしませんからワクチン一本で突き進むでしょう。
4回目のワクチン接種が行われてすぐに5回目のワクチンクーポンが配布されています。どうも3カ月単位での接種となりそうです。ワクチン接種の初めは8カ月が過ぎたらということでしたが、4回目は5カ月に短縮されて今度は3カ月です。
幼児を含む子供たちへの接種もはじまっていますが、何の感染防止もなされないままに国民はワクチン漬けになっていきます。そのうえ、インフルエンザや帯状疱疹のワクチンも同時接種しようとしています。
ワクチンが体にどのような影響を及ぼすかははっきりされていませんが、コロナ禍とワクチンへの心配を天秤にかけられているようです。ワクチン接種そのものが自己判断ですからね。それは自己責任ということです。コロナ対策をしないで個人の自己責任で接種をしろ。これが今の政府です。
若い人は重症化しにくいわけですからリスクを考えて接種をしない人が増加するでしょう。無症状ならば街を闊歩する。その中で年寄りはワクチンをと。これがウィズコロナです。
【2023年】ツイッターつぶやき
ここ数日夏日です。
今朝起きたら汗をかいていて寒気が。。。。。。
鼻水も出るので熱を測ったら36.5度。
鼻水はすぐに止まったので良かったですがだるさがあります。
これと言って風邪の症状はないのでたぶん気温の変化のせいだと思います。
春先に同じダルさが出るのですが、どうも気温根変化に弱いです。
(記事なし)
≪過去の記事≫
【2003年】
晴れ。
と、思ったら少し雲が出てきました。はっきりしない天気です。
どうにか昨日の洗濯物が乾きました。
群ようこの「午前零時の玄米パン」を読み終えました。近いうちに感想を書きます。思わずゲラゲラ笑ってしまった。。。。。
女性の表と裏というのか、、、、、、ハハハ
【2004年】
電車の座席に座っていたら、
僕が降りる駅になったので立ち上がると、その積極的そうなご婦人が。。。。。
おとなしそうなご婦人を押すように蹴散らして座った。
この世の中積極的(ずうずうしい)人間が得するものですなぁ。。。。
社会に寄生をしたり、詐欺などの犯罪、政治家の裏金作り。。。。。会社の中にもある人を陥れたりする出世競争。。。。すべてずうずうしい人が得をしています。
まじめに地道に働くのがばかばかしくなるような気の遠くなるような単位の金が動いている。その金を動かしている人たちはどんな人たちだろう。
【2005年】
人には引きずっている過去がある。そして今という時間があり、未来がある。
引きずっている過去が消せたらと思うような過去だったら、そして未来が幸せに生きられるものだったら、今のあなたは消し去りたい過去を消すことを選ぶか?過去を引きずっても幸せな未来の約束を選ぶか?消し去りたい過去を消せるとすれば、今の自分は明るい気持ちで生きられる。しかし未来への約束はない。未来への幸せを求めたとすれば、しかしそこには消し去りたい過去が重く心にのしかかる。その幸せな未来も幸せな気持ちにはなれない。
主人公は、消し去りたい過去を消すことを選んだ。
消し去りたい過去を捨て今という時間のつかの間の心の安らぎを得た。しかし人というものは、時間の流れの中に必ず未来が来るはず。ふと未来の幸せを望んだ。
未来への幸せを望んだ瞬間、その幸せを手に入れることができたが主人公の心に消し去りたい過去が戻ってしまった。
主人公は、未来の幸せをはじめから望めばよかったのか?いや、結局は幸せを手に入れたが消し去りたい過去を引きずってその幸せは色あせてしまうのであり、結果は同じなのである。
それは今という現実の時間をいかに過ごすかという現実に主人公を引き戻す。
過去という時間の流れ、今という現実という時間、そして未来という来るべき時間の流れは消し去れないということである。
しかし、今という時間も幸せな状態ではない。金の世の中で心の平安はない。主人公は今という時間の中に闘うしかない。今という時間の中に闘う中でしか過去を清算できず、未来の幸せもないのである。主人公は、今という時間の中で過去と戦い未来を切り開こうとする。
過去は越後、未来は越前、今は越中。。。
これを擬人化とする。越後を八嶋智人、越前をカムカムミニキーナの座長松村武が演じる。八嶋と松村のカラミがおもしろく、コメディータッチで描かれている。主人公が過去を捨て去るときには、越前牛乳が流行り、未来の幸せを望んだときには越後牛乳が流行る。牛乳といえば母。。。。未来を切り開く子を産みミルク(母乳)で子を育てる。
そんな母性を感じさせられながら、いろいろと今という時代を思い描くような作品でした。
劇団「カムカムミニキーナ」
「越前牛乳」を観て来ました。今売り出し中の山崎樹範(ヤマシゲ)も劇団員で出ていました。
「西日の町」
文藝春秋社文庫
湯本 香樹実 著
もう25年以上昔の冬の頃だと思う。
すでに新幹線は博多まで開通していたが、それでも今の「のぞみ」ほど早くはなく、午前の早い列車に乗り込んでも冬の時期ということもあり関門海峡のトンネルをぬけたら日は西に傾いていた。
西日の町
小倉は僕の印象としても西日の町であり、トンネルを抜けてはじめて目に入った工場群の赤茶けて錆びた塀を西日は照らしていた。西日は心を感傷的にするが、赤茶けた工場群の風景を照らす西日は写真のように僕の心に張り付き、小倉の町を感傷的な風景のままに残している。
この「西日の町」に出てくるK市とは、小倉だと思われる。
離婚をし、息子和志とともに母(さー)は夫から逃げるようにして西へ西へと移り住み、列車からの風景である西日を追いかけるように小倉の町にたどり着く。こんな感傷的な作品の出だしと僕の心の中に残る西日の町小倉が重なっていった。
湯本さんの作品は、「夏の庭」と「ポプラの秋」しか読んでいませんが、どちらの作品も老人と子供が出てきて、その老人の死を見つめるという作品でしたが、この「西日の町」も小学生の和志と祖父「てこじい」とのふれあいとてこじいの死に向き合う和志の物語である。
「夜切る爪は鷹の爪」と子供の頃によく聞かされた。夜の暗い電灯の下で切る爪は目に入ったら危険だというようなことだったと思う。また夜に爪を切ると親の死に目に会えないとも。。。
この作品は、40歳を過ぎた頃の今という時間を生きる和志が思い出すように語っていくが、ある日、母さーが逃げるように避けていた父からもう長くは生きられないから人目会いたいと電話をしてきた。その夜和志は夜に爪を切った。子供の頃、祖父てこじいが転がり込んできたときも母親さーが夜に爪を切っていたことを思い出し語る。
和志と顔を覚えてもいない父との関係、母さーとてこじいとの夜に爪を切るような心の中の関係。和志は、なぜ父を避けようとしたのかは、母親さーが逃げるように父から離れたという事実からしかない。子供の頃になぜ母さーがてこじいを避けるようにし辛くあたったのかは霧の中である。
てこじいは布団にも入らずに壁にもたれかかるように毎夜寝る。それに対して母親さーは何も言わない。
少年和志は、てこじいからもその親子関係を「仕方ない」と聞き、おじや親類からもてこじいやその親のことを聞く。霧の中にわずかながら断片的に見える母親さーとてこじいとの過去。これが少しづつ明らかになる中で読者もさーがてこじいを憎むようにも感じる過去を知っていく。
しかし同時にさーとてこじいの中にある切手もきれない親子関係も現れる。さーが会社の男と肉体関係を結び妊娠をし、堕胎するが、その後寝込むようになると、さーはてこじいに「何とかしてよ」と涙ながらに話しをする。しかしそのときはてこじいは体もぼろぼろ状態で「何もしてあげられない」という。しかしもう歩くのもままならないてこじいが、さーの体がよくなるようにと遠い海に赤貝を採りに行きたくさんの赤貝の赤貝を持ち帰る。電車賃がないのから雨の中を歩いて。。。。てこじいが今できることができる一つだけの気持ちなのである。さーを捨て去った男に対して何も手助けもしてあげられないが。。。。
てこじいが突然倒れる。てこじいが壁に寄りかかるように寝ていたのは、もう横にもなって寝られないほど心臓が悪くなっていたのである。
入院をしたてこじいは、肝臓も悪くなっており、余命もそうはなくなっていた。毎日肝臓によいといわれるシジミ汁をさーは持っていく。
てこじいも過去をすまなかったとはさーには言わない。さーも過去をほじ繰り返すようには言わない。さーはてこじいに置き去りにされた過去を許しはしない。しかし父として甘えること、支えてもらいたいことを今も持ち続ける。ここにどうしても避けられないというのだろうか、血のつながりがある。父は父であり、娘は娘なのである。親子関係というものは、絵に描いたように素晴らしいものではない。てこじいも過去に親子関係があり、さーもてこじいとの親子関係があり、覚えもない父と和志との親子関係もある。しかしいろいろあっても子は親に頼り、親は子に骨を削ってまで育てるのである。平凡な言い方だが、親になってから親の大変さやありがたみがわかるというが、そんな親子の言葉では言い合わないような関係が存在するのである。
もちろん、夜ゆる爪を切ると親の死に目に会えないという古風な迷信を書いているが、この作品が、ありきたりな「親になってから親の大変さやありがたみがわかる」というような教訓的なものを表現したものではないだろう。
そこには、人の死があるのである。
親子関係は、その死の連鎖でもある。
親子関係はその人と人との関係がもっとも密な関係としてあり、そのもっとも密な関係にある人の死をも見つめるものである。和志は、てこじいと元気になったら馬に乗せてくれという。さーはシジミ汁を祈るように作り続ける。死神を見たてこじいは「やめろ!」と暴れまわるが孫や娘への思いを残しながら死んでいく。今の中に生きる和志は、さーも亡くし、父も他界しようとしている。もっとも密な関係にあった人の死は、人の一生をよく見ることができるだろうし、人の一生のはかなさを見るだろう。
以前ある方の掲示板でお話をさせていただいたことを「夕方らせんに住む人々」としてHPに残させていただいたのですが、その中に次のように書きました。
「この郷愁という意味では、生から死もひとつの帰るべきところへ急ぐということにもつながるのではないかと思います。死が帰るべきところ、行き着くところと見たとき、死に人は郷愁をおぼえるのではないかと思います。
『気狂いピエロ』の『夕方5時は恐ろしい』という言葉も、人の心を夕暮れが狂わせるという意味では恐ろしいのですが、恋人を殺して自分も死ぬということは、ある意味では死への郷愁というのか、最後に行くつく場所へ行く安堵感が出ているのではないかと思います。
この前、江國さんの『つめたいよるに』(新潮文庫版)を読み終わりましたが、その「解説」に『マジック・アワー』という言葉が紹介されています。映画カメラマンの専門用語だそうですが、太陽が沈みその瞬間に空が美しく光かがやく瞬間の時間で、信じられないような美しい映像が得られるそうです。『気狂いピエロ』のラストシーンもこのような美しい瞬間の映像ではと想像してしまいました。」
西日はさらに傾き、夜へと向う。
昼と夜の先目に心を狂わす思いが残り、一瞬のきらめきであるマジック・アワーの中に消えていく。人の死も同じである。しかしそこには、なんともいえぬ安堵感に近いものがあり、郷愁がある。それが温かみとして残る人たちの心に残る。
この作品のなんともいえぬ温かみは、この温かみかもしれない。
和志は死にゆく父に会いに行くだろうか?行くとすればどんな気持ちで行くだろうか?
【2006年】
昨日、沼津の魚市場で買ってきた味の干物やシャケのミリン漬けは、すごく脂がのっていておいしかったです。
今夜もシャケのミリン漬けの残りを焼いています。
世界史の未履修問題は解決したという報道がありますが、どうも未履修問題が受験の問題ばかりの視点と事後処理ばかりが目立ちます。世界史や以前問題となった近代日本史など、子どもたちが履修しなければならないことの本質的な議論をあまり聞きません。
また、今回の問題では、ゆとり教育との関連で授業時間数削減との関連での議論があり、まるでゆとり教育が間違いだったというようなことがあるような意見も聞きます。しかし、ゆとり教育と言っても、過度の競争が排除されたわけではなく、私立校では土曜も授業がある中での公立学校の週休二日制授業で、そこにも無理があるわけです。過度の競争をそのままにしたゆとり教育の矛盾を言っても何もならないでしょう。
そういう中で、新聞の一面を見てびっくりした。。。。
生徒の学力テストの結果如何によって学校予算に差をつけるという。クーラの害悪は別にして公立校では未だに教室のクーラー普及率が少ないという。西日カンカンの中で生徒は勉強する。。。公立校での教育予算の足りないことを見ないで予算格差をつける中での格差の拡大。
この記事は、足立区という区で実施されるようだが、以前から保護者が学校を選ぶというようなことがされているということを聞いていたが、競争はさらに強まるのでしょう。ネットで調べたが、ある意味いろいろな面で問題のある区で子どもたちを使って教育や効率学校運営の実験でもしようという試みかもしれない。
【2007年】
夕螺の文学論(笑)
<リンク1>
<リンク2>
女性作家を中心に読んできましたが、この狭い範囲内においてもいろいろ考えてきました。
なんだか風邪を引いてしまったかなぁ。。。。
少しのどが痛いし鼻水が出てだるいです。昨夜夕食後、またごろんと寝てしまい寒くて震えながら目が覚めました。いけませんなぁ。。。この悪癖。
まだ寝込むほどではありませんが、明日の朝が怖い。
紺屋は牛肉の焼肉風炒めと、水菜・トマト・モッツェレラチーズのサラダを作りました。モッツェレラチーズは、生チーズでチーズから出る水分もそのままにパックしたものです。チーズらしくないし、なんだかスカスカの歯ごたえ。でもなんだか知らないけど好物なのです。トマトによく合いますよ。
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
銀色夏生著 「つれづれノート⑲ 出航だよ」
(2010年9月25日角川文庫より初版発行)
「つれづれノート⑰」の感想だったか、以前まだ「かんちゃん」が高校1年生の頃から夏生さんの子離れ親離れがすすんでいるのかと書きました。もちろんまだ「さくちゃん」は小学生ですし「かんちゃん」もまだまだ親離れできる年齢ではないのですが、その頃から成長するお子さんたちの母親から一人の女性そして作家(詩人)としてまた羽ばたくことをお考えになっているものが見えました。その羽ばたきが今回の「出航だよ」に具体化されているのではないでしょうか。
もちろんお子さんたちは自立はできない。「さくちゃん」は東京の学校や友達関係になじめない。「かんちゃん」もその生活はまだまだ子供の部分を残している。「さくちゃん」はいろいろとお世話してくださる方に囲まれながらも宮崎の実家に一人暮らし。「かんちゃんは」相変わらず(笑)の野生児。夏生さんは宮崎と東京の二重生活を送ります。このような生活上での母親の立場を送りながらも一つひとつを解決しながらそして気持ちを強くしながらその時点での子離れ・親離れを形にしていきます。
「つれづれノート⑱」で感じたのですが、上のような生活の中で「さくちゃん」の飲酒疑惑からの兄「せっせ」との気まずい関係ができたり、元夫「イカチン」との関係もすれ違いも生じる。その中に夏生さんご自身の苛立ちや「さくちゃん」へのご心配で胸が張り裂けるような思いをされているものが行間に見えますし、「さくちゃん」への「ごめんね」と同時に宮崎生活を楽しんでいることに「だいじょうぶだね」という思いを感じる。「せっせ」「イカチン」「さくちゃん」もどんよりとしていることは夏生さんも知っているはず。でもそこから「出航だよ」と呼びかける。
あれだけ喧嘩が絶えなかった「かんちゃん」も一人の女になりかけ、今ではある意味夏生さんのパートナーという面も出てきます。それは音楽活動に見えます。心のふれあいも一人の大人の面も。「出航だよ」に応える「かんちゃん」。。。。
このような中に「つれづれノート⑲」では、「出航だよ」は具体化していきます。
ご自身の詩に曲をつけて音楽配信の会社を創る。そして何よりもその音楽活動を通じて新たな仲間をつくっていく。その人の中に入っていく面ではホームページを立ち上げ読者やファンとの直接的なふれあいのためにツイッターも立ち上げる。
夏生さんご自身お書きのように数年間こもっていたような生活とアーティストとしての自分を抜け出す。そこにはすごいエネルギーを感じます。このエネルギーは、やはり「今、やりたいこと」からくるのでしょうが、やはりもう一度自分を取り戻すことに、それは同時に読者やファンとのある意味親離れ・子離れとならざるを得ないものが出てきます。その中での読者やファンへの問いかけとしての「出航だよ」でもあるわけです。たしかに夏生さんに大きな変化があった。読者やファンにとってはどこかへ行ってしまうような気持ちでの親離れの寂しさや不安が沸き起こるでしょう。「出航だよ」に戸惑うような寂しさや不安。「さくちゃん」や「かんちゃん」がまだ母親の夏生さん引きつけようとする深いところの心理と同じようなファンの心理。このファンの心理は夏生さんもお気づきなはずで、最後のほうのページにとつとつと夏生さんを批判したりファンである人を非難するようなネット上の書き込みや他人になりすましてツイッターに入ってきた知人など、その真理を深く考える。結局は親の気を引こうとする子供のイジケのようなものなのでしょう。
夏生さんがご自身を厳しく取り戻すこと、それはまた読者やファンも自分を取り戻すことでなければなりません。
そうしないと「出航だよ」の夏生さんが何を読者やファンに投げかけているかが読み取ることができなくなるでしょう。同じように成長しようよ。。。。
ネット上にいるファンは、せっかくのネットがあるわけですから自分の「つれづれノート」をその個性や資質の中に書き込まないと今の夏生さんにはついていけなくなります。読者やファンも自分を取り戻しましょう。そして一歩進みましょう。
もちろん夏生さんのような同じことはできない。今の社会の中生活に生きているわけですから。何か大きな変化を求めるならそれは空想や勇み足の失敗にもなる。できることは今ある生活の中に自分を取り戻すということではないでしょうか。そして何か小さな楽しみややってみようということを見つけること。それは夏生さんの真似ではだめだし、夏生さんの言葉の鵜呑みでもだめでしょう。夏生さんの今の行動と言葉をどう自分の言葉に翻訳をするかです。
このように読者やファンもある意味寂しさと不安があるわけですが、それはまた夏生さんの寂しさと不安でもあると思います。外に出て行けば新たな人との交わりが起きる。ファン層も違ってくるでしょうし。作家詩人。。。。アーティストの面が強くなれば「つれづれ」に登場する人々も業界関係者やプロが多くなる。その世界から離れたところにいるアーティストではない裕福ではない読者やファンとのすれ違いがでる。
例としては適当かどうかはわかりませんが、チリノ炭鉱で生き埋めになった方。。。。。ひょんなことから英雄になり大統領にも直接会えるようになり、マスコミにも注目をされてしまった。それはその方々の誇りでしょう。うれしく思うでしょう。しかしいつしかまた自分の生活に戻るわけです。たぶんそうは裕福ではない日常の生活に。この落差の中に寂しさをなお感じることになるでしょう。そして事故がいつしか忘れられる中に孤独も出るでしょう。
夏生さんも一仕事終わったときにこの孤独が強く出るのではないでしょうか。雑誌やラジオなどはプロ集団とのかかわりです。こう言っては変かもしれませんが「ツツミさん」も「虫くん」もその他の人たちもその道のプロです。夏生さんにとってはやはりある意味仕事上のお付き合いなわけです。読者やファン層も変わりはじめる。。。。。
ですから夏生さんはずっとソウルパートナーを求める。歩き続けるために。
誰もが社会の中に出て行く中に孤独を感じる。だからこそ愛を求める。それは社会の中により強く人を引っ張るような立場になるとその孤独はより強くなり、やはり愛を求める。読者やファンの母親に帰るわけです。
夏生さんがどこへこれから向かっていくのか。。。。作家・詩人というアーティストから社長業が本職になったら。。。。でもそんな心配はないですね。
孤独を共有しながら悲しみを共有しながら!!
【2011年】ツイッターつぶやき
今日、実家に帰ると、お袋はしみじみ言いました。
「四十九日の内は死んだ人間が家の周りにいるというがほんとだね。。。。」
何があったのかと詳しく訊いたら、遺骨や遺影を飾る祭壇があるのですがお袋がちらっとそちらを見たら亡くなった親父が祭壇のテーブルの下を探し回って大工道具のカンナやのこぎりなどを出していたというのです。親父は昔から木工関連の職人でしたから大事な道具だったのでっす。あの世に持って行こうとしたのか道具が心配だったのでしょう。
先週は、親父が玄関近くに立っていたそうです。その日は大切な年金が通帳に振り込まれる日だったそうです。お袋が「ちゃんと後で小遣いをあげるから」と言ったら安心したのか消えたそうです。年金が入るとささやかにパチンコをするのが楽しみだったようです。
明日、親父の四十九日をやる予定です。
そういえば、僕も2週間ほど前から左足の膝が痛くて夜中に痛みで目が覚めていました。
今はだいぶおさまってきて夜中の痛みがなんだったんだろと思うほどです。
そういえば、親父はよく僕に体は大事にしろよと言っていましたので何か伝えたかったのでしょうか。親父
【2012年】ツイッターつぶやき
夢を見た
森、サバンナ、水辺。。。。。。
ものすごく広い大きな公園に風景が続く
僕は檻の中にいた
すごく楽しい気分で檻から風景を眺めた
なぜ楽しいのかと思ったらそこは動物園だったから
たくさんの動物を自然のままに見られる動物園だから
僕は檻から檻へと風景を眺めながら歩いた
しかし動物たちが全然見えない
唯一遠くに見えたサルたちが日常をおくっていた
たくさんの動物たちは生きるのに一生懸命なのだ
好き好んで檻になんか近づいてはくれない
僕は隣に立つ飼育員に文句を言った
飼育員は「まぁ、そう言わずにもう少し進んでみなさい」と
僕はたくさんの連なる檻の中を歩いた
しばらくすると視界が開けた広い広場に出た
区分けした檻に人がたくさん入っている
それをたくさんの動物たちが楽しそうに見ているのである
サルが僕にバナナをくれようとした
するとさっきの飼育員がサルに「餌をあげてはだめだよ」と
サル語で話をしている。。。。。。
檻はさびて悲しい色をしていた
【2013年】ツイッターつぶやき
毎日新聞社説に「黒田日銀の政策 物価だけ上昇しても」というのがありました。
このブログでも何度か書きましたが、デフレからの脱却の目安として物価上昇が置かれます(以前はインフレターゲットというさらに間違った概念)が、物価が上がればそれでデフレからの脱却になるかと言えばその物価が上がった中身が大切です。デフレからの脱却とは、経済が好調になった時に消費と供給のバランスにおいて物価が上がることもありますし、それが過度に作用したときにはインフレともなります。しかし今の日本での物価上昇はどのように起きているかと言えば、高級品などの売り上げは確かに伸びていますが、一般的な消費財がどうなのかと言えば伸び悩んでいる状態でしょう。そして物価の上昇は
「このところ物価が上昇している主な要因は、円安とエネルギー価格の値上がりである。景気の改善に導かれたものとは言い難い。このため、消費者の多くが「物価が上がっている」と実感しながら、それを「困ったことだ」と受け止めている。日銀の「生活意識に関するアンケート調査」によるもので、暮らし向きについても、9月調査で「ゆとりがなくなってきた」と回答した人の割合は6月調査より増えた。」 (上記リンクページより引用)
という状態にあると思います。景気の回復から物価が上昇したりそれがインフレ傾向になるという経済法則からではなく、金融緩和からの(たとえ副産物だとしても)円安による単なる物価上昇と国民生活の低下は「悪性」の物価上昇ととらえるべきでしょう。
ですからデフレからの脱却としてあげられる物価上昇はそれ自体では景気の回復とはならないわけです。悪性の物価上昇でも物価が上がればデフレからの脱却でそれは経済の回復であるという結論付けは危険とも思われるし、経済学的にも逆立ちをした論理と言えるでしょう。
そもそもデフレという規定付がどうなのでしょうか?物価が下がり続ける要因は生産性の向上により一つの商品に含まれる労働力量が減って大量に生産できるという経済法則にありますし、その上に日本の場合は賃金そのものを企業はコストとしてしまいこのコスト削減からの賃上げを続けてそれを生産性の向上と位置付けてしまった。この間違いから当然に経済法則は崩れてデフレ現象となったと見た方がよいわけです。それだけ日本のデフレは深刻なわけです。
それにもかかわらず悪性の物価高を経済の回復基調としてしまっている。ここから見えるのは更なるデフレ圧力でしょう。商品の値段が上がって物価高社会になってもそのあがった物価の中でデフレは続くわけです。
【2014年】ツイッターつぶやき
古い機械で生産されていた商品がその生産に新しい機械が導入された場合、以前は10個しか生産されなかったものが30個生産されるようになった場合、その商品の一つあたりの価値は同じでしょうか?
この場合労働者の数や労働時間(可変資本)は同じとして原材料など(不変資本)の価格も同じとした場合です。
1つあたりの商品への不変資本の価値移転の量は同じですから商品の価値には不変資本は関係をしません。残るのは労働力です。たとえば1日単位の労働者の数も労働時間も変わらないと仮定していますので、一つあたりの商品を生産する労働時間が短くなっているという違いだけが残ります。
物々交換を考えてもたくさんの労働力(労働時間)をかけた物と少ない労働力しか必要のない物の交換は、同じ1個だから1個と1戸個で交換されるかといえばそうはならないでしょう。1つあたりにたくさんの労働時間をかけて物を作った人は交換としては損をします。ですからこの場合同じ1個単位の物でもその価値が違うから交換はできないということになる。これと同じようにより少ない労働力量しか必要なくなった商品は価値低下を起こすでしょう。
このように同じ商品でも1つあたりの商品を生産する労働時間が少なくなり価値の低下を起こすのが生産性の向上です。
この価値低下から先の商品を生産する企業はより多く生産しても利益は同じといった矛盾に陥ります。
ではなぜ企業は生産性を向上させるのでしょうか?
もちろん答えは利益が大きくなるからなのですが、そのからくりはどこにあるのでしょうか?
その商品を生産する企業は多くの同じ商品を生産する競争相手がいて一つの産業となっています。その産業全体で商品市場に商品を並べるわけです。この中で先ほどの生産性を向上させた企業の商品は価値低下を起こしているが市場の中では他の企業の商品と同じ価格で売れるなら、小さな価値しかない物でも同じ価格で売れるのですからその差額は特別な利益(特別剰余価値)を生むでしょう。
ですから企業は競争をして生産性の向上を行います。
この競争自体が資本主義の発展につながるわけです。
しかし先の商品を生産する産業内の企業がすべて同じ競争力のある生産性の向上が行われて新たな生産性を上げる材料がない場合どうなるでしょうか?
商品はその価値どおりの価格となります。
もちろん一つあたりの価値の低下は商品の価格も下げるわけですから今まで特別剰余価値を得ていた企業の利益も低下をしていきます。もちろん産業内すべての企業で利益の低下を起こします。
同時に生産性の向上は少ない労働力量でより多くの商品を生産するわけですから市場における商品量増大をしています。その商品がすべて売れたとしても企業にとっては利益の縮小と感じるでしょう。
さらに商品量の過剰が見えてきたときに産業内の企業は値下げ競争に走り出してその安売りを支える体力のない企業は淘汰をされる。あるいはその淘汰過程で市場を独占するために合弁が行われる。倒産する企業も現れればそれは労働力の過剰となり失業が発生をする。
また、企業は利益を維持するために失業という労働力の需給関係を利用して賃下げに走るでしょう。
失業と賃下げが何をもたらすか?
それは個人消費の縮小です。
この時に先の産業ばかりではなくて国内の産業すべてで同じことが起きてしまった場合、その個人消費総体が落ち込むでしょう。商品は総体的のな過剰傾向を示す。するとまた企業は安売り競争とそこからの淘汰を起こしてさらに失業や低賃金を生む。このような悪循環がデフレ不況となります。
デフレの根本的な原因は貨幣量にあることではないことは明らかです。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
この前まで夏日のような暑い日が続いていたと思ったらいきなり夏から冬へ。
ニチニチソウやトリニアが落とした種が自然に発芽し花をつけそうでした。これを集めてプランタや鉢に植えておいたのですが、こう寒くなるとだめになるかと思いベランダの日が当たるところや一部を出窓に移しました。
今日のように暖かい日差しがあるときに日光浴をさせて夜は出窓に移しています。
小さな花が咲き楽しめるかもしれませんし、冬を越せればまた元気にたくさんの花を咲かせると思います。
種はトリニアと松葉ボタンをとってありますので春になったら蒔いてみようと思います。
種から育てたビオラがだいぶ大きくなり、鉢の底に根っこが出てくるようになりました。もう一息・・・・
【2017年】ツイッターつぶやき
朝日新聞朝刊に「車大手無期雇用を回避」という記事があった。
期間従業員は5年間雇用されれば労働者の希望により無期雇用に切り替えることができるという方がある。しかし5年間雇用をされていても途中で6か月以上の空白があると無期雇用の希望を企業は受け入れなくてよいという。この法の抜け穴を利用して企業が期間従業員との契約ルールを変更して無期雇用をしなくてもよいようにするという。
不安定な1年契約より無期契約の方が労働条件も安定するでしょうし、将来の生活設計も立てやすくなる。
今の日本経済の停滞のために全体的な賃上げが必要になっているが、同時に雇用の安定化と正社員化が不可欠です。
車大手のやり方は他の産業にも波及するでしょうし、実際に法の抜け穴を使っている企業もあるのかもしれない。すると個人消費上昇の妨げの一要素となってしまうでしょう。
車産業も国内の販売台数で四苦八苦して、売れる車は軽自動車という実態にあるのではないでしょうか。結局は労働者の低賃金と不安定雇用は企業の活動や利益に跳ね返ってきます。
最近の新車の点検不正が問題となっています。他の巨大企業での不正も多くなってきています。企業の利益という問題ではなくて日本企業の信頼までが揺るがされてしまう懸念も出てくるでしょう。日本製品は安くて品質が良いという世界の常識から転落していくのではないか。失われた信頼を取り戻すには長い年月を必要とします。
【2018年】ツイッターつぶやき
当たり前のことではあるが忘れてしまうのが、社会すべては人の労働によって作り出され維持され運営されている。
人の労働も社会の分業が進む中でより細分化された労働となる。また、これまで必要であった技術などが新たな技術に変化をする進歩があるから労働の中身にも変化がある。
しかし人の労働によって社会は成り立っていることに変化はない。
現在という瞬間において社会は過去の労働によって作り上げられている。この過去の労働は蓄積の中にあり、古い技術での労働が新しい技術による労働に変わったとして、古い過去の労働ガムになったわけではなく、新しい技術での労働の土台となっている。
労働は人の労働力の消費である。
過去のすべての労働力が様々な分業において消費をされて人の労働となる。人の労働力の蓄積による具体的な労働の蓄積によって社会は成り立っているのならば、人というものを中心に社会は運営をされなくてはいけないでしょう。
ところが社会のすべては人の労働力の消費という具体的な労働によって成り立つことが忘れられる社会においては過去の労働の蓄積も忘れられる。
今の社会はこれが目に見えて社会の現象として表れているでしょう。
人の労働は大切にされない。経済面においても生活においても。過去の労働は今の高齢者による労働でした。しかし高齢者は邪魔者となり高齢化が社会問題だとされる。
過去の労働がないがしろになるということは、先にも書いたように現在労働をしている人たちの労働もないがしろにされることにつながらる。安心して結婚も考えられない若い人たち。それは少子化にもつながるでしょう。もちろん結婚をしても子供は1人でやっととか。
社会をどのような形にするかは政治の責任である。
政治の劣化は加速度的に悪化をしている。
【2019年】ツイッターつぶやき
8日はもう立冬ですなぁ。。。。。
天気予報では東京も今週は10度を下回る日が続くそうです。
慌てて冬支度です。
明日はこたつ布団を出して干したいと思います。
寒いですが天気は良さそうなので助かります。
冬物の下着やパジャマがよれよれ。。。。
早めに買いに行こう。。。。
今夜はしゃぶしゃぶです。夕螺家恒例レタスしゃぶしゃぶ。。。。
しめはいつもスープを使ってきしめんなのですが、昼にうどんを食ったのでシャケ茶漬けにします。
先日はおでんで、そのまた先日は水炊きでした。
鍋料理が増えます。。。。。。
【2020年】ツイッターつぶやき
アメリカ大統領選の結果が混とんとしていますが、どちらが勝ってもアメリカの低所得層貧困層のための政治は期待できないでしょう。4年前のトランプさん勝利ではこの低所得層の支持を得たようですが、結局は貧困問題などの解決には至らなかったようです。ポピュリズムも破綻をします。
アメリカは二大政党制ですが、その中身は保守二大政党制でしょう。
日本でも社会とがいつまでも政権をとれなかった中で二大政党制が言われて社会党の解党にまでつながりました。しかしその後の民主党勢力を見ても一時的に政権をとれましたがすぐに安倍内閣を産んでしまいました。民主党が保守政党であることがはっきりすれば自民党には勝てないのです。
それにしてもアメリカの大統領選は政策が見えますか?舌戦は激しいですが国民のための政治特に経済政策が見えません。これは日本でも同じでスキャンダルの追及などの舌銭で明け暮れています。
二大政党制というと数のバランスの様に勘違いをしてしまいますが、実は政策の違いがはっきりした勢力のぶつかりでなければ二大政党氏とは言えないのです。
55年体制での自民党と社会党(万年野党であっても)政策論争の方がある意味二大政党制だったのです。数の力では負けていた社会党ですが、労働組合や市民団体そして知識層との結びつきが自民党への対立として力をもって今のです。
今の日本の二大政党制はくっついたり離れたりして数合わせになっています。これでは上記したような本来の二大政党制はできないでしょう。
アメリカはもっと悲惨でその反共主義は格差の解消など社会の改良を言うだけで社会主義だとなってしまっている。その中での二大政党制ですから、悲惨です。もちろん日本もその方向に向かっているのですが。。。。
【2021年】ツイッターつぶやき
軽井沢から小諸へドライブに行ってきました。
≪軽井沢 白糸の滝≫
≪小諸 懐古園≫
≪千曲川≫
【2022年】ツイッターつぶやき
コロナ感染者数が増加傾向がはっきりしてきた。
下げ止まりかと思っていたらすぐに増加傾向ですなぁ。。。。
第八波という言葉を多く聞くようになりました。
年末にかけてまた波が来るかもしれません。
その中で、国はもう規制をしませんからワクチン一本で突き進むでしょう。
4回目のワクチン接種が行われてすぐに5回目のワクチンクーポンが配布されています。どうも3カ月単位での接種となりそうです。ワクチン接種の初めは8カ月が過ぎたらということでしたが、4回目は5カ月に短縮されて今度は3カ月です。
幼児を含む子供たちへの接種もはじまっていますが、何の感染防止もなされないままに国民はワクチン漬けになっていきます。そのうえ、インフルエンザや帯状疱疹のワクチンも同時接種しようとしています。
ワクチンが体にどのような影響を及ぼすかははっきりされていませんが、コロナ禍とワクチンへの心配を天秤にかけられているようです。ワクチン接種そのものが自己判断ですからね。それは自己責任ということです。コロナ対策をしないで個人の自己責任で接種をしろ。これが今の政府です。
若い人は重症化しにくいわけですからリスクを考えて接種をしない人が増加するでしょう。無症状ならば街を闊歩する。その中で年寄りはワクチンをと。これがウィズコロナです。
【2023年】ツイッターつぶやき
ここ数日夏日です。
今朝起きたら汗をかいていて寒気が。。。。。。
鼻水も出るので熱を測ったら36.5度。
鼻水はすぐに止まったので良かったですがだるさがあります。
これと言って風邪の症状はないのでたぶん気温の変化のせいだと思います。
春先に同じダルさが出るのですが、どうも気温根変化に弱いです。
以前私がブログをお休みさせていただく時、お返事を出せなくて本当に申し訳ございませんでした。
暖かい御言葉を下さって、本当にありがとうございます。
夕螺さんはよく過去のお話を出していらっしゃいますね。
過去の情報を引き出したりまとめたりする事って凄く大変だと想います
本当に凄いですね。
私にはとてもできません。
私も少しでもそういった事ができたらいいなとも想いました。
これからも大切なお話をして下さいね。
過去の情報と言ってもブログやホームページに残したものをまとめているだけです。そして若い方に比べて長く生きているだけ。。。。
人というのはコミュニケーション抜きに生活していけないと思います。又は、どうせ生活をしているならいろいろな方とコミュニケーションをした方が楽しいですね。
しかし僕は一人で考え込むのが好きで、コミュニケーションは苦手。
ならば・・・・・
こうしてブログなどに書き綴って自分とコミュニケーションを取れればいいのかなと思っています。
せっかくこの世に存在をしてしまって生きているのですから。。。。