むかしむかしあるところに
正直で働き者のむすめがおりました。
そのむすめの奉公先の奥方は
美人でしたが、たいそう意地悪で、むすめはいつもいびられていました。
あるひ、むすめが庭で洗濯をしていると、通りかかったお坊さんがふらふらと道端に倒れこんでいるところを見ました。
むすめは台所から宴会で余った餅をお坊さんにあげました。
それを見ていた奥方は、何を渡したのかむすめを問い詰め、
餅を渡したことが分かると厳しくしかり、取り返してくるようにいいつけました。
むすめは困りながらお坊さんを追いかけると、お坊さんはむすめの言葉を聞かずに餅を返し、
手ぬぐいを渡しました。
毎日これで顔を洗うようにと言い残して。
言いつけどおり手ぬぐいで顔を洗っていると、そのうち娘はみるみる美人になり、
村でもひょうばんになりました。
そして
長者の息子の嫁にもらわれていきました。
手ぬぐいを娘から取り上げた奥方が顔を洗うと、奥方の顔は馬になりました。
ちゃんちゃん。
週末にテレビでやっていたアニメ昔話。
こんな内容でした。
大人になってみると
「正直で働き者」
というのがどれほど難しいことか分かる。
そして世の中のほとんどが
奥方のような欲深で自分勝手で
自分が手にしてないものをうらやんでいる。
奥方は娘のまっすぐな性格が
うらやましくて、うとましくて、くやしかったに違いない。
子どもができて
いろんな子どもを観察するようになって、気付いたことは
すでに自我が出始める3歳や4歳くらいから
ひねくれているやつは存在するということだ。
意地悪や仲間外れを平気でする子はいる。
それは計算というよりも自己中心的なためだ。
それはそれで
にやりと笑って可愛いと思うし、
実は自分もそういう子どもだった
と思いだした。
素直じゃなかったし、
人の持っているものがほしかった。
でも年とともに周りが見えてきて
相手がどういう気持か
自分がどう見えているか
という観点に立って考えるようになると
不思議と消えていった。
正直で働き者にわたしはなれないけど
そのひとがどれだけ希少で貴重かが分かるようになった。
そういうひとでないと主役は張れない。
うそつきでなまけもの。
のままでは、脇役の人生しか回ってこない。
ってことをよおおく子どもは知るべきである。