・ 1953年12月24日、広島児童図書館(今の子ども図書館)でのクリスマス会で、笑わぬ子らに衝撃受ける。→なぜ笑えないのか?彼らが見せる影はどこからきているのか。それを解き明かすこと。そして、子どもたち自身が自分で笑えない原因をいつかつきとめるしかないのだ。
・ 「笑わない子どものひそかな、というよりも一途な眼ざしが何を物語っているのか、その心の中にはいりこめない、ふがいなさが悲しかった。子らは、なぜ自分がこんなつらい子ども時代を過ごさなくてはならないのか、なぜおとうさん、おかあさんが小さい自分を残して死んでしまったのか、住むところも、何も彼も失ったのか、ナゼ、ナゼ、そういいたくて、その答が得たくて、一途な目をむけるのではないか。なぜ。その答を語らなくてはならない。」(『母さんと呼べた日』山口勇子、草土文化、1964年)
○再び原爆孤児を作るまい
・ 1954年第五福竜丸事件、1959年から安保条約改定への反対運動の広がり→子どもたちのなかに社会情勢への意識高まる。
・ 1959年。広島で安保改訂阻止広島県民共闘会議が結成。第五回原水爆禁止世界大会。
・ 同年8月4日、子どもたちは初めて「広島子どもを守る会」と書いたプラカードを持って、慰霊碑前まで行進団に加わった。「再び原爆孤児を作るな」というプラカードは年長の男子が持った。
・ 8月5日、原水爆禁止世界大会で被爆者代表として孤児の岡村広子が訴えた。
第5回原水爆禁止世界大会における被爆者代表の訴え 岡村広子
私は広島に住む原爆被災者の一少女です。 あの十四年前の八月六日、そうです。広島にあのおそろしい原爆が落とされた日です。 その原爆によって、父と母と姉の三人を失い、今は遺された姉妹三人です。その当時、たった二歳だった私は何一つおぼえているものはありません。もちろん父や母の顔もおぼえていません。でもいつもおばさんたちにその当時のことを話してもらっています。 私はその日、乳母車に乗せてもらって外にいました。私は大きな音におどろいて、ひっくり返った車のすみで小さくなっていたそうです。ですから、私は幸いにして傷一つしていませんが、後になって髪がぬけて丸坊主になり、血などを吐き、歩いていた私は歩けなくなったそうです。だのに現在このように大きくなって、健康に育ったのは奇蹟的だとみんなはいつもいっています。母は建物の下敷になりましたが、すぐはい出したので、そのときは助かったのですが、なにしろ母は子ども三人を抱えてにげ廻り、それに父が心配になって翌日市内をさがし廻ったのでそうしたことが悪かったのでしょう。三週間ぐらいして母は死にました。父はどうなったのかとうとう遺体もみつけ出すことができませんでした。父の魂もきっとこの慰霊碑の中にあるでしょう。
このようなことを思い出すたびに父母と姉の一人、そして広島、長崎の人々を奪った原爆が憎らしくてならない気持ちでいっぱいです。そんなとき「なぜ私もいっしょに死ななかったのだろうか、なぜいっしょにいた母や姉は死んだのであろう」と思います。しかしその反面、「いや、私は生きなければならない、そしてあのおそろしい、悲しい思いを再び起こらないように日本中、いや、世界各国のみなさんに訴えなければいけない。私が訴えなければ誰が訴える者がいようか」という気持ちがあふれてきます。
ちょうど七年前、私が小学校三年生のとき「広島子どもを守る会」の世話によってアメリカのニューヨークのブルックリンに住んでいられるスカンジナローさんの精神養子になりました。今ではスカンジナローさんとは、遠く海を隔てていても親子のように手紙によって心を通じ合っています。私とスカンジナローさんのようにみんなの心は、どこの誰とも知らない人でも、遠く離れていても、言葉がわからなくても、心と心は通じ合うのではないでしょうか。いやきっと通じ合っていると思います。その心とは、原水爆の無い平和な世界を願う心でしょう。 私も、もちろんここに集まっていらっしゃるみなさんも一人ひとりでは、誰彼と区別なくこの慰霊碑の前ではなかよく手を結ぶことができるでしょう。私たち子どもの世界では、東西区別なく、手をつなぐことができます。それだのに大人の世界では国内、いや世界の国々がなぜなかよく手を結ぶことができないのでしょうか。世界各国、東西区別なく手をつなぐことができたならば、自然に原水爆を作らなくてもよいようになるでしょう。そうすれば、そこに世界平和が生まれるのではありませんか。どうかみなさん、この大会で世界、いや地球から原水爆がなくなるように手をつなぎあって、世界中の人々に訴えてください。 私は、おとうさん、おかあさん、おねえさんの眠っているこの慰霊碑の前で心からお願いします。 一九五九年八月五日
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3.山口勇子と孤児たちの平和への願いを記録として
・ 取材の中で実感した孤児たちの願いは「二度と原爆孤児をつくらないために」ということ。孤児たちの人生の柱になった思い。
・ 山口勇子の核廃絶への取り組み・・・「二度と原爆孤児をつくるな」ということを実現する運動は、必然的に原水爆禁止運動につながる。
・ 1984年、原水協筆頭代表理事。1985年、核兵器全面禁止国際署名の協議会に日本原水協の代表として参加し、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」に署名。
・ 「人類と核兵器は共存できない」「核戦争を阻止できるのは人間」…勇子の原点。
・ 勇子の子どもへのまなざし…「人間は核兵器とともには、生きてはいけないのだ。核兵器のふとんの上で、子どもが生まれ、育つことはできないのだ」(「原水協通信」、一九九四年三月六日)
一九四五年八月六日、広島は死にました。人も、木も、草も、鳥も、動物も。 けれど、ひとつだけ、のこったものがあります。人間の心です。その心は、すこしずつふくれあがり、きょうも、わたしたちに、よびかけています。 ヒロシマを、くりかえしてはならない。 世界じゅうに、ほんものの平和を。―――と。 (山口勇子「つるのとぶ日」の扉より、東都書房) |
おわりに
敗戦で戦争が終わったのではなく、終わらない戦争の傷跡が国内にも国外にも今もある。その解決のためにも、戦争による被害者の声を掘り起さなければならないし、すでにタイムリミットが来ています。戦争の実相を私たちが掘り起こし、記憶し、記録し、伝えていくことが、ふたたび戦争をする国へとむかおうとしている政治の流れに楔を打込むことになる。
そのためにも、広島に長崎に原爆孤児がいたこと(日本の各地にも戦争孤児)を知ってほしいと思う。二度と孤児を生み出さないために、私たちに何ができるのか。戦争が起きれば一人ひとりの人生が踏みつぶされる。そのことを山口や孤児たちのたどった道のりを知ることで考えてほしい。
※『戦争孤児たちの戦後史②西日本編』(平井美津子・本庄豊編、吉川弘文館、2020年)
『原爆孤児 「しあわせのうた」が聞こえる』(平井美津子、新日本出版社、定価1700円)もお読みください。