前代未聞の驚くべきニュースをお知らせします。
大阪市小学校・中学校の教頭のなり手がなく、ここに至って、ついに大阪市教育委員会は教頭職の再募集を開始しました。こんなことはいまだかつてなかったことです。
過去の教頭職希望者を振り返ってみると、03年度は、小学校約6倍、中学校約16倍の応募があり難関でしたが、橋下市長のもと、民間人校長を初めて採用した今年度は、受験資格者は5千人以上いるのに、受験者はわずか50人でした。
教育委員会は、管理職の希望者が減少した原因を、直接子どもとかかわる仕事をしたいという希望があり、また、教頭職給与等の処遇面にあると認識しているようですが、一番の原因が橋下教育改革にあることは間違いありません。特に、教育の何たるかもわかっていない民間人校長制度がおおいに影響していると思われます。
今、学校現場では校長が片っ端から声をかけてまわっているようですが、充足しない可能性もおおいにあります。その時は、教頭の代替として教諭2名を配置することも教育委員会は検討しているようです。
民間人校長を主軸とした大阪市教育改革を主導した橋下市長と大森教育委員会委員長に責任はあまりにも大きいと言わざるを得ません。
大阪市教育委員会教育長より各校長への通知
本日(2014.2.15付)朝日新聞
意固地になるよりも、お互い歩み寄って議論して進めればいーじゃん。何より子供のためになんねーじゃん。
そう考える教員が増えたというのが実情でしょう。
橋下改革とはおおいに関係ありますが、分析すればそんなとこでは。
もう古いんだよあんたらは。教頭職の不足がそんなに問題だと認識していて、それが学校にとって大変なら教師の誰かがなれよw 大事なんだろ?
確かに、私に限って言えば、38年間の教員生活において、「世間のなんたるか」はわかっていないと自認しています。
でも、このこのとはプラス・マイナス、両方の功罪があるように思われます。
プラス面としては、世間では、長いものにまかれろ式の価値観が大手を振って中央通りを闊歩していることに対して、それに与しない価値観を保持することができるという点です。
実際、世間は、おかしなことをおかしいと主張する現実をなかなか受け入れようとしませんが、誰かが主張しtていかなければ、みんながおかしいと思っていることであっても一向に変わらない現実が停滞します。
また、一方マイナス面としては、その過酷な世間で声を出すこともできず苦しんでいる人たちの現実がどれだけわかっているかと言う点です。
次に先進国のなかで最下位の教育水準とおっしゃいますが、決してそんなことはありません。文科省公表の国際学力テストの結果はむしろ高めです。http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/pisa2012_result_outline.pdf
しかし、私は数字がどうあろうが、日本の子どもたちが学習することに意欲をもち、せれによって生きる術を得ているか、を考えると、はなはだ否定的に考えざるをえません。
きききさんが最後におっしゃっているところの指摘はひじょうに大事だと思っています。
教育行政、教員、市民、保護者、子ども、それぞれ教育を巡っては対立することがあってふつううです。それをどのように話し合って解決しいくかが非常に大事なことだと私も思っています。
橋下教育改革の一番の問題点は「対話」をさせないことにあると思っています。まさに上位下達、首長が決めた教育をまるでロボットのように、つまり思考停止の状態で行い、成果をあげることが求められています。私は、それでは、教員は自分の仕事に誇りさえもてないと考えます。
そうですね。
私は府立高校勤務でしたが、「教頭」職というのは、校長になる可能性があるから耐えられる仕事かもしれません。むろん、教頭という仕事にやりがいがないわけではないでしょうが、校長の忠実な僕であることが要求されます。そこには上下関係がしっかりあるわけです。校長の言うことに一切の批判は許されないわけです。それでいてこきつかわれます。民間人校長が求められていたのは、数値的成果獲得です。おそらく校長はそれを教頭に命じて実現しようとするでしょうが、そこらあたりのことも関係していると思われます。
橋下教育改革が原因であることは間違いないと思われます。
ある意味、橋下教育改革というのは時代に迎合した教育だと考えます。そういう視点から考えれば、私たち、橋下教育改革に異議を唱えている教員や元教員や市民は、「古く」て「非効率」と言えるかもしれません。
今、競争を中心とした教育が必要のように言われますが、私はそうは思いません。格差が拡大し、それを肯定していくにへ、教育でこそ競争原理を肯定し、そこで敗れた者は自己責任であるという考え方を徹底的に叩き込む必要があるのでしょうが、それが「新しい」教育なら、私たちはあえて「古い」教育に拘泥しなければならないと思っています。
教育の何たるかについては、今、根本のところから考える必要があると思っています。いつの時代も教育は時代の要請に応えるものかもしれません。しかし、その反面、時代を批判する力も教育は育んでいく必要があるように思います。
教頭不在の学校は問題ではありますが、だからと言って、犠牲的精神にもとに教頭職を穴埋めしたところで対症療法にはなりましょうが、問題の根本的な解決にはならないのでは?
なぜ、このような事態に陥ったのか、そこからしか問題解決への道は開かれないように思います。
お前たちの怠慢だろ (中学二年生)2014-02-18 13:25:42時代にそぐわない、低質で非効率な教育しか施せない教師どもが、「教育のなんたるか」を語るとはちゃんちゃらおかしい。
もう古いんだよあんたらは。教頭職の不足がそんなに問題だと認識していて、それが学校にとって大変なら教師の誰かがなれよw 大事なんだろ?