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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

竹林意見書①

2016-04-03 10:19:49 | 裁判

「君が代」問題は決して学校だけの問題ではありません。「君が代」不起立辻谷減給処分取消裁判では、労働組合と「君が代」問題の観点から元大阪教育合同労働組合書記長竹林隆さんに意見書を依頼しました。掲載は、3月27日に提出した改訂版です。長文ですが、是非多くの方々に読んでいただきたいです。そして、労働組合・労働運動として、他の様々な問題との関連の中で「君が代」問題を考えていきたいとも思います。長文ですので3回に分けて掲載します。

 

以下転載~

大阪地方裁判所民事第6部 御中

 意見書(改訂版)  2016年3月27日

大阪教育合同労働組合元書記長記長 竹 林   隆

 

 2015年1月30日に作成した意見書について、直近の現状を踏まえて一部(主に14頁から15頁)を改訂したものである。

1.私の組合での立場

 私は大阪教育合同労働組合(以下「教育合同」または単に「組合」)の1989年11月23日の結成時より組合に参加し、最初の数年間は堺支部執行部での活動を担っていた。その後、本部執行部に入り、執行委員、書記次長を経て、2003年4月より2013年3月まで書記長に就いていた。現在は堺支部執行委員である。

 教育合同での本部書記長の任務は非常に幅広くあるが、大阪府(以下「府」)・大阪府教育委員会(以下「府教委」)との関係でいえば、組合側からの団体交渉申入書やさまざまな要求書等提出などについての府・府教委側担当者(基本的には府教委教職員企画課企画グループ職員)との連絡、打ち合わせ、団体交渉開催時の事務折衝や調整、進行役、また府・府教委側からの各種提案・提示事項への対応などが主たるものであった。

 

2.教育合同と「日の丸・君が代」問題

 教育合同は組合結成以来、一貫して「日の丸・君が代」反対闘争を組合にとって決定的に重要な闘争課題と位置付けてきた。その背景には、教育合同結成に馳せ参じた組合員の多くが、日教組分裂以前から大阪府内各地での解放教育運動に携わってきたメンバーであったということが挙げられよう。いうまでもなく、解放教育運動の核心は「子どもたち自身があらゆる差別と闘う主体となるための教育」である。その観点から、出生によって他の民衆と異なる身分と特権が保障される天皇制は、まさに出生によって身分差別にさらされる差別と表裏一体のものとして批判されなければならない。となると、教育合同組合員の多くが天皇制の象徴たる旗や歌である「日の丸・君が代」に反対の立場に立とうとすることは自然の成り行きであった。ましてや、自らの労働現場にそれらが持ち込まれることは許せないことであった。

 また、組合が結成された1989年は、ちょうどその年の1月に天皇裕仁が死去しあとをついで明仁が即位した年でもあった。「Xデー」から「大嘗祭」までのおよそ1年間、まるで暴風のように学校現場をはじめあらゆる市民生活の領域に天皇制が大々的に侵犯した時期であった。学校では、通常の教育課程が一方的に変えられて「休校措置」や「臨時朝礼・天皇賛美の講話」、各種行事の中止・延期などがおしつけられ、それらとの闘いに明け暮れた1年でもあった。それらとの闘いを通して、そういった場面で必ず象徴的に登場する「日の丸・君が代」に対する組合員の感覚が研ぎ澄まされていった。

 一方,大阪の学校現場の実態は、学校行事、とりわけ卒業式・入学式に着目してみる限り、教育合同結成以前から、多くの地域・学校で「日の丸・君が代」が実施されていなかった。学校・自治体・校種によって実態はさまざまであり、一様にどうということは言いにくいが、1980年代以前から実施されていた学校・自治体は相対的少数であった、とおおむね言えよう。

 教育合同結成以前の1985年には、当時の高石邦男文部省初等中等教育局長が各都道府県・各指定都市教育委員会教育長に対し「公立小・中・高等学校における特別活動の実施状況に関する調査について」(文初小第162号)と題する通知(「いわゆる徹底通知」)を発し、「入学式及び卒業式において、国旗の掲揚や国歌の斉唱を行わない学校があるので、その適切な取り扱いについて徹底すること」という指導を全国的に行なった。これを機に全国の都道府県の自治体・学校に対する圧力が強まり、文部省が都道府県・政令指定都市ごとの実施率を公表したこともあって、卒業式・入学式での「日の丸・君が代」強制が広まっていった。しかしその中でも、大阪をはじめ東京・広島・沖縄などの一部都道府県・政令指定都市では実施率が比較的低水準にとどまっていたため、これ以降、そういった地域に対する圧力が陰に陽に加えられていくこととなった。

 また、1989年には、学習指導要領の「日の丸・君が代」条項がそれまでの「望ましい」という表現から「指導するものとする」と書き換えられ、(学習指導要領は「大綱的基準に過ぎない」とされているにもかかわらず)これが地教委・学校への指導の根拠とされるようになった。

 そのような状況の中で教育合同は結成された。組合結成の1989年という年はそのような歴史的パースペクティヴにおいてみると、天皇代替わりによる天皇制の露出という状況とも相まって、「日の丸・君が代」をめぐる彼我の関係が大阪においても大きく揺れ動き始める時期であったということが言えよう。したがって、教委・校長との交渉事項の中でも、「日の丸・君が代」に関する事項は最重要課題であった。

 そして、1999年の広島県立世羅高校の「日の丸・君が代」実施をめぐる当時の校長の「自死」を契機として強行された「国旗・国歌法」の成立により、2000年代から新たな画期を迎えるようになった。

 2000年代になると、組合にとって、あるいは「日の丸・君が代」の強制に心痛めるすべての人々にとって、闘わなければいけない相手は単に政府(国家権力)や自治体・教委(地方権力)にとどまらず、1990年代後半から社会の様々な領域で広がり始めたバックラッシュといわれる動きとそれを体現する右派勢力にまで拡散し始めた。ちょうどこのころまでにインターネットが普及したこともあり、<ネット右翼>と呼ばれる人たちが直接的に個別の学校や場合によっては個々の教員を直接名指しで攻撃することすらおきるようになってきた。

 私たちにとって許しがたいのは、そのような勢力の不当な攻撃とデマの拡散について、教委自身がそれを放置し、あるいは黙許することで、結果的にその勢力の主張を社会的に容認することとなり、時にはあからさまに、そのような主張を自らの追い風とすることによってより強硬な弾圧方針への姿勢転換の口実に利用していったことである。

 そして、次節以下で詳述するが、少なくとも大阪府教委に関していえば、2008年の橋下徹府知事誕生以降、全国的にも突出した強制方針を打ち出すこととなった。その中で、組合に対するスタンスも明らかに転轍されたのである。

 

 

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