不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Girolamo Maria Francesco Matteo Savonarola

2009-05-26 13:16:23 | アート・文化

Girolamo Maria Francesco Matteo Savonarola
(ジローラモ・マリア・フランチェスコ・マッテオ・サヴォナローラ)は
1452年フェッラーラに生まれ
1498年にフィレンツェで処刑されたドメニコ会派修道士。
1997年5月にフィレンツェ大司教管区によって列福され、
Servo di Dio(功徳の高い信者)とされています。

商人の父と貴族出身(Bonacolsi家)の母の間に生まれ
7人兄弟の3番目。
医者であった祖父の時代にパドヴァからフェッラーラに移住。
この祖父が非常に熱心な宗教家でもあり、
ジローラモは少なからずその影響を受けたとされています。
この祖父から教育を受け、
文法、音楽、絵画を学んだといわれています。
父は彼が医者になることを望み、
そのための教育を受けさせますが
ジローラモは18歳のときに神学を探求するために
医学の道を諦める決心をしています。
20歳のときに書き残した詩文の中に
説教者としての資質を既に表し
1475年にはドメニコ会に入信し実家を離れています。
世の中の醜いことを憎悪し、
平和の中で生きるための選択だと
家族に手紙を書き残しています。

修道会の中で説教家としての教育を受け、
1482年Lorenzo de' Medici(ロレンツォ・ディ・メディチ)の時代の
フィレンツェのサン・マルコ修道院に着任。
着任当初イタリアの文化芸術の中心として評価しています。
しかし、フェッラーラ訛りの強かった彼の説教は
当時のフィレンツェ人にはあまりウケがよくなかったようです。

1485年サンジミニャーノで初めて預言者的な説教を行い
将来的に教会に災いが起こるという
内容の発言を繰り返すようになります。
それはすべて人類が犯している罪が原因であるとして
殺人、淫欲、男色、偶像崇拝、占星術、
聖職売買、聖人批判、不信仰などの
所業を攻め立てるようになります。

フィレンツェでの勤めを終え、
ボローニャを経て1488年にはフェッラーラに戻り
そこからロンバルディア地方の主要都市を周り説教を続けます。

1489年4月、Pico della Mirandola(ピコ・デッラ・メランドラ)の
アドヴァイスを受けたロレンツォ・ディ・メディチの要望で
フィレンツェに召還され、
1490年からフィレンツェでの活動を再開しています。

5月23日はサヴォナローラの命日。
フィレンツェのシニョリア広場の彼の処刑場所跡には
今も花崗岩の日が埋められていて
命日には献花式が行われます。

サヴォナローラの狂信的・預言的説教の影響を受けた
文化人や芸術家も少なくなく、
彼の思想が及ぼした影響は大きいと思います。
悪い部分の影響だけが気になり
サヴォナローラは悪い人というイメージが
私にはべったり埋め込まれているのですが
いいところのお坊ちゃんだったんだねぇ。

ということでサヴォナローラの終末は次回へ続く。