諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

また御鍋神社に参拝に行ったのだが、神隠し逢いそうになって辿り着けなかった。

2022年12月17日 02時45分48秒 | 永井平九郎
この話は2年前の夏の出来事です。永井平九郎を祀る御鍋神社へ参拝に福島県天栄村に向かったのです。

先ずは田心姫、そして瀬織津姫を祀っていると言われる二股の明神瀧へ。暫く瀧を眺めて心身を浄化し、御鍋神社に向かいました。

御鍋神社には以前にも参拝しています。スマホを持っていなかったのでカーナビ無しでしたが、アトレー・リバーノ4WDターボは走る道を選ばない。難なく御鍋神社に到着。無事、参拝が出来ました。

今回はナビが出来るスマホも持っている。前回は畏怖の心で恐々参拝しましたが、今回は二度目。普通に参拝できると思っていました。

しかし、問題があった。今回のクルマはトヨタ・アリオン。私の運転技術ではあの林道は難しい。アリオンの腹を擦る可能性が高い。どうしようか。

舗装道路が終わる地点にクルマが数台駐車出来るスペースがある。多分、二岐山への登山客がここでクルマを駐車し、登山を開始するベースの駐車場なのだろう。

そうならば、ここでクルマを降りた方が良い。クルマで行って戻って来れなかったら目も当てられない。徒歩で御鍋神社へ向かう。

流石に山道の徒歩は疲れる。足がガタガタに痛い。そして暫く歩いていて急に大がしたくなった。

私はとっさに脇の藪を駆け上がり用を足す。そしたら二人組の若い女性の登山客が。

見られた。恥ずかしい。暫く呆然としながら女性登山客が遠ざかるのを待つ。あっーあ、下手こいたなぁー。はぁー。何時もながらタイミングが悪すぎるわ。

気を取り直して歩き出す。中々着かない。こんなに遠かったかなぁー。

そして見覚えがある砂利の広めの駐車スペースが見えた。

ここだ。この駐車場からすぐ下に御鍋神社がある筈。以前にもここでアトレーを駐車した。覚えている。

スマホのナビを見る。御鍋神社の印が近くにある。やっと着いた。

あれっ、駐車場のすぐ下に御鍋神社がある筈なのだが無い。何でだ。

変だ。スマホナビの御鍋神社の地点が小川の向こうにある。何故か御鍋神社が遠ざかっている。おかしい。近づいている筈なのに。駐車場のすぐ下にあった筈なのに。

一旦、駐車場に戻る。スマホを見る。地図ではすぐ側に御鍋神社がある。変だ。近づいたのに御鍋神社が遠くなる。そんな馬鹿な。

もう一度、御鍋神社に向かう。前回、直ぐに見つかった御鍋神社の鳥居もどこにもない。歩けば歩くほど御鍋神社から遠ざかる。

私は怖くなりまた駐車場に戻る。やっぱり駐車場からの方が御鍋神社の距離は近い。ナビの地図では本当にすく側にあるのだ。

私は意を決してまた御鍋神社を目指す。前回は小川を渡っていないが、スマホを信じて渡ってみた。かなり歩いた。しかし、スマホの地図を見ると御鍋神社からかなり遠ざかっている。

これは不味いのではないのか。もしかしたら、これが神隠しと言うものではないのか。

駄目だ。行くべきではない。御鍋神社は私を拒んでいる。

前回とは何が違うのか。

前回は「道の駅 羽鳥高原」で車中泊し、午前中に御鍋神社に向かった。今回は午後2時過ぎから御鍋神社を目指し歩き出した。今は4時近い。

理解した。御鍋神社は午後に参拝してはいけな神社なのだ。不敬に当たる。この時間帯は行ってはいけない。戻るべきだ。

私は怖くなりながら駐車場に戻ろうとした。戻る道が分からなくなっている。ナビを見ると駐車場から遠ざかっている。

ヤバいぞ。これは本当に神隠しに逢いそうだ。私は意を決して兎に角、登り道を選び登った。上に駐車場がある筈なので。

登り切ったら違う場所から駐車場に辿り着いた。ほっとした。助かった。今回は御鍋神社への参拝は諦めよう。

山を舐めてはいけない。霊場を甘く見てはいけない。私は畏怖の心を忘れていた。

私は諦めて帰路についた。また山道を歩いて戻る。途中、軽装の男性と会う。

男性は私に声をかけた。「御鍋神社へはこの道を行けば良いのですか」と。

男性は秘湯の名の発祥地である二岐温泉に連泊していて、ふと御鍋神社に行ってみようと思ったらしい。

私は「私も御鍋神社に向かったのだが辿り着けなかった。以前、参拝したのに道が分からなくなった。今から行くと危ないかも知れませんよ」と答えた。

男性は暫し考え、「一度行ったことがあるのに辿り着けなかったのは変ですね。私も行くのは止めることにします」と答え、二人でアリオンを止めた駐車場まで歩いた。

御鍋神社には永井平九郎と共に平将門公と桔梗姫を祀っている。私は平良兼の家系。将門公と平良兼は従兄弟同士で仲が良かったが、最後は双方戦う事となり、良兼は将門公の命を奪っている。

私は平将門公を殺した家系なのだ。畏怖の心でなければ参拝してはいけない立場だった。

甘く見てしまった。何度も神社には参拝しているが、歓迎されない者が歓迎されない時間に参拝しようとしたのが間違いだった。

畏怖の心を忘れていた私が悪い。今回の出来事は私への戒めだ。

仕切り直しだ。また参拝に行こう。もっともっと清廉な心になって。畏怖の心を持ちながら。


ではでは。







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五月姫(如蔵尼、瀧夜叉姫)を尋ねて慧日寺(いわき市四倉)へ。【2018年編】

2018年09月17日 08時49分58秒 | 永井平九郎
タイトルを少し変えて続きます。

それから1年後。今年のお盆、また慧日寺に向かいました。ネットで調べたら確かに慧日寺は存在していました。昨年に参拝した盛り土の瀧夜叉姫の墓から500メートル離れている場所にありました。その慧日寺にも五月姫のお墓が存在しているみたいです。

今回は文明の利器であるスマートフォンを携帯しています。ナビが使える。間違いなく慧日寺に辿りつけれる筈。

結果、辿り付けました。去年、何度も行ったり来たりしていた場所でした。案外、小さなお寺でした。看板も分りやすい場所に出ていないから、昨年は気が付かなかった。早速、詣でます。

慧日寺には瀧夜叉姫終焉の地との石碑があります。拝んできました。でも何で瀧夜叉姫の墓が各地にあるのだろう。

福島県の小野町は小野小町の出身地とされているけど、秋田県とか各地にもその説はある。実際、小野小町の祖父は東北である陸奥の国に赴任していたらしいから、東北の各地に小野氏が住んでいたのだろう。

そして和歌が東北発祥とする説がある。元々は蝦夷の文化らしい。故に和歌を歌う美人の小野氏の娘は小野小町と呼ばれ、何人かいたのではないだろうか。

では平将門公の三女・五月姫の場合はどうか。

どこから現れたか分らない美しくも優しい尼さんがいた。元々は高貴な家柄の様だ。もしかしたら生き延びたとされる五月姫ではないだろうかとされたのかも知れない。だから瀧夜叉姫の墓が各地に存在するのではないだろうか。

「敗北」の意味は「負けたら北に逃げろ」と言う意味合いもあるらしい。事実、多くの者が北に逃げて来た。源義経だけでなく、蒙古襲来の時の蒙古も東北に逃げて来ている。平家の落人の伝説も東北には多くある。そして永井平九郎も、その母の桔梗姫も会津に逃げて来た。それどころかキリシタンも多く会津に逃げて来ている。

逃げて来た者を助ける。其れは蝦夷の文化であるが、徳一法師の教えが会津には色濃く残っていた。だから瀧夜叉姫の伝説が四倉と磐梯町の慧日寺に残っていたのかも知れないですね。

さて慧日寺の瀧夜叉姫の墓と金光寺の上にある瀧夜叉姫の墓。どうして近所に二つの墓があるのか。

分骨したとも考えられるが、何で分骨しなければならないのか。何で何も無い場所に盛り土の瀧夜叉姫のお墓があったのか。

ネットでも出て来ない。しょうがないので私が考えたのですが、瀧夜叉姫の墓は割りと近年出来たものと考えます。1200年前から残っていたとは考えられないので。

瀧夜叉姫が登場する善知鳥安方忠義伝は1806年に発刊しています。多分、それ以前は五月姫を瀧夜叉姫とは呼んでいなかった筈。其れなのに瀧夜叉姫の墓として存在するのであれば、近年に作られた墓と考えられます。それ以前に存在するのであれば、五月姫、如蔵尼の墓でなければおかしいので。

勿論、瀧夜叉姫の方が有名だから五月姫、如蔵尼の墓石が朽ちてから瀧夜叉姫と直した可能性もありますが。

何故、盛り土の瀧夜叉姫の墓が何故何も無いあの場所にあったのか。

あの場所はどうも古墳時代の墳墓が数多く残っているみたいです。聖地であり霊場だった。だから畑などに転用しなかった。そのままにしていたと思われます。

宮城県で墳墓がある場所は七ヶ浜や利府なんかがありますが、やはり開発はされずそのままにされています。墳墓の土地を再開発するなんて罰当たりな事はしてはいけない。だから今まで残っていたのだと思います。

その場に瀧夜叉姫として盛り土の墓を造った。それは古墳時代の墳墓の一つの象徴として造ったのだと思われます。瀧夜叉姫のモデルは間違いなく縄文の女神である瀬織津姫であるので。

その墳墓地帯に畏怖の念もあり瀬織津姫を祀った。瀬織津姫は境界線の神。墳墓はあの世と此の世の境界線。だから祀った。それが地元の伝説である五月姫と結びついた。

まだ確かな事は言えませんか、平将門公と瀬織津姫の関連も感じられます。だから娘の五月姫を瀬織津姫の生まれ変わり的に瀧夜叉姫として創造したとも考えられますし。

最後に昨年のネグリジェおばあさんですが、私が徐行しながら慧日寺方面からクルマで来た。そして慧日寺を訪ねた。慧日寺から来たのにおかしな事を言うと思った。そしてもしかしたら盛り土の瀧夜叉姫の墓を尋ねているのだと勘違いしたのではないでしょうか。

もしそうでなければ盛り土の瀧夜叉姫の墓は知らずじまいでした。知ってよかったと思っています。ネグリジェおばあさんに感謝です。

それと実は盛り土の瀧夜叉姫の墓等々写真も撮ってまいりましたが、写真を貼るのがめんどくさいのと、墓の写真を載せるのは私的に恐ろしいので再三考えましたが止めときました。

お手数では御座いますが、ご自分で検索していただき確認してみてください。


ではでは。
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五月姫(如蔵尼、瀧夜叉姫)を尋ねて慧日寺(いわき市四倉)へ。【2017年編】その3

2018年09月16日 14時02分34秒 | 永井平九郎
続きます。

家庭菜園だと思った場所。飾り門??を潜ると直ぐに盛り土が目に入った。芝生の盛り土だ。大きな饅頭の様な形をしている。周りには小さな花がポツポツと植えられている。洋花だろうか。

盛り土の手前に100均で売っている様な線香置きが有る。その両脇にも安っぽい花立??に花が刺してある。

そしてその線香置き場の上に何故か小さな女の子の人形の首が。何だこれゃ。

盛り土の脇の石碑には「瀧夜叉姫の墓 仏名・如蔵尼」とある。ここが五月姫の墓なのか。

盛り土の後ろの石碑には「嗚呼 瀧夜叉姫の墓」としつこく書いてある。嘘だろ、ふざけてる。

「瀧夜叉姫」の名は小説での名前。いくら瀧夜叉姫の名前が知れ渡っていると言って本名を墓に彫らず、小説での仮名を墓碑に彫るなんて何を考えているのだ慧日寺は。ちゃんと墓として認識しているのか。

五月姫の墓を客寄せパンダにしているのか。呆れたぞ、慧日寺よ。

あれれっ、そうだ。ここが五月姫の墓であるなら、その慧日寺はどこに行ったのだ。慧日寺に五月姫の墓が有るのはちゃんと調べて来た。間違いない筈。何でその慧日寺は無いのだ。

辺りを見渡す。広大な平地。ところどころ小さな植木が植えてあるが、不自然な程広い平地である。

これだけの平地であるなら何で畑を作らないのだろう。それ以前に何で木が生えていないのか。

四倉や久之浜はいわき市でも一番地震と津波の被害が酷かった。震度7だったとの話も聞いている。

ここに来る前にネットで慧日寺の写真は確認している。慧日寺が存在しているのは間違いない。

なのに五月姫の墓が有るのに慧日寺の建物が無い。それってもしかしたら地震で全壊となり取り壊されたのではないのか。

震災から6年半が経っている。ここも草ボカ状態。全然手入れがされていない。あり得る。慧日寺は震災で崩れ落ちて無くなったのだ。再建は不可能となり消えた。そうに違いない。

どうしよう。先ずはお参りだ。ここに五月姫の墓が有るのだから。

ここで、ふっと思った。墓参りなのだから白い菊の花と線香と水が必要。私は何時もの神社参りの感覚で小銭しか持って来ていない。失敗した。どうしよう。

「しょうがない。神社は神が鎮座する場所。墓もそうだ」と考え、線香置き場の前に小銭を置いた。その時、人形の首と目が合う。これってふざけているのか。でも、何かが宿っている感じがする。

私はこの人形の首を五月姫として拝んだ。「申し訳ございません」と。

私の家系を辿ると平貞盛が出てくる。従兄か従弟かは分からんが、平将門公のイトコである。仲が良かった。それでも戦った。そして平将門公を討った。

同じ家系。同じ血が流れているのに戦った。父の平国香が将門公に討たれたとしても非は平国香側にある。不在を良い事に将門公の領地を奪い、戻って来た将門公を待ち伏せして戦を仕掛けたのだから。

血塗られている。坂東平氏は富と権力ばかり考えている。だから滅びた。肉親同士で争ったら滅びるのも当然だ。馬鹿な一族だ。

その馬鹿の血が私に流れているのだろう。その因果は何時も感じている。私は加害者側の家系。私の家系のせいで五月姫は苦しんだ。面白おかしく瀧夜叉姫と呼ばれ、妖術使いの鬼女に落とされた。そうなったのも私の家系のせい。同じ血が流れているのに。

謝るしかない。それしかない。

私は土下座して拝み、立ち上がった。

それにしても、ここは本当に五月姫のお墓なのだろうか。

五月姫の墓は福島県磐梯町の慧日寺にもある。他にも存在する。本当にこの盛り土に五月姫の骨が埋められているのだろうか。

「嗚呼、瀧夜叉姫の墓」。「嗚呼」って「強く感動、感嘆」と言う意味。これって客寄せを狙っているのか。町おこしか。慧日寺の人気取りか。

五月姫は約1200年位前に亡くなっている。1200年間、ここに埋められていたのだろうか。何で盛り土の墓なのだろう。その時代の墓は盛り土だったのだろうか。

それより、本当に慧日寺はどこに行ったのだ。どうしよう、これから。

ここが本当に五月姫の墓なのかは不明だが、真摯な気持ちで五月姫に詫びた。今日はそれで十分ではないか。

また調べよう。そして時を改めて慧日寺を探そう。磐梯町の慧日寺にも行ってみよう。

まだまだ懺悔の旅を続けよう。それしか私にはないから。


【2018年編】に続く。








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五月姫(如蔵尼、瀧夜叉姫)を尋ねて慧日寺(いわき市四倉)へ。【2017年編】その2

2018年09月10日 00時54分58秒 | 永井平九郎
続きです。

四倉の街から山へと向かう。暑い。午前中なのに暑い。汗ダクだ。墓参りの前に身を清めたい。それではと玉山鉱泉に向かう。そこには私好みの鄙びた温泉宿が数件あった。いい感じだ。

ちょろちょろと見て回ったが人気が無い、日帰り入浴の看板はどこにも出ていない。ダメみたい。諦めた。諦めが早いのが私の取り得だ。

実は四倉の玉山はマツタケの名産地で、ここら辺の宿では一泊1万円程度でマツタケ三昧が楽しめると聞いていて、何時かは泊まりたいと思っていたのです。ここだったのか。

でも、放射能でマツタケは大丈夫なのだろうか。お盆なのにクルマがあんまり泊まっていない。風評被害でお客が来ないのか。マツタケはどうなったのだろう。

うーん、ここら辺にマツタケが生えている筈。黙って取ったら泥棒だな。

確かマツタケ狩りも出来る筈。入山料7000円だったかな。

私のこれまでの人生を振り返ると、7000円払ってもマツタケ1本も取れず帰るパターンになるのは分かりきっている。

残念賞でマツタケ1本貰えるらしいけど、7000円でマツタケ1本なら、1パック100円のエリンギを70パック買った方が幸せだ。止めておこう。

そう言えば閼伽井嶽のどっかに、ウチの親父が買った2500坪の山ッペタがあった。30年以上前に行ったら、誰かが残土を捨てていた。チクショウ、ひでぇーことしやがる。

でも、あそこらへんもマツタケが生えているかも知れんなぁー。生えていたら嬉しいなぁー。今度行って見るか。

否、否。そんな気持ちで行くと必ず悪い事が起きるのが私の人生。親父関連は必ず禍が起きる。ダメだ。行くなら徹底的に気合を注入しないと。

そうそう、そんなマツタケの事など考えてはいけない。私は五月姫のお墓がある慧日寺に向かっているのだ。マツタケなんて罰が当たる。

地図を見ながら慧日寺を探す。ここら辺の筈だ。でも見つからない。大体、慧日寺に繋がる道が地図には載っていない。山の中にポツンと慧日寺の文字だけ。これじゃ見つけられないよ。

クルマを徐行しながら走らせている。途中、ネグリジェみたいな薄着のおばぁーさんを発見。慧日寺の場所を尋ねる。

おばぁーさんはキョトンとしている。そして、あっ、あっと声を出す。思い出したみたいだ。

おばあさんが言うには「そこのお寺から上に登って行った所にあるよ」と。

私はお礼を言って言われたお寺に。

そのお寺の名は金光寺。あれれ、変だ。慧日寺と金光寺は地図上では結構離れている。どうして金光寺の上に慧日寺があるのだろう。おかしいな。

金光寺の横に細くて急な坂道がある。ここを登って行くのか。

以前乗っていたアトレー4WDなら何とか進めれるが、アリオンだと難しい。坂の上がどうなっているのかも分らない。アリオンでは無理だ。

私は申し訳ない気持ちで金光寺??の駐車場にアリオンを駐車。徒歩で坂道を登る。

この坂道、急過ぎる。蛇行しながら登る。そして平地が現れた。草ボカの平地だ。

いわき市は震災以来、手入れが行き届かず、どこもかしこも草ボカ状態になっている。そんな手入れをするよりも放射能除去が先決なのだろう。

私の母方の従兄弟も放射能除去の仕事をしている。身体が心配だ。その従兄弟の父親も炭鉱のトロッコ事故で亡くなっているし。

父方も母方も人殺しの家系。私は人殺しの名家のサラブレッド。しかも因果を一番享受する長男。私は特に気を付けて生きなければ。

それは良いとして、本当に何も無い。ネグリジェおばぁーさんは金光寺の上に慧日寺があると言った。その場所に今いる筈。どうしたら良いのか。

しょうがない。地図を見て左側の道を歩く。道は土。舗装がされていない。ここをクルマで通るのは稀の様だ。やっぱり徒歩で正解だったな。

でも何も無い。建物が全然無い。こんな所に慧日寺があるのだろうか。

更に道を左へと歩く。家庭菜園みたいなのがあった。針金状の材料で潜り門となっている。何かがある。気になって門を潜ってみた。

そしたら、アアッッッーーー、そんな馬鹿なぁーーーーー、まさかぁーーーー。


続く。
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五月姫(如蔵尼、瀧夜叉姫)を尋ねて慧日寺(いわき市四倉)へ。【2017年編】その1

2018年09月05日 08時28分40秒 | 永井平九郎
この話は昨年のお盆です。

私は永井平九郎の姉・・・・・になるのかは断言出来ませんが、平将門公の三女・五月姫。亦の名を如蔵尼。そして亦亦の名の瀧夜叉姫を尋ねて福島県いわき市四倉にある慧日寺を訪ねに行ったのです。

尋ねてと言っても当たり前ですが、お墓参りです。お盆ですので。

あっ、それと瀧夜叉姫の名は間違い無くフィクション。そんな名で呼ばれていた訳ではありません。

めんどくさいので調べませんが、罰当たりにも誰かが瀬織津姫をモデルにして、五月姫をオドロオドロしい妖術使いの復讐鬼に仕立てあげた物語の主人公です。

どうして五月姫に瀬織津姫を被せた物語が創られたのか。

簡単です。大昔から瀬織津姫の存在は神職に限らず民衆にも知られていた。有名だった。だから多くの物語や昔話に瀬織津姫がモデルの話が存在するのです。

どこの誰かが「瀬織津姫は隠された存在。消された存在。今こそ封印解除だ」とか寝惚けた事を言っていますが、そんなの大嘘です。

今までにも瀬織津姫のカテゴリーで語って来ましたが「瀬織津姫=神道」です。神道が続いていたと言う事は、瀬織津姫は隠されても消されてもいない。何を言っているのかと呆れます。

それなのに封印解除ってどう言う事でしょう。瀬織津姫が鎮座する神社を破壊するって事ですか。馬鹿ですか。

「もういい加減に瀬織津姫を妄想でトンデモナイ存在に仕立て上げて、詐欺商売をするのはよしなさい。本当に罰が当たりますよ」っと思います。

まっ、神道や瀬織津姫を全然理解していないからそんな事が出来るのでしょうけど、騙される方にも問題があります。少しは神道を学んでください。己の馬鹿さ加減が分って来る筈ですので。

さて、脱線終了。こんな事を書いちゃうと中々終わらなくなるので止めます。五月姫に戻ります。

あっ、それと瀧夜叉姫のストーリーや、何故に瀬織津姫がモデルなのかも長くなるので亦の機会に書きます。今回は五月姫への参拝記です。

五月姫のお墓が慧日寺にある。ある事はあるのですが、慧日寺は福島県の磐梯町と四倉の二つが存在しています。そしてそのどちらにも五月姫のお墓が存在する。これはどうしたもんか。

どっちが本家で元祖なのか。そんなの分らない。分っているのは徳一法師が逃げてきた平将門公の三女・五月姫を恵日寺で匿った。そして真面目に仏教へ帰依して行って如蔵尼を名乗ったと言う事です。

でも、平将門公は940年に亡くなっている。徳一法師は843年に死亡している。だから徳一法師が五月姫を匿ったのではない。徳一法師の教えを次ぐ者たちが匿った筈。

そして匿うとなると四倉は追っ手からは近い距離にある。 私が関係者なら磐梯町の恵日寺に匿うと思いますが、そんな事を考えると、またまた話は中断してしまいます。

今回は五月姫のお墓への参拝記。何れ磐梯町の慧日寺のお墓に参る事も有ると思いますか、今回は四倉の慧日寺を目指します。故郷いわき市平からも近いので。


続く。



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