諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

私が今すべき禊。その1

2015年09月26日 00時00分02秒 | 神道

今回の記事は「家賃滞納者を追い出す為に簡易裁判を検討していたら・・・・」の続きと言うか総括。否、精神面・神道面で如何に対処すべきかの考えを書きたいと思います。

何故、我が家系は困難ばかり続くのか。極論を言います。誰もが困難を避けられない。これは神に縋ってもです。現に仏教やキリスト教に縋って命を落とした人は無宗教者より多いと私は考えています。日本では特に。

その理由は過去の記事に書きましたが、一向一揆、島原の乱、長崎のへ原爆の経緯で証明出来ます。宗教では解決出来ないのです。

では如何するか。世の中「正負の法則」で回っていると私は考えています。そして私は震災後楽をして来た。震災でショックを受け腑抜けになった。

勿論、震災での負も受けています。店での営業も停止してます。収入は激減してます。しかし震災で恵みも受けてます。震災前まで私の家の物件は空き室だらけでした。いくら家賃を下げても埋まらない。それでもローンの支払いもある。固定資産税も払わなくてはならない。

正直に言います。震災でのメリット、恵みの方が良かったのです。もっともそれが原因で家賃滞納男の事で苦しんでいますけど。

世の中「苦あれば楽あり」。その逆もしかりです。私は楽を受けすぎた。だから今回の苦が来ていると考えます。

それでなくても因果な家系を生きています。私の人生は苦楽の振幅が激しい。財産に恵まれた面もあるが、決して幸福な人生ではなかった。苦しい人生だった。辛かった。この辛さを如何緩和したら良いのか。

それは私の事故死した従兄弟、自殺した従姉妹が証明しています。負を自分の命で払えば周りに幸せが訪れる。

否、そんな事は無い。死んだ者に対しての嘆き、悲しみ程辛いものは無い。でも不思議に次に来るのは幸運。何故か「正」が訪れる。

従兄弟は本家の長男だったが、その慰謝料は本家のリホーム代となった。二人の弟は共に十代で結婚し、子供にも恵まれ、幸せの家庭を築いている。

従姉妹の場合は30代後半で娘を残して自殺したが・・・・・。

申し訳ない。従姉妹の話は又の機会にします。これは一言では語れない。従姉妹のケースも途轍もない因果なので。

さて今回、私は家賃滞納男の事で悩んでいます。彼は交通事故で人を殺している。それなのに大型車を買いその為に家賃が払えないでいる。彼は交通事故で殺した方に対しての鎮魂の心が無い。懺悔の心が無い。それは悪である。私はそんな人間が大嫌いである。何とかして追い出したいと思う。その思いが私の精神を乱している。苦悶しているのである。

その思いは私の両親にも感じている。何故何時も何時も私の敵に回るのか。それはもう解っている。もう私の親ではないから。違う者、私の家系に恨みを持つ者が入り込んだ。其の者が私の命を狙っている。殺したいと思っている。

考えてみたら従兄弟の死は私の父親が大きく絡んでいる。本家にもそれを指摘された。理不尽では有ったがそれは事実。従姉妹のケースも同じと言える。親兄弟等々、親戚等々、周りの者が敵になる。敵に入り込まれる。其の者を苦しめる為に。殺す為に。

一番解決策は死ぬ事。それは間違いない。瀧行の究極は瀧から落ちる事です。実施した修験者の大抵は死にます。死で持って禍津日神、つまり瀬織津姫を鎮める。調伏する。それが瀧行の究極も目的だと私は考えてます。死で対応するのが一番の様な気がします。

 

続く。

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自殺は本当にいけない事なのだろうか。その3

2015年09月16日 10時39分52秒 | 人生

途中、違った記事を書いてしまいましたが「自殺は本当にいけない事なのだろうか」を再開します。

えー、今回、こんな問題発言のお題で書いている理由ですが、仙台の中学一年生が虐めで自殺したのに、その中学の先生は自殺した生徒を転校したと説明し誤魔化した事に腹を立てたからです。

私、以前から言ってましたでしょ。仙台の先生は屑ばかりだって。人が一人死んでいるのに転校したってどの口が言っているのかと思いましたよ。こんなに酷いのですよ仙台の先生は。

教育者になりたくて先生になったのではないのです。宮城県では公務員で上位に位置するから先生になった。安定した仕事だから先生になっただけの事です。

自殺が発覚したら自分のキャリアにキズが付くと思ったのでしょう。だから虐めも自殺も無かった事にしたかったと言えます。本当に屑だと思います。こんな人達に教鞭を取る資格なんて無いです。私が鞭で引っ叩いてやりたいです。もう学校なんて存在しなくても良いのではないでしょうか。

ネットで授業も受けられるし、無駄な先生の大リストラを敢行して貰いたいです。こんな粗大ごみ教師に給与なんか払ってられません。人の命が守れず何が教育なんですか。こんな税金の無駄使い止めるべきです。学校なんていらない。試験で進級する教育システムを一日も早く構築して貰いたいですね。

怒りに任せて話が横道にずれましたが、この虐めで自殺した中学一年生を責められますか。

私、人生って不公平だと思うんです。産まれながらに貧富の差が有るし、才能やルックスにも差が有る。

私みたいに僅かな能力、気安すぎる顔で生きていくのはハンデだと何時も思ってました。例えば私が高倉健そのものルックスだったらどうか。やはり一目置かれる存在に成れたと思います。良い人生送れると思うんです。

自殺した仙台の中学一年生もそんな感じの子供だったと思います。私は新聞販売店の息子でしたから、刑務所上がりの人間を子供の頃から見ていました。新聞販売店は舐められたら続けられません。私の父親は小心者で商売には向いていませんでした。私の母親が勝気な性格だから続けられたのです。

私も凄い小心者です。でも小心者では生きていけない。戦わないと、立ち向わないとやられてしまう。それを新聞販売業と言う商売で学習しました。だから私は喧嘩をした。向かってくる奴と戦った。

私が通っていた中学・高校はプロテスタントの大学までエスカレーターで上がれる学校でしたが、教師は最低でした。

私、教師立会いの元、決闘したことがあります。相手は劣勢になって腕時計をメリケンサックのようにして立ち向ってきましたが、それを見ても先生は何とも言いません。ここの教師は教育者ではないのです。安定と地位を求めて教師になったサラリーマンです。だから生徒が苛められようが、暴力を受けようが見て見ぬふりをしてました。

大体、先生同士で虐めかありましたから、もう何を言わんかやです。キリスト教の教えなど糞の役にもなりません。

柔道六段の柔道教師が若い体育教師の手の甲にタバコを押し付け、体育教師が「あちぃ」と言うと、「お前でも熱いか」と言ったシーンを私の友人が見ています。

私は自習時間、礼拝堂で寝ていたら、牧師である副校長がヤクザ口調で学級崩壊を起こしていた公民の蝋人形みたいな先生を罵倒しているシーンを見ています。人間とはそう言う生き物です。虐めは集団で生きる生物の本能です。自己の立場を認識する為、自己の優越感を得る為の本能です。

人間、集団で生きるのであれば虐めは避けられません。キリスト教でも仏教でも虐めは存在します。神の教えなんて全然浸透していません。牧師だって坊主だって人間。ただの人間。何も偉くないです。人を導くなんておこがましいと私は思いますね。

話は大幅にずれましたが、苛められて自殺した人を責められるでしょうか。キリスト教は自殺はいけないと言いますが、何で世の中に差があるのでしょう。イエスキリストは「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」とか言ってますが、そんな考えでは生きて行けない。戦わなければ集団では生きて行けない。それが残念ながら人間界。この世の仕組みだと思います。

でも優しすぎて、小心者過ぎて、人とは違った個性で苛められる弱い人がいる。弱い人はこの世では辛い思いをする。それが耐えられず自殺する。それのどこが悪いのでしょうか。私、その事に付いてイエスキリストに聞いてみたいです。そして言ってやりたいです。「貴方の言葉は建前でしかない」と。

私が神なら自殺した者に対し労いをしたいです。施しをしたいです。せめてあの世では平穏に過ごさせてやりたい。勿論、天国で暮らせる様にします。現世で自殺するくらい辛い思いをしたのですから。

私のこの考えは神道、そして神道の仏教的解釈に近い考えだと思いますが、まだまだ考えが練り上がっておりません。今の所、そう考えている次第です。

この考えは子供の頃から有しておりましたが、50を超えた現在でも変わっていません。逆に反対意見を聞いてみたいです。

私の考えを否定して貰いたい。私も本当は「この世は地獄」とは私も思いたくないので。この世がもっと良くなって貰いたいので。

 

ではでは。

 

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仙台の大雨、凄過ぎ。

2015年09月11日 00時05分20秒 | 出来事

大変シリアスなお題である「自殺は本当にいけない事なのだろうか」をどう仕上げていいのか悩んで書き半端にしてますが、そんな事より凄すぎます。今仙台に降っている大雨が。もう、ハッキリ言って瀧ですよ。ここまで降るなんて私、始めての体験ですよ。

うちの店、雨漏りしているのにどうしたもんだべ。大丈夫かやぁー。。本当に50年に一度の大雨ですよこれ。困ったぁー。

夕方、チョット100均に買い物にいったんですけど、もう道路が川になってます。ワイパーをフルにしても前が全然見えません、何だこの雨。酷すぎる。私の住む街は台地だから水捌けは良い筈なのに水浸しになってますよ夕方の時点で。

道路の排水溝と言うのでしょうか。排水溝の空気穴みたいな所が、まるで噴水になってます。排水溝のどこもかしこもです。いゃー降るなぁー。こんなに降るのは本当に初めてだわ。びっくりですわ。

今月のシルバーウィーク中に延べ20万人を集めて、宮城スタジアムで嵐のコンサートをしますが、嵐のコンサートに今日みたいな嵐が重なったらどうなるでしょうね。

宿泊費が高騰し通常5000円宿泊代が36000円になってたりしますけど、こんな大雨降ったら間違いなく中止ですね。そうなると宿泊代どうなるのでしょうか。何か、欲をかいた罰が何となく当たる様な気がします。私の人生なら当たり前の様に罰が当たるから尚更。

そう言えば若い頃、新聞配達で大雨に降られ新聞がベタベタになったっけ。そう言う時は天の神様に「朝、早起きして働いているのです。頑張っているのです。雨を鎮めてください。私、辛いです。お願いします。拝みます」と心で願うと、不思議に小雨になったり止んだりしたもんでしたが、あれは偶然だったのだろうか。

「私、もしかしたら能力があるのかも」と思ったり、自惚れたりもしましたが、今の私にはそんな能力も気力もありません。天にお任せするのみです。怒りが収まるのを待つのみです。

仙台の大雨のピークは朝方みたいだけど、今だって十分ピークですよ。とんでもなく降ってますもん。まだピークじゃないって大丈夫かねぇーうちの店舗。もう泣きたくなるわ。ひぇー、止んでくれぇぇぇーーーー。

それでなくても今日は家賃滞納者を追い出したり、住宅の欠陥、境界線問題等々、裁判所や相談所を訪ね歩いているのに、こんな雨では明日は全部取り止めにするしかないですわ。やいやいやいやいやい。

それにしても鬼怒川は酷い事になってますね。鬼が怒ると書いて鬼怒川。つまり大雨で川が決壊し大洪水になった状態が鬼が怒っている様だから鬼怒川なのでしょうか。

「大雨等々で川が氾濫し、草木が薙ぎ倒され、まるで鬼が渡っている様な状態」を「鬼渡」と言う話も聞いていますが、やっぱり鬼渡神は水神なんだなんだなぁー。水神が荒れ狂っている状態が鬼渡神なんだなぁーと、つくづく思います。こんな大雨降っていると。

それにしても明日が心配だ。店舗の水かきせねばならんだろうなぁー。

ほんのチョット前まで水不足で仙台の水源である釜房ダムがカラカラになってましたけど、こんなに一気に振ること無いでしょうよ。やり過ぎですよ、水分様。

そして今テレビで見たんだけれど、仙台市だけで約14万数千世帯、31万人に避難勧告出ている。本当かよぉー。仙台人の10人に3人は逃げろって凄すぎるでしょうが。私、逃げなくて大丈夫なのでしょうか。どうなるんだろう、仙台。ホント朝が心配だ。ひぇーーーーー。

 

ではでは。

 

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自殺は本当にいけない事なのだろうか。その2

2015年09月08日 03時16分10秒 | 人生

続きです。

注射器を見ただけで過呼吸となる。注射されると頭に血が上り朦朧とする。終いには気を失う。これってプチ自殺なのではないでしょうか。

心が注射の恐怖を受け付けない。注射の恐怖で心が軋む。限界に近づく。精神が崩壊する寸前になる。崩壊する寸前に心のリミッターが発動し、注射と言う現実をシャットダウンする為に気を失う。これは生物に具わった心の自己防衛本能と言えるのではないでしょうか。

山羊だか羊の仲間で敵に襲われるとショックで簡単に気を失う種類がいます。敵に食べられる為です。敵に食べられて仲間を逃がすのです。この本能はある意味自殺に近いのではないですかね。

自殺はいけないとする考えはキリスト教の教えが一因です。戦国時代に細川ガラシャ夫人が「自分はキリスト教徒だから自殺は出来ない」として家来の槍を受けで死亡しましたが、あれは自殺とどう違うのでしょうか。自分で命じて死んだ訳ですから自殺と私は思っています。

細川ガラシャ夫人が家来の槍で死んだ理由は、お家に迷惑を掛けたくないからです。人質として囚われ、お家の足枷になりたくなかった。自分の名誉を守りたかった。だから死を選んだ。これが罪ならば神様もあんまりだと私は思います。

それと毛利の清水宗治の場合はどうかのか。清水宗治は高松城城主ですがご存知の様に豊臣秀吉、黒田如水により水攻めに遭います。その間に織田信長が明智光秀の謀反で死去。秀吉らはどうしても和睦して帰らざる終えなくなり、清水宗治の切腹のみを戦終結の条件としました。

水攻めは「戦わずして勝つ」訳ですから平和的な戦とお思いでしょうが、さにあらずです。食糧不足が生じます。食料が無くなれば餓死します。城内の人間は馬を食べ最後には人間を食べるようになります。生き地獄です。その地獄を目にし清水宗治は和睦の条件を飲んだ訳です。

実は清水宗治は正式な切腹を初めてした人物です。これまでも腹を切って自殺する者はいましたが、清水宗治の場合は船の上でしたが切腹の前にひとさし舞い、清く腹を切り首を刎ねられた。これが敵味方から賞賛され切腹の正式な形式となったのです。

秀吉側は織田信長が討たれているのですから早く敵討ちの為に戻りたい。交渉を長引かせれば清水宗治の命も助かった可能性は高かった。それが残念でなりませんが、この清水宗治の切腹は自殺に入るのでしょうか。

「城内の者は飢餓に陥っている。死肉を食う者まで現れている。生き地獄である。それを早く終わらせたい。自分の命で城内の者が救われるのなら・・・」として切腹し、自殺と捉えられ非難出来るでしょうか。

私はその点にキリスト教の矛盾を感じます。

 

続く。

 

 

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自殺は本当にいけない事なのだろうか。その1

2015年09月05日 03時28分53秒 | 人生

自殺はいけない。その通りだと思います。貴方が自殺して悲しむ人がいるなら。

自殺する本人よりも残された者の悲しみ、後悔、憤りは切ないし、大変辛いです。

誰かが貴方を愛しているのなら、自殺するべきでは無いと断言します。残された者は大変苦しい人生を歩まなければならなくなる。死ぬ前にそれを考えて頂きたいと思います。

現に私なんか33年前に事故死した従兄弟を未だに偲んでます。毎日です。最後に会いに来た日に私と接していたなら死なずに済んだのではないかと悔やんでいるのです。

自殺の場合はそれ以上の悔やみとなります。残された者は生き地獄です。死にたくなったら逃げればいいじゃないですか。いくらでも道はあります。死なずに済む方法をジタバタして考えましょうよ。悪あがきするのです。貴方の死を悲しむ人達の為に。絶対道は見つかる筈です。

借金に悩んでいるなら自己破産しても良いと思いますよ。演歌歌手の千○夫なんか負債総額1034億円を自己破産で1億5000万円にして貰ったんです。千○夫に比べれば貴方の借金なんか羽根の様なものです。一からやり直せます。

その土地が嫌なら場所を移せば良いだけの事。知らない街に逃げて暮らすのも良いと思いますよ。人生、押す時もあれば引く時も在る。勝てると思ったら立ち向かう。負けると思ったら逃げる。それが生き物の習性だと私は思いますね。

さて、今回のお題と正反対な事を書いてしまいました。実は私にはジキルとハイドが住んでいるのですよ。上記の内容はポジティブな私の考えです。でもネガティブな私も心の中にいます。その私は何時も死を考えているのも事実なんです。困った事に。だってこの世は地獄なんですから。

自殺した人は生きていたく無いから自殺します。自殺した人に取ってこの世は地獄。地獄だから自殺する。それのどこがいけないのかと思うのです、私。どうです。チョット危険でしょ、私。

私が子供の頃、作家は自殺するものだと思っていました。太宰治とか川端康成とか三島由紀夫とか自殺した作家は大勢います。人生を深く考え過ぎると人間死にたくなるのではないかと考えていました。

欝などで精神を病んで自殺する。欝の苦しみから解放される為に自殺する。これ、どこが悪いのでしょうか。私は未だに独身な訳ですが、私の死を悲しむ者がいないのであれば死んでも良いのではないでしょうか。

実は私、18歳になってから異常に注射が怖くなりました。注射だけでなく歯医者も怖いです。歯医者が怖くて虫歯を治療せず放置し、インプラントを入れる羽目になりました。2本も。歯にはこれまで100万円以上つぎ込んでいると思います。虫歯よりもっと痛い目に遭いました。歯の痛みも懐の痛みも。

まっ、それはどうでも良いのです。問題は注射です。私、注射を見るだけで過呼吸となります。そして注射。体中の血が炭酸になった感覚に陥ります。シュワァーと血が頭に上って行きます。そして意識が朦朧。最後には気を失います。

何でこうなったのかは判りません。子供の頃は大丈夫だったのです。明らかに18歳の時、私の意識が代わったと言えます。

 

続く。

 

 

 

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