山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

聖書と事実

2006-05-31 22:59:42 | 未分類過去
私は「クリスチャン」でもないし、あるいは「エホバの証人」でもないが、聖書の記述については、身逃がせない不思議な事実があることは否めないと思う。

昔、子どものための聖書物語を読んでいたときに、「バベルの塔」の話があった。
人間は天に届くほどの高い立派な塔をつくり、人々が集ってきたという。
それで、神がいかり、その塔は一瞬にして崩れ去り、それから神が人々の言葉を通じさせなくしたために、人間はばらばらに散っていったということだった。そのときに様々な言語が生まれ、様々な国に分散したということだったと思う。
神は人間が権力のもとに集合するのではなく、世界にちらばって平和に暮らすことを望んでいるということだったと思う。

こんな話は作り事だと思っていた。巨大な塔が一瞬のうちに崩れるなどということはない、たとえ大地震などで損壊したとしても、完全にばらばらになってしまうことなどはないだろうというのが常識的な考えだったと思う。

しかし、それを覆すようなことが、実際に起こったのだ。あのアメリカ同時多発テロ事件の時に、「世界貿易センタービル」が数時間もしないうちに、原型の面影も残さず、ばらばらに崩落してしまったのだった。

ここで私は、世界貿易センタービルが「バベルの塔」だと言っているのではない。
人間の文明技術を駆使した現代の頑丈で立派な建造物でさえもが、本当に一瞬のうちにあとかたもなく崩れ去ることがあり得たことに驚いたのだった。
構造物が一瞬にして破壊されるというその物理的根拠があったということである。

それで、他の気になる聖書の記述と言えば、預言の書のどこかに、人間の肉体が生きているうちにみるみるうちに朽ち果てるというようなものがあったと記憶しているのである。
立っている人間の足がその場でどうかなってしまうというような聖句があったように記憶している。いくら伝染病とかで急死したにしても、そんなことはありえないであろうと思うのだった。

ところで、この前書いた鳥の大量死のことだが、北海道でスズメをかわいがって庭で餌などを与えている人の証言によると、スズメが元気に餌を食べているにも関わらず、その最中にポトンと落ちて、見るともう死んでしまっているということだった。スズメの体の中でいったい何がおきているのであろうか?本当に不気味だ。こんなことが人間にもおこらないという保証はない。

近年夏、東京の練馬区などでは、はるか遠くの海岸のビル建設の影響で海からの風がとおらなくなり、異常に気温が上昇するということで、集中豪雨が発生している。練馬のみならず都心のにわか雨の降り方が尋常ではなくなっており、それは都市化によって異常に大気が熱せられるからだ、などといわれている。
しかし、このような一部の都心地域の一時的な状況のみならず、地球の温暖化によって南極や北極の氷が解けてしまい、海抜の低い珊瑚礁のきれいな島国が海に沈没しているという事実もある。
東京で昨年、練馬・杉並・中野・新宿などで並々ならぬ集中豪雨があり、浸水被害が続出したが、激しく降り続く大雨について語るときに、「ノアの洪水のようになるのかと思いこわかった」と形容する人もいた。

地球の環境が破壊された場合、ノアの洪水もけっしてありえない話ではないかもしれない。

今、世界の共通語は「英語」になりつつある。つまり英語を使う人間が主導権を握り、そこに権力と富が集中しようとし、それを求めて世界中の人が集っている。
世界貿易センタービルは、バベルの塔ではないし、神の怒りで崩れたのでもない。悪質な人間のテロ行為によるものだった。
しかし、人間の多くは富や名誉などの欲に支配されて、なにか間違った方向に進んでいるのではないかという疑問は拭い去ることができない。

経済の発展ばかり考えず、エネルギー問題、核兵器、放射性廃棄物、汚染、自然破壊など、地球のために今すぐ真剣に取り組まなければいけないことがあると思う。
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ホクロ恐怖症

2006-05-30 21:22:01 | 未分類過去
何日か前、テレビ「たけしの本当は怖い家庭の医学」で悪性黒色腫のことをやっていたのですが、ただのホクロだと思っていたものが実は悪性の皮膚癌であり、他の臓器に転移して命にかかわってしまう病気だったということがあるそうです。その3割は足の裏のホクロから始まるそうですが、体全体にホクロが多い人などはかかりやすいとか言っていました。

実は、私もホクロが多いほうです。そして、年月と共に成長するホクロもいくつかあるようなんです。
その中で、子どもの頃から左耳の穴の中入り口付近にホクロがあり、このホクロは自分では見えないのですが、けっこう大きなもので指を入れて触ってみるとちょっと膨れていてその存在がわかります。このホクロが私には不安材料なのです。
そして、私は以前顔面神経麻痺をやった後遺症なのか、とにかく左半分の具合がよくないと感じることが多く、左耳、左のど、左あご、あたりに違和感があることが多いのです。

左耳近辺が痛くなることがあるので、耳が悪いのかなあと思って、何ヶ月か前に耳鼻科にかかったのですが、耳は何でもないとのことでした。
最近、また左耳近辺が痛くなり、耳のホクロが炎症を起こしているふうにも感じました。そのホクロから耳の壁になっている骨に痛みがしみって来るようにも感じ、なにか悪いものが骨に浸潤しているのではないかと思うほどでした。
しかし、耳鼻科で以前見てもらったときは、耳が痛く感じても耳に異常は見られず、原因は耳鼻科の領域ではないと言われたので、今度は皮膚科に行くことにしました。このホクロが悪性化していないかどうか見てもらおうと思ったのです。

皮膚科に行くと、診察はあっけなく終わりました。一目見て先生はこれはなんでもない大丈夫だといい、組織をしらべるわけでもなく、拍子抜けするくらいでした。

そういえば、私は黒目の部分にもホクロがあって、それは瞳の下にあります。高校のときにそれを見つけ、瞳が流れる病気ではないかと思って、あせって眼科に行ったところ、それは体のホクロと同じ事で、単なる色素による色の違いだとのことでした。
目の中にも悪性のものができることがあるので、やはり心配ですが、これもお医者さんがみたら一目瞭然だったようです。

まあ、とにかく、悪いものじゃなかったので、安心しましたが、テレビでホクロの危険を放送したあと、皮膚科に足の裏のホクロの診察希望者が殺到したようですね。


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悪い景観100景

2006-05-30 00:24:30 | 未分類過去
悪い景観100景」というもののうち70点を今見たところです。
さすがに、そんなものばかり見たら、ちょっと気分が悪くなってきました。
派手で大きな看板が一番下品で落ち着かないものではないかと思いました。
工場や煙突はある意味仕方がないと言えますが、建物を巨大な広告面にしたり、必要以上に目立たせるのはほんとうにうんざりですね。
電柱・電線・道路・ビルの上の機械なども人の心を圧迫するものですが、それらが生活に必要なものである一方、巨大看板やネオンサインなんかは必要不可欠なものではありません。もう少し、品格というものを考えたほうがいいでしょう。
商売のための看板やノボリは節度をもってしてもらいたいです。それをなくすだけでも、もう少し雰囲気のいい町にできると思います。

「線路際の貧相な住宅」というのは悲しくなってしまいました。
うちは、線路際じゃないですが、同じような住宅だからです。
ベランダに洗濯物を干して、雑然と生活しています。そこに住む人たちは好きでそんな生活を人目にさらしているわけではありません。

もうちょっと場所や雰囲気が変わると、ベランダにそれぞれに布団や洗濯物を干している集合住宅は、人々の生活感があって、天気のいい日などは、のどかな感じさえ受けることがありますが、さすがにここに出ている住宅を見ていると、なんかストレスがたまってきました。

最近、我が家ではやっと普通のデジカメを買ったのですが、夫がカメラの映り具合を試すべく、部屋の中にいる私の顔などを撮ってみたりしているのですが、それが「悪い景観そのもの」でして、顔が見苦しいのは仕方ないとして、バックにカーテンレールにぶら下げられた大量の服とか洗濯物とか、テーブルの上に雑然と陳列された調味料のビンとか、それはもうよくもここまでごちゃごちゃしているのかと思うもので、大ショックでした。
すぐさま画像を消去させましたが、様々な場所を写真に写して見て気持ち悪いと思ったら、そこをきれいに片付けていき、その後に写真を取って、写真に耐えられるようにしていけば、部屋の中も悪い景観ではなくなるだろうな思いました。
家の中も外も、自分の姿も、何もかも一旦写真にとって客観的に眺めてみて、合格点になるように改善するのがいいかもしれません。
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不気味な鳥の大量死

2006-05-29 22:38:37 | 未分類過去
今日テレビで、海岸に鳥の死骸が大量に打ち上げられていたというニュースをやっていました。よく見ていなかったのでそれと同じものかどうかわかりませんが、インターネットのニュースを探してみたら、「5月24日、安芸郡那奈半利町の海岸にハシボシミズナギドリ175羽の死体が発見された」というのがありました。これらの死骸からは、鳥インフルエンザウイルスなどは見つからず、胃の中に何も入っていないことから、ニュージーランドの方から移動してくる途中で衰弱死したと考えられるとのことでした。死骸はいずれも生後1年に満たない若鳥で、体力がなかったのだろうということでした。テレビでも「普通は途中でイカなどをとって食べるのだが、そのえさがなかったか、暴風雨などに巻き込まれ食べることができなかったのだろう」と言っていたようでした。このような事例はいくつかあるので、特にめずらしいものではないともいえるそうです。

しかし、なんか最近、「鳥の大量死」というニュースが多すぎるように思います。
ネットのニュースを見ると、例えば4月18日のニュースに「都内の公園でハトが大量死していた」というのがあります。これも鳥インフルエンザではないそうです。
また、以前北海道だかのニュースでも、「すずめが大量死している」というのがあり、えさを食べている最中にも、突然死んでしまうとか言っており、それらの死体を調べても原因はわからないとのことでした。なにか毒を食べた可能性があるなどと言っているのも聞いた記憶がありますが、相変わらず確たる原因は判明しないようです。

小動物が死ぬというのは恐いです。「鳥インフルエンザではないから安心だ」というように言っているようですが、果たしてそうでしょうか?
伝染病ではなく、その死体から人間に感染することはないからといって、人間にはかんけいないのでしょうか?
海の渡り鳥が食べ物がなくて大量死したとしたら、いつもあるところにえさがなくなっていること自体、自然環境の異変ではないでしょうか?
野の鳥が死ぬとしたら、畑に農薬などが大量にまかれているのかもしれません。

鳥が大量に死ぬような環境が各地に現れているということは、地球の自然環境が破壊されているからではないでしょうか?
鳥だけではなく、イルカや鯨の群れも海流が異変を起こしているせいか、湾内に紛れ込んで死んでしまうようなことも起こっているようです。

弱い自然動物に現れることは、いずれ強い人間にも及んでくると思います。
地球の環境破壊を食い止めることに全力を注がなくちゃいけないじゃないでしょうか?
とても不安です。

そういいながらも、自分自身省エネルギーやリサイクルなどに努力をせず、環境破壊を拍車をかけるような生活をしているので、なんとかしなければいけないと思います。
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伊藤京子さん

2006-05-28 23:00:20 | 未分類過去
私は日常オペラなんかには縁のない人間であるが、大昔のことを思い起こすと高校時代に「夕鶴」のオペラを鑑賞したことがある。
そのとき「つう」の役をしたのが、たしか伊藤京子さんというソプラノの声楽家だったと記憶していた。
当時、高校の演劇部に入ったばかりのときは、「夕鶴」の台本をみんなで感情を込めながらまわし読みするのが、毎日の練習のひとつでもあった。誰が何の役というのはなく、せりふをひとつずつ順番に読んでいくので、「つう」にあたったり「よひょう」にあたったり、別の役にあたったりするわけだった。
当時は劇では山本安英さんが「夕鶴」で有名だった。もうかなりの年齢だったと思うが、「つう」といえば山本安英というイメージがあった。それから、そのころ歌舞伎女形の坂東玉三郎もつうの役をやったんじゃなかっただろうか?
誰がやったのか覚えていないが、その劇も見に行き、その後でオペラを見たときに、オペラよりも劇のほうが感動できるものだと感じた。感情のかたまりはせりふの中に凝縮されてそれが発せられた瞬間に人に衝撃を与える力があるが、それが歌というものになってメロディーとなると、なにか普通のせりふに比べてうやむやなようになってしまう。たとえば悲しい気持ちが美しい歌声となって「流れる」という風な感じになってしまうように感じた。
普通の劇と比べるとメロディーにのせて表現するということは、なにか不自然で感情変化の焦点がボケるように思った。それは私の感覚が散文的なものだったからかもしれないが、一緒に見た人もオペラよりも普通の劇のほうが感動できるねと言っていたようだ。
私がかつてプロのちゃんとした作品であるオペラを見たのはそのときしかなく、知識も経験もないといえる。伊藤京子さんは、当時中年だったと思うので、今はかなりの年齢になっているのではないかと思うが、現在もCDなどが発売されており、音楽コンクールの審査員などをされているようである。

ところで、「伊藤京子」という名前で検索したところ、まず出てきたのが元グラビアモデルで日活の女優であり、石坂浩二さんと関係が深かったとかいう方が載っていて、まさしく同姓同名であるのだが、そんな人がいたのかと驚いた。しかし、その方はすでに亡くなられているという記事に遭遇し、知らない人とは言えかなりの衝撃を受けた。若い頃の水着姿などのかわいい写真も載っているのだが、数年前に事故で亡くなられたそうだ。プロフィールを探して読んでみると1959年9月生まれだったようだ。そうすると、私と同じ学年になるのではないだろうか?そういう人生の人もいたんだなと思った。

「伊藤」+「京子」といえば、この苗字と名の組み合わせなら、特にめずらしいものではなく、いっぱいあっても不思議ではない名前であることは確かだ。
グーグルで検索すると、そのほかに、有名なピアニストの方もいらっしゃるようだし、大学講師のような方もいらっしゃるようであった。


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オラトリオ

2006-05-27 23:56:40 | 未分類過去
ひょんなことから、7月にオラトリオを鑑賞しに行くことになりました。
昔コーラスを習っていた関係筋から切符を買わないかと聞かれて、行ってもいいような返事をし、パンフレットが送られて来てから内容と値段で決めようと思っていたところ、送られてきた郵便にはすでに切符2枚と振込み用紙が入っていました。
値段は予測していたよりずっと高かったのですが、席は前の方でとてもいい席です。せっかくなのでこれを機会に友人と見に行こうと思います。

実は、オペラだとばかり思っていて、今日たまたま友人から電話があったので、友人にオペラを見に行くといったら、友人も一度オペラというものを見に行きたいと言うので、1枚買ってもらうことにしましたが、オラトリオだったんです。
オペラとオラトリオの違いもよくわからないですが・・・。
辞書で引くと、オラトリオは宗教的な物語を歌と音楽で表現したしたもので、声楽家は演技というほどのものはしないようです。オペラは衣装をみにつけて演技のようなこともする、つまり歌劇でしょうか?
友人はミュージカルはよく見に行くそうなので、オペラだったらよさそうですが、オラトリオはどうかな?と後になって思いました。
もう一回確認しないといけません。

夫はクラシックという柄じゃないし、高校生の次女も行きたくないと言うし、長女はテスト前だからあまり時間を取られたくないと行っていたので、友人が切符を買ってくれて一緒に行けたら一番都合がいいです。

その友人も公営住宅に住んでいて、私と同じ年で、うちの夫と同じ年の夫がうちと同じように失業したりしたこともあり、同年代の子どもが2人いて、パートタイマーをしているという点で、私と境遇が非常に似ています。
ひとつだけ違うところは、上の子がもう就職したので、その分お金がかからなくなったおかげで、ミュージカルや映画など見に行く余裕ができたようです。
以前の状況だと、高い切符はとても勧められないなと思っていて、なかなか誘うのに適当な人はいないから、しかたなく長女に付き合わせようと思っていたので、友人が乗り気になってくれたのはグッドタイミングでした。

先日の放送大学の芸術の講義の中に出たきた「トゥーランドット」のこともあるし、その時にオペラのようなものをナマで見てみたいなと思っていたので、今回はちょうど良い機会といえるでしょう。

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悩める日程

2006-05-26 23:48:00 | 未分類過去
会社で近々健康診断をします。パートタイマーも希望者は会社負担でしてくださるそうです。
区の普通の健康診断ではない胃のレントゲンと乳がん検診もあるので、希望しました。

ところで、その日程なんですが、数人ずつ日を分けて検診センターに行くことになっており、私の日程がちょうど、もう一人の同じ仕事をしているパートタイマーの人が休みの日に設定されていたのです。
いつも休暇などを取る時は、2人が重ならないようにということで、休みをいただいているので、この日2人ともいないのはよくないんじゃないかなと思いました。

でも、パートは補助的な仕事で、どうしてもいなくては困るというものでもないかもしれません。だから、黙っていようかな~と思ったのですが、やはり総務の人に変更できるかと聞いてみることにしました。

そうしたら、別の女性社員のAさんと交替するように取り計らってくださいました。
もともと、その日程はいろいろなことを吟味して組んであった予定だったようですが、私の意向を受け入れてくださった形となりました。

しかし、後でよくよく考えてみると、
うちの会社の仕事は「納期期限」というのがあって、社員さんはその期限に間に合わせるように忙しく仕事をしているのですが、最初のAさんの日程は、Aさん担当の仕事の納期期限の後であったのに、変更後は期限の前日ということになったのです。

なんか余計なことをしてしまったんじゃないかなあと思います。

パートの仕事の都合なんか本当はどうでもよかったのかもしれません。
もともと、社員さんの都合を考慮して組んであったのかもしれないなあと思いました。

そして、私が健康診断に行く日は、別のいろいろな社員さんの納期期限になっているので、私がするべき書類チェックの仕事もたくさんありそうです。
私が不在ならもうひとりのパートの方が代わりにやってくれるので、問題ないとはいうものの、やはり最初のままの方がよかったのかなあ、などと思いました。

なんか、ああでもないこうでもないと、思い煩ってしまいました。

私って、あれこれ悩むタイプだな~



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また変更

2006-05-26 23:17:32 | 未分類過去
モアイ像のテンプレートは気に入っていたのですが、文字が小さすぎて目が疲れてしまうので、変更しました。

やはり、デザインより機能が第一ですね。
きれいな景色のものにしようかと思ったのですが、あまりにステキすぎるものは、くすぶった心の文なんかを書くととてもそぐわないようで、いつもさわやかな内容を書かなくてはならなくなりそうです。
それも無理があります。

どんな内容にも対応できるのはやはりシンプルに限りますね。
文章そのものが引き立つのは無地が一番だな、と他の方のブログを見て思いました。

そして、昨夜遅く、いろんなテンプレートに着せ替えしてみたのですが、結局、これがいいかなあとこのテンプレートに行き着きましたよ。

当分、これで行きます!

ところで、昨日の閲覧は793なんですが、いったいどうしたというのでしょうか?
今までは多くても300くらい、最近は平均すると200弱になっています。
最高記録ですね。
アクセスは68で、いつもとほとんど同じです。
ひとりの方が過去のものに目を通してくださったからかな?などと思います。

過去のものは自分でも何を書いたか忘れているし、恥さらしだから消しちゃおうかななどと思うこのごろです。

閲覧が増えると嬉しいような恥ずかしいような気持ちです。
実際には読まなくても、画面を出しただけでカウントされるでしょうから、驚くに値しないかもしれません。
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年金免除について

2006-05-25 11:32:36 | 未分類過去
今朝、田舎の母から電話があって、私の夫が失業したときに年金免除の手続きをすれば全然払わなくてよかったのに、と言ってきた。
今、世の中は年金を不正免除したことが話題になっているが、うちの場合正式に免除されてしかるべき状況だったのにもかかわらず、社会保険事務所の勧めによって無理して払ってしまったという経緯がある。

昨年3月に夫が会社事情で失業し一時的に厚生年金から抜けたので、その間国民年金に切り替えなければならなくなったが、失業者ということで国民年金の払い込みを免除してもらおうと手続きに行った。そして一旦手続きをした。

しかし、そのときに、免除はできるけれど免除した場合将来の受取額は正規の期間の3分の1に減る(意味不明)が、それでもかまいませんか?と夫が言われたそうだ。
そのときは失業中に夫婦の分毎月27720円も払うのは大変だからそれでもしかたがないと思って手続きをしてきたのだった。しかし、家に帰って来てよく考えたら「老後の受け取り額が減るのは苦しいのではないだろうか、いくらかでも多いほうがいいのではないか」と思われてきた。

社会保険事務所に電話をし、受取額が減るというのは具体的にどのくらい減るものなのか聞いてみた。人によって金額は違うだろうが、計算の一例でもあげてくれれば参考になる。たとえば月給30万円の人が35年間払ったうち、1年間免除した場合と、1年間国民年金を払った場合とは、受取額は将来どれだけの差が出てくるのかというような例を聞きたかったのだ。しかし、そのような一例を教えてくれるわけでもなく、一向に埒が明かない状況で、とにかく免除するよりはしないほうがいっぱいもらえるという話に終わった。

それで、「それならば現在の楽よりも後の楽を選ぼう」と決意し、「現在の苦しみ」を受け入れて国民年金を正規に払い込むことにし、一旦申請した免除の願いを取り消しに行った。
それから8月まで、収入もないのに138600円のお金を払い込むことになった。

母の話では、失業した人が一時的に免除になるのは普通のことだという。そこで律儀に国民年金に切り替えて払うというのは普通の方法ではないようだった。
しかし、私たちが手続きをしたときの社会保険事務所のニュアンスでは、失業中は国民年金に切り替えるのが当然であり、その間食べるのにも生活するのにも困るような状況で、どうしても国民年金を振り込めないような人の場合は、免除もいたしかたないがそうでなければ払うのが当然というものだった。
また、一定期間免除した場合は、再就職した後に遡って免除期間の分を払い込めば、何とか受取額を減らさずに済むという言い方だった。
しかし、再就職したとしても、遡って払うほどの収入が得られるとは到底考えられなかったから、どうせ後で貯金を切り崩すことになるなら、今崩して使ってしまうことにした。

後から聞いたことなのだが、近所の友人でやはり夫が失業して免除を受けていた人がいて、その人は払う余裕がないと言い張って免除してもらったそうで、受取額への反映なんか微々たるものであり、免除してもらったほうがぜったいに得だと言っていた。

まじめに払ってバカみたいだ。まじめすぎていつも損するんだ。

母の電話で、急に長女の大学生の年金免除手続きのことを思い出した。4月の初めに申請したものの認定されたという書類が送られて来ていないのである。
手続きが受理されていないのか、郵便物が誤配などによって紛失されてしまったのかと不安に思い電話してみると、これから送られて来ることになっているそうだ。
しかし、大学生のアルバイトの収入によっては免除されないこともあると釘を刺された。
娘は週2回夜働き、土または日は一日中働いて、生活費の足しにしている。収入は多くても50万位だから、そんなところから年金を払えと要求されることはないだろうとは思うが、親の収入が足りなくて子どもが自分で働いて大学に行っていたとしても、収入があるということで年金を払わなくてはいけないとなるとすごい不条理だと思う。
以前スーパーで一緒に働いていた大学生は収入が150数万あるとのことで、親の扶養から外れてしまったそうだが、年金も自分で払っているのだろうか。遊んでいる大学生もいる中で、毎日学校が終わるとスーパーで働く勤労学生であり、店長よりも長時間仕事に携りお客からは店長と間違われるくらいであったが、アルバイトは何年働いてもアルバイトでしかない。社員だったら厚生年金があるはずなのに・・・。

なんだか、貧乏でまじめな人ほど損している感じがする。お金持ちか、あるいは怠け者で要領のいい人が生き残る世の中だ。


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家族と自立

2006-05-25 01:04:19 | 未分類過去
昨夜ふと急に寂しさを感じた。
それは、家族が一緒に暮らせないということである。
田舎でひとり暮らしをしている74歳の母が心配でならないし、近所のアパートで一人暮らしをしている大学生の長女のことも心配だ。
こうやって、夫婦と高校生の次女の3人で、おいしいものを食べたり楽しく話したりしているときにも、長女は一人で食事を用意して食べているのだし、6畳のアパートにぽつんと暮らしているのである。自由気ままでいいのかもしれないが、アパートに帰ると誰と会話をするでもなく、ひとりで過ごし、あとは大学とバイトの往復生活を続けていて、今後は就職して会社とアパートを往復する生活を始めるのだろうか?
田舎の母は、隠居生活をしているために、毎日特に何をするという予定もなく、時々近所の老人友達と世間話をしたり、猫の額ほどの家庭菜園を耕したり、たまにカラオケに行ったり、グランドゴルフをしたりしているようである。
身内が近所に全然いないのもかなり心細いのではないかと思う。
一人暮らしの日常生活を思うと、家族との会話がないこと、ひとりで食事をすることがとにかく寂しそうな気がする。
昔の大家族のように親子3代が日常茶飯事団欒しているようなにぎやかな家だったら楽しいだろうなと思う。

しかし、一人暮らしをすると、確かに自立はする。誰を頼ることもできないから、自分で何でもしなければならない。その点はいいことかもしれない。

親が年を取ってくると、楽しませてあげなくては、とか、寂しい思いをさせないようにしなくては、などと思い、そのことが子どもとしての務めのようにさえ感じることがある。
それがいつしか強迫観念のようになったりもする。
夫の母が特別養護老人ホームに入っていたときも、最初は最低月に1度は行かなくてはと思っていたのだが、パートなどを始めるとだんだん忙しくなってきて、出かけていくのが億劫になってきてしまった。そうすると、今週いかなかったから来週こそはというようなことの繰り返しで、漸く行けば、しばらくは務めを果たした気になるが、また期間がすぎ、1年中「行かなければならない」という重圧感にとらわれて生活するようになってしまったのである。
あるときふと、「義母はそんなにわたしたちに人生を左右されてしまうような受身の人なのだろうか」と思った。体こそ不自由だが、義母は他人から幸せを与えられなければ悲しみにくれるような人ではないし、自立した人間と言うのは、自分自身で生きがいを見つけて生きていくものではないだろうかと思ったのだ。それで、義母は義母なりに本や新聞を読んだり俳句を作ったり、ホームの関係の人との交流を持って、自分の生きがいをみつけ前向きに生きてくれたと思う。
家族のふれあいは大切だけど、いつも依存していっしょにいさえすれば幸せになれるというわけでもないのではないかと思う。

長女なども一緒に暮らしていたときは、家事などは何もしなかったし、光熱費の無駄などということにも無頓着で、何でも親まかせにしていた。それが一人暮らしになってからは、ずいぶんとしっかりしてきた。
そういうことは、一緒に暮らしていたら到底身につけられるものではなかったと思う。

しかし、それにしてもやはり別れ別れに暮らすのは寂しいものである。
だが、昔の大家族というものは、それぞれが自立してなかったってことなんだろうか?
いったい、どういうのが一番いいんだろうか?

どうしたって、母と私と子どもと3世代が一緒に暮らすことはありえない状況なので、母と暮らせば子どもと離れ、子どもと暮らせば母と離れ、という状況が起こってしまう。
母の寿命はあと何十年もあるわけではないだろうし、子どもはこのまま大人になってさらに親から離れていくのだろう。
夫は今のところ空気のような存在で、「亭主は元気で留守がいい」と安心している状況であるが、夫も私よりかなり年上ではあるから、私がひとりで生き残る可能性が高い。

親も子も夫もほったらかしにしているような生活を積み重ね、私は今、何を求めて生きているのかわからない。老後は今の母と同じで、田舎の家で一人で暮らすのかなとも思う。

なんか、今から後悔するのが見えている人生と言うか、どうしようもないような悲しい気持ちに誘われる。
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くどい!

2006-05-24 19:43:46 | 未分類過去
最近の私の文章というのは非常に「くどい」と自分でも感じる。

メール便はポスト近辺に放置しないでちゃんと家まで届けて欲しい。
共同住宅の場合、小さいポストが並んでいて入らなかったりすると、そのへんの適当なところに置いて行っちゃうんだ。郵便の場合はちゃんと配達してくれるのね。
アタマきた~!

くらいが普通の書き方だろう。

これは仕事の影響だと思う。

私はいつも読んでいる文は、次のようなものなのだ。

郵便を配達する郵便配達員の郵便配達業務の方法と、郵便ではないメール便を配達する宅配便業者におけるメール便配達員の配達業務の方法とを比較した場合、以下のような相違点がある。すなわち、郵便配達員の郵便配達方法は~~~~

のような文章なのだ。

こんな文章があたりまえのものになっちゃったら、
恐いですね~
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体験してみたいバイト

2006-05-23 01:06:46 | 未分類過去
体験してみたバイトは。
そうですね、どこかに取材に行き、記事を書くという仕事をしてみたいですね。
(こりゃあ、バイトじゃないか。)

文を書くのは好きですが、貴重なネタというのはなかなか無いものですから、どこそこへ行ってこれを調べて来い!というような課題があり、それを自分なりに文章にまとめるなんて仕事があればぜひやってみたいです。

取材、インタビューらしきことを初めてしたのは、日本語学校で学生を引き連れて都内の某有名大学のキャンパスに行き、大学生を捕まえていろいろ質問したことがあります。
その課題というのは、日本語学校の学生に課したもので、質問は日本語学校の学生がそれぞれに聞きたいことを考えて、好きなように質問し、その結果をまとめ感想などを発表するというものでした。これから日本の大学に進学する学生が多かったので、実際に大学生がどんなことを考えているかなど、自分自身で調べてみようという企画でした。
そのときに、日本語学校の学生はなかなか日本人の大学生に声をかけられず、困っている人も多かったのです。それで、学生にやらせていることを教師の自分が果たしてできるだろうか?と思って、思い切って自分もやってみました。また、どうやって声をかけるか学生の見本になる意味もありました。結構勇気がいるものですが、大学生はだいたいまじめに親切に答えてくれました。
日本人でも知らない人間を呼び止めて質問するということは大変なことなのに、日本語学校の学生は、日本語がたどたどしいという部分で、もっと大変なわけです。自分の日本語が通じるかどうかというのもとても不安でしょう。
引っ込み思案な学生には、私が大学生を捕まえてインタビューを申し込んでOKを取ったら学生に回すというようなこともしてみました。
そうやって、インタビューができた人はそれなりの収穫と手ごたえがあったようです。味を占めて楽しくやっていた学生もいました。
しかし、中には実際にはインタビューしないのにしたことにして、ウソの報告をでっちあげた人もいました。「将来どんな職業につきたいですか?」と質問したら「医者になりたい」と言っていた、「何学部ですか」「医学部です」と答えたと言うのですが、その大学には医学部はありませんでした。
そうやってごまかして過ごした学生は所詮得るものはなかったと感じました。

話がそれましたが、そのときにインタビューっておもしろいなあと私も少し味をしめました。

その後、娘の高校で広報の係になったことがあり、PTA新聞を作りました。文化祭で広報が体育祭の時の写真を展示したのですが、そのときに写真を見にきた人たちを捕まえて、体育祭はどうでしたか?などと思い出や感想を聞いてみることを思いつきました。保護者・生徒で体育祭を見たときの感想や、競技に出たり応援団をやったりした生徒の体験談、感想等を聞いて、その内容を体育祭の写真とともに新聞に載せるようにしました。私は新聞の編集はしませんでしたが、そのときは生きたネタの提供ができ、それが掲載されてよかったなと思っています。いつどこで何が行なわれたという事実と筆者個人の意見は簡単に書けますが、他人や多くの人の意見感想は取材なしにはどうにもなりません。しかし、その手間をかければ必ず新鮮な収穫があります。

取材ではありませんが、スーパーのパートタイマーで共済の勧めをしていたことがあります。店内でお客さんを捕まえて「何か共済のようなものに入っていますか?」などと声をかけていくのですが、これも人々がどのような考えをしているのか、どういう共済や保険に入っているのかなどを取材しているのと同じようなものでした。
やはり声をかけるのには勇気が必要で、決められた時間、片っ端からお客さんに声をかけることを決めたからには、それを実行するわけで、内心お客さんが来なきゃいいな、などと願ったりもしました。声をかけたお客さんがことごとく断わってきても、粗品だけは気持ちよく手渡すという方法で頑張っていると、だんだん場慣れし、いつも来るお客さんなどは、共済には入らなくても無理やり加入させられるわけではないとわかると、家族が数年前に急病になったとかの身の上話などする人もあって、その仕事を通していろいろな人間模様を見ることができたと思います。

だから、他人に向って取材するということは、自分自身が考えたり想像したりするだけでは到底発見することのできないことを発見することができるので、非常に興味深いです。

しかし、そのためにはやはり「自分はどういうものであってそれを調べる必要がある」という立場が必要であるし、何よりも「何を調べるべきなのか」という課題を課してもらわなければ、自分が何を調べるべきかもわからないのです。

どこかへ行って何か調べて文章にまとめればお金がいただけるというような仕事があったら、ぜひやってみたいですね。
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久々に服を買う

2006-05-22 19:31:16 | 未分類過去
今日は久しぶりに洋服を買った。
実は昨日放送大学の帰りに、財布の中のお札が1000円札1枚となっていることに気付き、なんとかそのお札には手をつけないで電車の切符を買い、そのほかには何も買わずに帰ってきた。そして、今日コンビニで495円のお昼ご飯を買ったらもう残金が500円ほどになってしまった。
今朝、夫からお金を貰おうとしたら「俺も5000円札一枚しかない」とのことだった。そして、今夜は夜勤だから、お金を下ろして私に渡す機会はないのだそうだ。
それで、しかたなく会社の帰りに自分の給料をおろすことにしたが、そのために銀行のある方面に行ったので、そっちの大きな店で買物をすることとなった。

店に入るとどうしても様々なものに興味を惹かれ、物を買ってしまうことになる。それで2000円のスカートを1枚買った。スカートは約半額に値下げされていた。最近は2種類のスカートをとっかえひっかえ穿いているので、新しいのが欲しいと思っていたのだ。そのスカートに合いそうなカットソーも2枚買った。2枚で5000円くらいだった。

このカットソーだが、最初Lを買おうと思って持ち歩いていたものを、結局Mに変更して買ってきて、家で着てみたところ、ちょっと袖口がきつい感じがする。
う~ん、やはりLにするべきだったか!
以前、着ていると苦しくなってくる若向きのMサイズの服があったので、今度買うときはLのほうがいいと思っていたのであるが、今日の服は中年向けだったのでMでもよかろうと気を変えた。
Mはバスト79~87cmであり、Lはバスト86~95cmであった。私のバストは85cmくらいであろうから、どっちでもよさそうであり、二つのサイズを重ねてみると、Lサイズは胴回りの幅がかなり大きくなっていた。
あんまりドカンとしているのもいやだなと思い、やはりMサイズにしようと決めたのだった。
しかし、バストや胴回りはちょうどいいものの、私の場合腕が太いことは確かで、腕の太さはLサイズだったのだろう。これはちょっときちきちである。

そういえば、最近会社のトイレの鏡に映った自分の姿がやたら丸々としているような気がしていた。この間、夫と川越に行ったときの写真を見ると、いかにも栄養の行き渡ったような肥えたおばさんの姿が映っていた。
なんとかしなきゃな~。スカートはウエスト64cmで何年も変わらないのであるが、最近、腕と足が太ってきたのはかなりヤバイ。
ダイエット必要!
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時間を大切にすること

2006-05-21 21:22:34 | 放送大学
今日は家を出るのがぎりぎりになってしまったので、奥の手を使って面接授業に行った。
いつもと違う駅から電車に乗れば学習センターまで31分でいけるのだ。私鉄の鈍行と急行とJRと地下鉄を乗り継ぐために面倒で、料金は460円かかり、高いと思っていたのであるが、実はこの駅のほうが家からの距離が近く、駅前のスーパーの駐輪場に無料で自転車を置いておける。したがって駐輪代がかからないぶん、電車代が相殺される。

以前、大きい駅に出て区の駐輪場がいっぱいで、民間の駐輪場に置いたら1時間ごとに加算されて、800円も料金を取られてしまったことがあった。ここではそのような心配はない。誰かが時間を計っているわけでもないので、帰りにそのスーパーで買物をしてくればそこの駐輪場に置いたとて文句はなかろう。

この方法で行ったら、合計45分くらいで到着することができた。ならば、この方法が正道である。ただ、乗換えが多いのと、人が多くて座ることができないため、車中での勉強はほとんどできない状況だ。

面接授業はおもしろかった。今の先生の授業はしっかり準備されており、時間も正確で無駄がなく、非常にわかりやすいものである。自分自身ではけっして知ることのできない知識を正確に整然と伝授してもらえることは本当に貴重なことだ。

教授にもいろいろな方がいらっしゃるが、今まで、開始時間になってもすぐに始まらなかったり、休憩時間を15分とると言って20分も待たされたり、やっと休憩時間が終わったと思ったら、ビデオの操作がわからず延々待たされたり、あるいは、あらかじめ予定されていた大まかな授業内容が途中から横道にそれてうやむやな進行状況になったりなどしたことがある。それでも内容は満足できる貴重なものではあったから授業全体として不満に思うことはなかったが・・・。

その点、今回の先生はすばらしい。ビデオなどの操作で手間取ることはまったくないし、開始は数分前から教壇に待機し、チャイムが鳴るとともに開始し、休憩時間もちゃんと決まっていて、10分後といえばその通りにはじまる。
ここまできちっとしてもらえると、受けるほうも気が引きしまる思いである。

社会人の場合、忙しい時間を割いてきていることもあるし、会社などで来客などあった場合、けっして時間を遅らせて待たせるようなことはしないから、無駄な時間が流れることにはかなり違和感がある。
また、日本語学校の教師などはテープやビデオ教材の取り扱いがもたもたしていると、もうそれだけで学生からの評価が低くなり信頼性が下がるし、大切なお客様である学生の貴重な時間を無駄にしたことになるから、絶対に避けるべきことだ。

しかし、大学教授などの場合、機械の操作などということは重要なことではなく、それとは違う次元での価値を大切とされているのであろう。娘の大学の教授なども機械の操作がわからず時間がかかることなどしょっちゅうだという話だ。偉大なら偉大であるほど、機械の操作などはできないのがあたりまえのような傾向さえある。

しかし、やはりそのようなことも手際よくやってくださる先生は気持ちがいい。
時間を守ることと準備を怠らないことは、学習者へのまごころである。
貴重な知識を伝授していただく感謝とともに、そのような姿勢にも感服する。


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ゲームをする人しない人

2006-05-21 02:20:38 | 未分類過去
たとえば、ゲーム遊びのひとつにパチンコがあるが、うちの夫はパチンコを一切しない人間だ。本人いわく、パチンコのようなものはキライであり、絶対に損をするばかりだからやらないのだそうだ。
私もパチンコは好きではないしやる習慣もまったくない。うるさいし空気もわるそうだし変な人たちが遊んでいるというイメージがある。
のめりこんで家事もしないで子どももほったらかしにしてパチンコ屋に入り浸っている主婦もいるそうである。
何よりもそのことに打ち込んだからと言って、他の趣味のように、技術が上達するとかではないところが時間の浪費であり無意味なような気がするのである。

ところで、私の父親はパチンコが結構好きであり、また結構うまかった。昔のことだからひとつずつ玉をはじく機械だったのだが、会社が終わったあと、パチンコに行っては夜10時頃帰ってきたりするが、いつもいろいろな景品を取ってきた。
人形、カップラーメン、チョコレート、ビスケット、煙草、など半分は子どもの喜びそうなものにとりかえ、後の半分は自分の煙草や現金にしたようだ。
高校生のとき、一度父とパチンコに行ったことがあるが、そのときはダイヤル式の機械が出てきたころで、父がダイヤルを調整して私にそのままその位置を維持するようにと言い、言われたとおりにしていると、どんどん玉が穴に入って行って下から限りなく出てきた。
そのときは、ペンダントなどの景品と取り替えてきた。

父は自分の小遣いの範囲内で損をしない感じで楽しんでいたようであるが、母はパチンコにはまって毎日のように出かけていく父の行いをあまりよくは思っていなかったから、パチンコもせず、煙草も吸わない私の夫のような人間は歓迎だったと言える。

ところがである。だんだんわかってきたことに、私の夫はパチンコのみならずゲームというものが好きではない。マージャンや競馬などをしないのはいいのだが、例えばトランプなどもしたがらない。つまりは頭を使うことがキライなのであった。

私の父はトランプやダイヤモンドゲームが好きで子どものときはよく相手になって遊んでくれたのだが、どうやったら相手に勝てるか、どのカードを先に出したら有利かなどと考えて工夫を凝らすことが好きな人間であったといえる。
父はまた、競輪などにもよく行っており、金をかけたり儲けを狙ったりすると言う点であまり品のいい趣味ではないので、家族は好くは思っていなかったが、これも何がしか頭を使って予測を立てるということをするものともいえる。
父はゴルフもやるし釣りもやった。手先が器用で何でも自分で作ったり修理することもできる人間だった。

ところが、夫の場合、そういうことをいっさいしたがらないのであり、つまりは、頭を使うのも手先を使うのもキライなのであった。そして、少しでも悪い結果がでる可能性のあることには最初から挑戦しようとしない。
下手に手を出して失敗を繰り返す人間よりはいいかもしれないが、そこに一抹の物足りなさを感じるのは否めない。
そういう夫は株などにも絶対に手をださいないし、数値的なものを計算して計画を立てるということもしない人間である。車の運転もしない。ゲームもしない。パズルもしない。日曜大工もしない。

夫と知り合う前に学生の頃から付き合っていた男性がいたが、彼は一流大学の学生であった。文系の学部にいたが、高校時代は数学ができることで有名だったそうだ。
彼は、とにかくゲームが好きで、しょっちゅうゲームセンターに連れて行かれた。車を猛スピードで走らせ、対向車をよけたり追い越したりするゲームなど一緒にやらされたものであるが、パチンコ屋も一度行ったことがあった。或る日、新宿御苑に行ったとき、バックギャモンとかいう見慣れないゲーム板を持ってきて、そのルールを教えられ、芝生の上で相手をさせられたこともあった。
また将棋も好きで、千駄ヶ谷の将棋センターに付き合わされたこともあった。新聞の将棋の記事を切り取っておいて欲しいと頼まれてもいた。
そういう趣味は私にはついていけず、あまり歓迎できない趣味であったが、彼の場合はやはり頭を使うことが好きだったようだ。

当時、その人の乱暴な部分、闘争心、ゲームへのこだわり、喫煙など私にとっては好ましくなく、それに対してその後に知り合った夫は、穏やかで煙草も吸わず常に平和でクリーンな印象を受けたものだったが・・・。

ゲームにのめりこむ男と結婚したらそれはそれでいやな面があるが、ゲームを全くやりたがらない男にはそれなりの欠点があったのかということがわかったしだいだ。
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