山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

1月末日の心境

2007-01-31 23:28:41 | 未分類過去
このあいだ、1月末のことを書いたけど、きょうは、正真正銘の1月末日だ。
それで、自分で自分の給料計算をして給料請求書(?)を上司に提出してきた。
金額は8万円ちょっと。正月休みがあった割には、なんとか8万を越えた。先週の3日間にわたる2時間ずつの残業があったおかげだ。

政治家のことなんか書いていたら、なんだか気分がどろどろしてきてしまいました。
何か事件があって、それについて語り始めると、人によって感じ方も意見も違うから、事件とは無縁の人たちの人間関係までが悪くなりそうです。だから、政治のこと事件のことなどについて自分の考えを述べることはなかなか勇気がいります。意見を言うからには、反対意見を持つ人からの向かい風にも対抗するというか耐える覚悟が必要です。
けっこうパワーがいるものです。

たまにunknownという人からのコメントをいただくのですが、そのたびに以前のunknownと今度のunknownが同じ人なのか違うひとなのかも皆目わからないし、どんな人かも見当がつかないので、正体の見えない相手はちょっと緊張します。全部が同じ人というわけではないように思えますが、全部違うのかどうかもよくわかりません。

ただ、こういう人は自分の人となりを知らせたくないのであって、しかしながら、意見は述べたい、間違いは指摘したい、情報も提供しようという意志をお持ちなのだと思うので、覆面装束のような方にもあまり警戒心を持たずに応対しようとは思っています。
名を名乗る必要性を感じていないのかもしれず、単に名前を書き込むのを忘れて投稿しちゃったという場合もあるのかもしれません。

次に、ネームがあるひとは、以前と同一の人ってことは判るのですが、用件のみで言葉が短いと普段どういうことを考えているのかわからないし、年齢性別などもわからないので、やはりちょっと戸惑うのです。
しかし、複数のコメントの内容を総合したり、ネームの付け方などから、かろうじてその人の雰囲気などを感じ取ることはできます。だから最低限名前は付けてもらいたいですね。

ご自身のブログアドレスを記入してくださる方は、それを読めばどんな人かよくわかりますね。だいたいは、そのブログを毎日開くようになります。
ブログがない方もありますが、ご自身のことや近況など書いてコメントしてくださる方は、人柄もわかり親しみを感じます。

ま、今思っていることはそんなところです。
明日は放送大学の試験が3科目ありますが、勉強したくないので、こんなことをして油を売っています。

いや、いくらなんでもそろそろ取り掛かろう!
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柳沢大臣の喩えはどこから?

2007-01-31 19:43:00 | 未分類過去
柳沢厚労相が女性を「子供を産む機械」にたとえたことで、問題はどんどん強く大きくなり、この調子だと辞任しなければ収拾がつかなくなりそうな気配になってきた。
私は人が転落するのはあまり好きではない。本人にとったら大変なことだろうなと思う。
政治家などは何度転落しても、平気で返り咲いてくるので、そんな心配はしなくていいのかもしれない。
しかし、私自身は適任じゃないとされて非常勤講師の契約を更新してもらえなかったり、あなたのために迷惑をしていると同僚にどやされてパートをやめたりし、それだけでも気が変になりそうな人間なので、1人の人間が非難の的になっているようすを見るだけでも苦しい。
多くの人間が寄ってたかって人をこき下ろすのは好きじゃない。そして、被害を受けたと言って怒る人が結局は強いんだと思う。柳沢大臣は不当なことをして私腹を肥やしたとか、人を陥れたとかいうことをしているわけではないのに気の毒だななあと思うが、そう思う人は少ないようだ。

それにしても、「女性をなんで機械に喩えたてしまったのかなあ?」というのが本当に疑問なのだ。女性蔑視がどうのとかは置いといても、「いったいどんな機械を連想したんだろうな?」というのが不思議でならない。
なぜならば、ものを生産する機械というのは、だいたい大量に生産するものでしょう。
人間が子供を産むとしたら、どんなに多くたって10人くらいだし、10人産めとは思っていないだろうから、決まった数の妊娠適齢期の女性に頑張って産んでもらうしかないという意味では、今現在平均1人くらいのところを、せいぜい2~3人くらいずつ産んでもらえたらって意味だと思う。
しかし、ひとつの機械が2個や3個の製品しか産み出さないなんてことは普通ありえないわけだ。そんな2~3個のものを製造するために、ひとつの機械が存在するなんて事はありえないだろう。10個だって機械の生産としては少なすぎるだろう。

「たとえば医者の数は決まっている。限られた医者の数しかないのだから、ひとりアタマたくさんの患者をみてくれないとどうにもならない。」などということで、医者を機械に喩えるなら、それも医者に失礼で医療としても問題があるかもしれないが、そのことは置いとくとして、数字の感覚としては納得できる。
「3分間診療で1日100人づつ診察すれば~100人の医師で1か月に~」などということになり、いかにも機械がどんどんと大量に仕事を処理していくという感じがするだろう。

そもそも、子供を産むことを「機械」にたとえることに、数字感覚としてもすごく無理があるような気がするのだ。

しかし、この人が機械を連想したことは確かなんだ。
もしかして、なんか直前に機械について印象的な出来事でもあって、脳裏に何かの機械が焼きついていたのかな?などとも思う。

SF小説でも読んでいたかな?子供を産む女性が少ないことから、ひよこの人工孵化器みたいに人工子宮とかそんな装置でも空想していたのかな?などと思ってしまう。

私は昔、小学校の図工の時間に粘土の焼き物を作る授業があったのであるが、その直前にたまたま読んでいた本に、ハゲ頭のおじさんが登場していた。それが挿絵かなんかに載っていたのだったかもしれないが、その印象がどうにも消えなくて、何か作ろうとしてもそればかりが思い浮かんでしまうのだった。そして結局、ハゲ頭のオジサンの粘土作品を作ってしまった。下が器状になっていてそこが体の部分で、その上に丸いはげ頭が蓋のように載っているというものだった。それを乾燥させた後に焼いたりして何週間もかけて出来上がるわけであるが、日数がたつにつれ、なんでこんなものを作ってしまったのだろうと自分で作ったのにもかかわらず、いやな作品だった。

そのように、柳沢大臣の脳裏に何かの機械がこびりついていたのではなかろうか?
だから、喩えなくてもいいものを機械に喩えてしまったのでは?
いったいどんな機械を連想していたのかな?というのがやはり知りたいところだ。
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装置としての人間

2007-01-31 00:38:13 | 未分類過去
私は、人間を機械にたとえることには、あまり抵抗はないほうかもしれない。
実際、以前にもこのブログに自分を「性能の悪い機械だ」と書いた記憶がある。
(2005.10.14「個人の性能」)
作業効率(稼働率)が悪い。あまり働かない、ちょっと頑張るとすぐに疲れて寝てしまう。耐久力がない。だからいい機械じゃない。
いい機械だったら、会社に行って仕事もするし、おいしい料理も作るし、毎日掃除もするし、勉強もよくするだろう。
あっ、そうだ、ブログを書く機械だとすればすごくよく動く機械かもしれない。
人間の脳とコンピューターの作りはどこか似ているかもしれない。
脳は言葉を編集する機械である。私の頭は記憶蓄積編集再生装置かもしれない。

私は子供を産む機械でもあった。
子供を産むまでの段階で機械としてまず困ることは、「つわり」だ。「つわり」は子供を出産する装置を作動させるとよく起きるものだ。そのせいで、吐き気がして仕事ができなくなってしまう。
子供を生産するためには必要があって起きている「つわり」かもしれないが、仕事をする装置でもある女性にとっては仕事をやめなければならない事態にもなってしまう。
その後、どんなに順調に進んだところで、出産前後はしばらくは仕事を休まなければならない。
働く装置と産む装置を同時に作動するのはなかなか大変なことである。この二つを併用して、何の支障もなく性能よく作動する機械はそうたくさんはないだろう。
時にはスイッチを切ってエンジンを休息させるとか、いろいろとメンテナンスが必要である。
子供を産む機械としては、安産の人、難産の人、妊娠中毒症になりがちな人、出産時のいきみで痔になる人、母乳が出る人、出ない人、子育てのうまい人、下手な人、等等、妊娠中から出産後、そして育児に至るまで、それは様々な状況である。
当然産むだけで終わるわけではなく、女性は子どもを育てる性能の良い機械にもならなければならず、養育のためにお金を稼ぐ機械にもならなくてはならない場合も多く、上の子を育てながら、仕事をしながら、さらにまた下の子供を産む装置を働かせるなどして、いくつもの作業を同時に作動させるような複雑な制御装置も必要となってくるだろう。

このような過酷な働きを要求されている機械に対して、そのものが持つ「産む」という装置のみを取り上げて問題にすることは無意味だといえる。
それは機械の取り扱いを知らないということだ。どうやったらこの機械が産む機能を充分に作動させることができるのか、環境を考えて、補助装置などを設置することも必要であろう。

さらには、これらの機械が、子供を産み育てる楽しみやその存在価値を感じることができないなら、だれも生産しようとは思わないだろう。

生産したことによって苦しみが強くなったり、その生産された子供自身が夢も希望ももつことのできなさそうな世の中だったら、機械は何を生産しても生産しがいがない。

生産者は自分が生産したものが、世の中で愛され、活躍していくことを何よりも願っている。


・・・・・・・・・・・・・・・

女性のもつ「産む装置」のみに焦点をあててしまったのは、柳沢大臣の大きなミスだったと思います。
しかし、「産む装置」を女性が持っていることは確かです。
子供を産まない、生みたくない人が多い最近の世の中では、私は子供をたくさん産める体質の人や産める環境にある人が、2人とは言わず5人くらい産むのもありかなと思っています。
仕事をしたい人は仕事をして、子供が好きな人は産まない人の分くらいよけいに子供を産むというのでもいいのかもしれません。
でも、実際には産みたいのに産めない環境というのが原因していることも多いと思うので、社会環境を改善しなければいけないと思います

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あのう、辻本さん・・・

2007-01-30 19:57:06 | 未分類過去
会社から帰ってきてテレビをつけると、昨日から問題になっている柳沢厚労相の「女性は産む機械」発言のニュースをやっていた。
国会で辻本清美議員が壇上に立ち、即刻辞職しろと言っていた。そして、「全国の女性全員を代表して辞職を要求する」とか言っていた。
ええっ!あなたはいつから「全国の女性全員の代表」になったんですか?しかも勝手になってもらっても困るんですが・・・。
現に私は「不愉快ではあるけれど辞職するほどではないのでは・・・」と昨日から書いているんですよ!少なくとも私は辞職を要求してはいませんよ。

こういう発言は問題にはならないんでしょうかね?
多くの女性を集めて多数決をとると、圧倒的に辞職賛成なのかな~
でも、彼女は当然そんな統計など根拠のあるものに基づいて言っているわけでもないでしょう。
何よりも、辻本さんを女性の代表にはしたくない感じがするな~

野党の人は、役についている人の足をなんとか引っ張って引きずりおろそうとする。実際に女性をどうのなんていうことよりも、単に現政府に関わるものを失墜させ、自分たちが中心になりたいだけのような気がする。だから、人の言葉尻をつかんでここぞとばかりに責め立てるのだ。
まず、ひきずりおろす材料を探していて、恰好のものを見つけるとそれを材料に攻撃するだけである。姑が嫁をいじめようと常日頃から思っていて、何か落ち度がないかと探していて、たまたま小さいミスでも起こせば、それを100倍にもして大騒ぎし、ついには息子と離婚させるまでしてしまう。そんなのと大差はない。
「私は女性全員の代表、そして男性のみなさん(野党の男性議員)も賛同するでしょう」というような発言と、勝ち誇ったような大きな態度に好感は持てない。まあ、それが野党の役割っていえばそれまでだけど。

柳沢厚労相には、少子化に取り組む大臣として充分反省し、産めよ増やせよという数字の増加のみではない血の通った対策をするよう、まず自分自身を改善し、この役にふさわしい働きをしてもらいたいものだ。

しかし、このことにコメントしていた木村太郎氏は、「産めよ増やせよ地に満ちよなど何十年も前のような考え方はおかしいし、夫婦に対してどれだけ子供を産めなどと介入すること自体とんでもないことだ」というようなことを言っていた。「機械にたとえることよりも、むしろ個人や家庭に、政府がそういう指図をすることが非人道的なことなので、こんな感覚の狂った人は即刻辞任すべきだ。少子化対策に携るのに全くふさわしくない人間だ」との事だった。

そうか、こういう人はもう変わりようがないのかなあ?反省して改善するなんてことはありえないのかなあ?

最近、様々なことで、いろんな人が辞職していく。どうやら、ふさわしくない人間ばかりのようだ。ふさわしい人間なんてどこにもいないんじゃないのかなと思えてきたりする。


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比喩には要注意!

2007-01-29 23:54:00 | 未分類過去
柳沢厚労相が「女性は子供を産む機械・装置」というような発言をして、世の中の批判の的となっている。
確かに気分のいい喩えではない。なんか気味が悪くさえなってくる。機械というのは自然に何かを生み出すことはなく、決まった原料などを仕組んだのちに、一通りの作業を経ると最終的に物が製造完成されて出てくるというものである。そしてその機械は同じ工程を繰り返し同じものが生産されるのが普通である。そのような無味乾燥的というか、愛も夢もないような、とにかく人間を生産して人口を増やせみたいな感じがして非常にいやである。

ところで、この発言に対して辞職をしろという声も多々出ているようだ。女性議員なども皆怒っている。う~ん、確かにこの発言は不適切で人格を疑ってしまうようなものだ。
でも、辞職をするほどのことかな?と思う。別に法律を犯したわけでもないし、不正なことをしたわけでもない。誰かが損害をこうむったわけでもないだろう。そして、実際にこの人はこの言葉ほどに女性をただの機械だと思いそのように普段から扱っているかどうかは、わからない。本人が言うには、普段生産とかそういう分野のことばかりにかかわっているので、ついそのような喩えをしてしまったと言っていた。機械にたとえたからと言って、女性や赤ちゃんの人格を認めないというわけではなく、それはそれとして、人口という数字について、機械を思い描いてしまったというのは、判らなくはないような気がする。

しかし、受け取る人間の心象には十分注意しなければならないだろう。

高校1年のときだったか、現代国語の授業で「言葉」についてグループでまとめて発表するという課題がでた。
教科書には大野晋の「日本語の年輪」が載っていたが、それを機に言葉について考えようということだった。私は「言葉の魔術」という本を読んでまとめた。同じグループの男子はサボっていて全部任せるからやっといてと言ってきた。

そのとき私が「比喩」についてまとめた部分で、例としてあげたいくつかの言葉の中に「ガイコツのような人」というのがあった。まあ、「やせ細ったひと」という意味である。
しかし、全部任せたと言っていた男子がそこを見て、気もちが悪いから変えろというのだ。
そうかな~と思ったが、その男子は「犬のような人」がいいと言った。
「犬のような人」っていうのはどんな人だかよくわからないから、けっしていい例ではないが、一応言われたとおりに変えた。
「ガイコツ」の喩えがいやな人がいるなんて、私には思いもよらなかった。

だが、「犬のような人」っていうのは、中国人には絶対に言ってはいけない比喩だと数年前に初めて聞いた。人づてに聞いた話なので詳しいことはよくわからないが、「中国語を話す犬を見たことがありますか?」などという例文を中国の日本語の授業で使った日本人教師がいたそうである。
そうしたら、中国人の学生たちがそれを印刷したプリントをびりびりに破いて捨て怒って教室を出て行ったとかいうことだ。中国人にとって犬は侮蔑すべきものなのだそうだ。
それで「中国語を話す犬」というのは中国人を蔑視している極度な表現に値するのだそうだ。

だから、中国人に「犬のような人」などと言うのはさけたほうがいいだろう。もちろん中国人と一言で言ってもいろいろな人がいるから一概には言えないが、問題となり得るものはやめたほうがいい。

その日本語の先生は、当座は何が起こったのかわからなかったが、その後ワケを知り必死に謝ってなんとか許してもらったらしい。とても大変なことだったそうだ。

そのときのプリントには「空から宇宙人がおりて来たのを見たことがありますか」など、あり得ないことを書いていたらしい。日本人にとってはどっちも単にあり得ないことの例にすぎず、特別な意味はない。日本語を話す犬でもゴリラでも一向にかまわないわけだった。

日本人にとって犬は「いやしい」とか「がっついている」というような悪いイメージもなくはないが、パンダなどと変わらず「かわいい動物」というイメージが強い。

うちの次女が2歳くらいのとき、長女の幼稚園の送り迎えにいつもくっついて行っていたが、そこで長女の同級生の男の子のお母さんが、次女を見るたびに「かわいいわね。柴犬の子犬みたい」と言っていた。
ほんとうにそうだった。どうしたって、ころころしていて子犬のようである。しかし、その種類はマルチーズやパピヨンなどではなく、まさしく「柴犬」だ。親の私もそう思い、そのように言われてけっしていやな気はせず、嬉しい気分だった。
私がもともと犬好きというのもあるが、うちの子が柴犬の子犬にしかないかわいらしさと共通するものを持っていたということだ。

でも、こういうことを中国の人に言ったら大変かもしれないし、日本人でも「なんでうちの子が犬なの!」と怒る人もいるかもしれない。

比喩には要注意ですね。
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「日本語基礎A」試験修了

2007-01-28 18:44:22 | 放送大学
「PTSD」とは、悲惨な事故や自然災害などに遭遇した時に大きなショックを受け、その心の傷が消えず日常生活に支障をきたすような状況になっているときなどによく使われる言葉だ。日本語では「心的外傷後ストレス障害」というそうだ。
私の場合は日本語学校に関する出来事から日本語に関係したことに関われない異常な心境になっているところが「PTSD」に似ていると思える。
しかしそれは「単なるトラウマ」か「嫌な思い出」くらいのものであろう。人から行動や人格を否定されたなどということは心的外傷とは言わないのかもしれない。調べてみると虐待などを受けたことによる心の後遺症もPTSDに入るそうであるが、殴られて受けた体の傷が癒えてもなお心の傷が残っていておびえるというような、やはりはっきりした身体的危機のようなものがあるのが、一般に言われている「PTSD」のようだ。
身に危険があったわけでもなく、思い出したくもない辛い記憶などというものを持っている人はたくさんいるはずだし、私自身それを思い出したところで、多少心臓がドキドキすることはあるものの、それで日常の健康状態に支障があるわけではない。延々と恨みつらみを書けるということは、心が健全ではないにしても、むしろ元気だということだろう。

しかし、やはり「みかんの皮」は異様に嫌いだ。あまり見たくない。みかんの皮のせいでクビになったような気さえする。食べたくもない。
また、3度の学校をやめたときの心の傷はだんだん年月とともに浸潤してきて、日本語学校のみならずボランティアで教えるのもいやになり、ついには日本語関係の教科書を開くことさえ恐ろしい状況になっていて、やはり精神的にかなりおかしいと思う。
そのほかにも日本語を教えるのに付随したことで、ここには書けないような様々な望ましくない出来事があるのだが、そのことから、どんな中国人(厳密には他の国籍の外国人でも)からの電話にも出ることができないという精神状況でもある。用件を聞くのが怖くて留守電が入っていても返信できないで無視してしまう。そして中国語を勉強するのも困難な精神状況になっている。今まで好きだった飲物を飲もうとしているのに、なぜかどうしても飲み込むことができないというような感じだ。

それがどの事件から始まってどこで加速がつき、どこまで浸潤してこうなっているのか、今後どうなるのか、回復するのかそのままなのかさらにひどくなるのかさえわからない。

とりあえず、放送大学の「日本語基礎」の試験を受けるのは大丈夫だった。
結局、1度も勉強する事なく、会場に行く途中の電車の中で教科書をぱらぱらと見ただけだった。もう何年もかかわっていないので忘れているかと思い、いくらなんでも全く勉強しないで受けるのはまずいのではと不安になったが、幸い解答に困ることはなかった。
思うにかなり簡単な問題で、他の受験者も15分くらいで終わってしまって退場できる30分経過後には全員が席を立っていたようだ。50分の試験時間でマークシートの択一式問題12問ってあまりにも少なすぎるんじゃないだろうか?

これで、2単位は取れるということで、今回日本語を履修した目的は達成した。

この科目が済んで精神的にもすっきりしたところで、日本語学校のことは忘れ、他の科目の勉強にはげもうと思う。
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慣れない土地柄・店柄

2007-01-28 02:10:12 | 未分類過去
きょうは、また木曜日と同じようなことをしていた。
4時頃寝て、一旦7時に起き、娘をバイトに送り出したあと、11時半まで寝ていた。
そして、レトルトカレーを食べて、夕方になってから、この間買えなかったウサギの干草を買いに行った。
そのついでにぺットショップの方面にあるスーパーに行ってみた。
このスーパーは友人などには安いという評判だが、私自身はいつもはあまり向わない方向なので、わざわざそっちに行くことがない。

ペットショップからそこに向う途中、行き慣れない道に迷い込んでしまった。だいたいの方向はわかっているので、別に問題はないのだが、おどろいたのは、道路上に洗濯物干しが並び洗濯物が干してあるのである。
そこは、私道かもしれないが、車1台が通れるくらいの幅で、自転車も人間も自由に行き交う道なのだが、アパートの玄関前の道路の反対側に物干し台が並んでいるのだった。それはそのアパートの住人が洗濯物を干すためのものに違いなく、その道沿いには同じ部類の木造2階建てアパートが何件かあるのだが、そのように物干しを置いているアパートが多く、それが当たりまえのような雰囲気なのである。玄関ドアが道路にぎりぎりの状態だから、アパート側に置くことはできないので、道路の反対側においているらしい。反対側には家などがなく公有地が柵に囲まれている状態なのでそういうことができる。そして、物干しには男性物の下着や服などが干してあった。道路の私物化であり、さらにそれが洗濯物というのは全く驚きだ。
そういえば、別の場所で天気のいい日に広い車道の脇の公園に面した歩道の柵に布団が何枚も干してあるのを見たことがある。いったいどこから運んできたんだと思う。ホームレスのものではなく立派なきれいな布団である。思うに高層マンションなどができて日当たりが悪くなった一戸建ての住人が、いちいち日の当たるところまで運んできて干しているようだった。道路を歩いて運んでくるとはすごい根性だなと思った。

スーパーに行ってみると、また驚いたことに、商品の陳列棚の上に商品の入ったダンボール箱がいくつも重なってのせられていた。洗剤などの入ったダンボールもあり、地震が来たら落ちてきて埋もれてしまう。頭にぶつかれば首の骨を折るなどの重傷を負い、命に関わる。地震でなくても危ない感じがする。このようなところで毎日危険を感じながら買物をするのはイヤだな~と思ってしまった。
レジ袋は有料でレジで会計を済ませる前に商品と一緒に籠にいれて買わなければならない。
何年か前、この店に初めて行ったとき、そんなことを知らず、会計を済ませた後で袋がないことに気付きどこで買うのか聞いたところ、もう一度レジの列に並ばなくては買えないとのことでとても不便だった。今回はそれを知っているのでマイ袋を持って行ったが、いつものスーパーでは袋がない場合は、サッカー台のところで自由に5円入れて袋をもらうというセルフ購入になっているため、どうもこの店のやり方は気に食わない。
ふと見ると、ドライアイスが1個25円で自動販売機で売っていた。
私がいつも買っている大手のスーパーでは、レジ袋もドライアイスも無料だし、棚もすっきりとしてダンボールなどはない。そういうところに慣れていると、こういうのは何か殺伐とした感じがして落ち着かなかった。
海苔を店中探し続け、乾物と書いた列をじっくりと見たが見つからなかったので、立ち話をしている品だし中のパートのおばさんに聞くと、隣のカレー・シチューと書いた列にあったのも気に入らなかった。こんな店では絶対に働きたくないな。第一危ないしね。

慣れてしまえば普通になるのかもしれないが、今後もこの店に行く気にはなれない。
やはりいつも行く街のいつも買っている店がいいなあと思ったしだいだ。
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這い上がれない

2007-01-27 16:01:56 | 未分類過去
崖から転落した人間が、どうやってその絶壁を登っていくかだ。

格差社会について、他の人のブログを読んでいたら、「格差があるのはあたりまえ、その人の能力があるかないかできまる。能力のない人が、ある人の生活をうらやましく思うのがそもそもの間違い」という意見があった。
厳しい意見だが、確かにそうではある。
崖下にいる人間は崖の上の人間をうらやましく思ったり、そこに自分も登りたいなどと考えないほうが精神衛生上いいのかもしれない。べつに崖下で暮らせないことはなく、それなりに楽しく暮らせるからだ。

でも、子供には高等教育を受けさせたいし、本人が習いたいこともさせてやりたい。将来は収入の得られる職業に就かせ、ゆとりのある住まいに住んでファッションを楽しんだり趣味や旅行を楽しんだりもできるような状況に持っていきたいと思うのが親として普通ではないだろうか。

しかし、親に財力がなければ、子供にそういう機会を与えてやることもできない。

朝まで生テレビで、地方と都会の教育格差のこともやっていた。今は公立がだめになっている。私立の学校には入ればいい教育が受けられるが公立ではそれが望めない。そこで私立に行かせられるかどうかという財力の違いが影響してくる。また、地方の公立校をでて何とか都会の大学にはいり、都会で就職したとしても、都会で家を購入したらローンに追われるばかりで、食べ物も切り詰めなければならない。

なんで、うちが貧乏になっているかといえば、私も夫も地方出身であり、東京に出てきてからは家賃をはらって生活し貯金もあまりたまらなかった。夫は父が早く死に母子家庭だったから家に財産もなかった。たまたま会社の経営状況と夫の年齢の関係でリストラされた。私は結婚と共に仕事をやめてしまったから、その後はパートタイマーで単純労働しかできなかった。
日本語教師の養成講座に通い非常勤講師になったが、これも非正社員だった。当然常勤との格差は歴然であり、持ち授業数も生徒の数によって安定せず定収入が得られなかった。安定した授業数を受け持っていたとしても夏休みなどは収入がゼロになるという状況だった。
他の学校に転職しても非常勤講師としては単期間で実績(授業の成果)を上げなければならない状況で、慣れない環境において、校風を把握し学生や教員とうまくやっていくのは難しかった。学校にいる時間が常勤より短いため勤務上必要な情報も少なく、学生と共に過ごす時間も短い分、学生の信頼を得るのにもハンデがある。ちょっとした失敗があると、次期に挽回するというチャンスは与えられず他の新しい講師を雇うというのが日本語学校のやり方だった。
だから失敗を踏まえながら成長するという機会が与えられず、失敗を生かしてチャレンジするためには他の学校に新たに採用されるしかない。次の学校が決まるまで失業状態になり、転職した学校ではまた違う校風、違う方針、違う勤務体制で、慣れるだけでも一苦労だった。
そのうちもう金銭的に持たなくなったから日本語教師を続けるのは無理だった。授業のない曜日にスーパーでのパートを入れダブルワークをしていたが、曜日が規定されてしまうので、学期の変わり目に次の授業担当を決定されるとき、他の曜日に入ってくれないかといわれても急にスーパーのほうを変更にすることなどはできない。そうなると、いつでも入れますという生活に困らずに働いている人のほうが授業が持てるのだった。安価でヤル気満々の日本語をただでも教えたいというようなボランティア精神の満ち満ちた人がいいわけだ。

常勤講師が受け持ちのない時間帯に学校内で教案をつくって給料をもらっていても、非常勤は自宅で教案を書いたりする。家で予習をするために学生に聞かせるテープをダビングしたりするのにも夜遅くまで学校に残っていたりしなければならないが、それは勤務時間外だ。もしそういうことに時間を使いたくないならテープを自腹で買うということになる。
1コマ45分の授業を2000円で受けたとしても、それ以外に仕事のための作業を時給に換算したら500円くらいだろう。日本語教師では食べて行けないというのはよく言われていることであるが、その実態は自分が職に就いて初めてわかったことだ。
それでもカリスマ教師なら、いい授業をしてたくさんのコマ数を持ち、そして常勤へと昇格していうこともありうるが、そんなのはまれだ。
一方、常勤で採用された若い講師は、安定した勤務をしながらスキルを着実に上げていく。最近では、日本語教育学科の大学院などを出ている場合が多い。

一旦社会人になった後に、養成講座受講、日本語教育能力試験合格で非常勤講師になる人には転職組や主婦が多い。
しかし、非正社員は即戦力であり、単期間のうちに実力を発揮してみせなければ、すぐに首きりである。また、学校の都合によって自由自在に人員を削減する。

そんなことに翻弄されて、何年たったか?
這い上がろうとしては転落、這い上がろうとしては転落。

だから、もう這い上がろうとしないほうがいいのかもしれない。

夫はもう55歳で正社員はあきらめている。そして、ダブルワークをする気もない。不規則な勤務なので確かに他の仕事を入れるのは難しい。そして、350万くらいの年収に甘んじている。そこから社会保険や税金が引かれる。
夫と私の収入を合わせて450万円。
私立大学と専門学校の二人の子供の学費が今年は年間200万以上かかる。
奨学金を借りればいいという人がいる。借りたものは返さなくきゃならない。うちの子は親と同様にアパートを借りて自活していくのだ。給料はあまるほどないはずだ。だから奨学金は借りたくない。夫も奨学金を返していたのだ。
代々同じことのくりかえしだ。
そして、年間家賃が100万。それでもう300万終りだ。
残り150万を4人で分け合って食べて行くのは不可能だから、貯金を崩し、子どももバイトに明け暮れている。

でも、生活保護世帯ではない。
生活保護じゃなきゃいいのか?
そうじゃないような気がする。

でも、すべては自分が悪い。

おなじ短大を出た友人は未婚で、ずっと正規に働いてきた。公務員でボーナスだけでも300万くらいもらっているらしいから、年収はうちの夫の倍以上ありそうだ。ひとりではありあまってしまいそうだ。
学生のときは同じような頭の程度だったし、勉強や仕事など別段やる気のあるひとでもなかったが、特に結婚したいと思える相手も見つからず、気がついたら独身を通して仕事に生きていたようだ。子供好きで、家事もよくする人で、それを発揮する場面がなかったのはちょっと惜しいが、結果としてキャリアウーマンになっていたということだ。

家事が嫌いで子供も好きでもないのに、私は仕事を捨てて家庭に入った。
それで今ではまともな仕事にも就けないが、貧乏でも、結婚して子供をもうけ、家族がいたのはよかったかもしれないとは思う。
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朝まで生テレビ「格差社会」

2007-01-27 14:44:12 | 未分類過去
昨夜から今朝にかけ、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」を見ていた。
ちょうど夫が夜勤で、テレビの前に寝ていなかったからだ。
テーマが「格差社会」についてだったので、興味があった。
まあ、パネリストたちがごちゃごちゃ意見を述べていて、結局はこれといった解決策もなく、自分としての結論は、政府や社会に頼っていてもしかたがない、自分で勝ち組に転じるように頑張るしかない、というものだった。
こんなことで徹夜なんかしていて、また貴重な時間を浪費してしまったが、まあ、なんで社会がこうなって、いまどういう状況になっているのかというのは、以前よりはわかってきた。
つまり、
・バブルがはじけて、会社が存続するためにリストラなどを行い、正社員を減らした。最近景気が回復し雇用を増やしてはいるが、以前に比べると正社員は少ない。失業率が減ったとはいえ、それは、食べていくために条件を選ばずに職に就く状況になっているからともいえる。
・年功序列・終身雇用の形態が変わってきた。会社の経費で若者を教育し、会社に貢献できる人材に育成し、貢献した後には、老後になるまでを補償するようなことを会社がしなくなってきた。
・派遣や契約社員の場合は、特に継続的な教育や上達が望めない状況にあるため、長年仕事に携ったとしても、あまりスキルが身についていないという状況もある。そのため、中途採用で正社員として条件の良い職業に就くことは難しい。
・同じ内容、同じ勤務時間で働いているパートや派遣は正社員と同じ給料をもらえるようにしなければいけないという法案が出ていて、確かにそれは必要なことといえるが、なかなか難しい面もある。そして、実際にはそれに該当する人は少ないので、全国の非正社員を救うことにはならない。また、低賃金だからこそ経営がなりたっているのであり、非正社員の給料を上げたら、実際には経営して行けない会社も多い。
・パートの仕事を正社員の待遇に近づけるというのは必ずしも多くの人間に望まれていることではない。短時間軽労働で無理なく働きたいという主婦も多く、パート自らが反対することも多い。自分で厚生年金を払わず、夫の扶養家族でいたいと願う主婦が多い。そうなると、年金制度や税金制度も変えていく必要がある。
・正社員には所得も多いが過労の人もいて、給料は減ってももう少し楽になりたいという人もいる。その場合、正社員の仕事を軽くし、非正社員の待遇を正社員に近くしていけば、仕事に関する偏重がなくなり、正社員ももうすこし楽になる。

番組をふりかえって、思い浮かんだことを書いてみたが、感想としては、正社員非正社員と言っても、様々な人がいて、状況も本人の意思も違い、それを一まとめにして論じることはできない。

私の場合は、夫が正社員でなくなってしまったこともあり、自分自身も1人前の労働者として働き、収入も得たいという状況にある。
しかし、同僚のパートタイマーは安定した高収入を得ている正社員の夫の扶養家族として十分にやっていける人も多いため、社員と同境遇などは望んでおらず、軽作業短時間で負荷のない働き方を望んでいる。
だから、同じパートでもまるで心境を共にすることはできないのであり、そういうことを踏まえてやっていかないと、パートとの人間関係にも影響してくる。

会社は非正社員から正社員への道もあるようなことを求人記事には書いているが、そもそも採用基準からして大きな違いがあり、それは学歴や能力、経験の違いでもあり、同じ職場で単純作業をしながらその差を埋めることは不可能といえる。
つまり、最初から正社員として採用されなければ同じ職場の中での正社員への転向は不可能といえる。

正社員でないものが、自費で研修を受けたり、自分個人でなんとかノウハウを身につけたりして、社員と同程度の仕事能力を身に付けることは、おそろしく困難な状況であり、そのための出費や労力は莫大である。
最初はパートでも社員と同じ内容の仕事ができる職種、ヤル気さえあれば成長できるような職種を探し、そこで働くうちに力をつけ、社員になるという方法があるかもしれない。

とにかく、誰もたよれるものではなく、自分の力でのし上がるしかないということだ。



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息抜きは「書きまくり」

2007-01-26 23:03:04 | トラックバック練習・ご意見板
そろそろトラックバック練習板の今週のお題が出ている頃だと思って、夕方から見ていたんですが、トピックスのところには「手放せないものは何ですか?」のままになっていました。
ありゃ、どうしたのかな?担当の人が忙しいのかな?と思い、ためしにそのものを開いてみたら、ちゃんと新しいお題がでていて、もういっぱいトラックバックがきていました。

それで、今週のお題は、「息抜き方法を教えてください」とのこと。
私の場合、何にもしないでぐうたら昼寝をしていることかな?とは思うのですが、

ま、それ以外にはブログを書きまくることですね。
というのも、ブログを読んだり書いたりすることというふうに書いていた人がすでに居て、私もそうだな~と思ったしだいです。
人のを読むのも好きですが、私の場合、やはり自分のを書くのにかなり時間をかけていますね。

思ったことを片っ端からつらつらと書いていれば、時のたつのも忘れ、ストレスも発散できるというものですね。

しかし、こんなことして時間をつぶしていていいのかなぁ~と時々反省します。

これは絶対に人生サボってます。

掃除、洗濯、料理。
穴だらけのふすまの張替え等々、やらなきゃいけないことがあるのにな~

一日の一部始終を書き連ねていてもぜんぜん大丈夫ですが、やはり、ほどほどにしないとだめですね。

「極道の妻たち」等を書いたノンフィクション作家、家田荘子さんのことをさっきテレビでやっていました。ヤクザの妻以外にも、エイズの人のこととか、三浦和義のことととか、取材にすごい月日をかけているんですね。家でちんたら書きたいことを書き連ねていてもだめなんだな~と思いました。

まあ、ひたすら息抜きのために書いているんで、何の調査もせず、取材もせず、ただただ頭の中に湧いてくることだけを楽して書いてるところは、道楽の域からまったく抜けられない所以だなと思います。
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ねずみの大群

2007-01-26 19:51:21 | 未分類過去
不二家の工場では、2003年1月から2006年8月までに、485匹のネズミを捕獲していたそうだ。その内訳は、03年に109匹、04年に221匹、05年に145匹、06年に10匹とのことである。とくに多かったのは04年の3月から7月まで毎月20匹以上が捕獲され、4月は最高の50匹だったそうだ。
こりゃ、かなり多い。しかし、いったいどのくらいの広さのところで、室内なのか屋外も入るのかなど、詳しいことはわからない。これがもし工場の建物内だとしたら、ネズミの出入り自由になっているか、または工場内で繁殖しているとしか思えないので、深刻な事態である。しかし、06年に10匹になっているということは、一応ひととおり対処してかなり改善されたと言えるのではないかと思う。

ネズミは以前からも書いているように、公営住宅の我が家のベランダにも出没していて、油断すると室内にも入りかねない状況だが、なんとか侵入は食い止めている。これが室内に入ってきたら気持ちが悪くてしかたがないだろう。そして、ベランダに出没しているのも1匹だけだと信じていたが、もしかしたら1匹に限らず、ねずみの家族や親戚などいたとしても、まるで不思議ではないことに気付かされた。

ネズミはどこにもいるといえる。昔日本語学校に勤めていたときは、講師の部屋においてあるお菓子などをかじったりされたために、食べ物を置かないようにという教務からのお達しが出ていた。

スーパーに勤めていたときには、売り物の米の袋をネズミがかじるという事件が発生した。
ほんのちょっとずつ穴を開けていて、米がわずかずつこぼれ落ちており、それが何袋にもなって売り物にならないからたまらない。数ある商品のうち、ネズミが一番好きなのは米のようだ。昔話などでも、米俵とねずみというのはつながりが深い。
スーパーでそんなことが起きたときは、すぐさまネズミ退治の業者を呼んで対処してもらった。ねずみが出没する店でなんか買物をする人はいなくなるだろうし、毎日のように米袋に穴を開けられては採算がとれない。業者の指示通り、まず、外からの侵入経路をすべてふさぐという形で対処したところ、ネズミはでなくなった。

ネズミが来るということは、やはり食べ物があるからだろう。うちのベランダでの経験では、ネズミはナッツが好きだったようだが、それと卵の殻を生ごみの袋から持ち出していた。卵の殻といえば、洋菓子を作る不二家にはたくさんありそうな気がする。

不二家は専門業者にねずみ退治を依頼しなかったのだろうか?

今、うちの会社では年に2回くらい土日などに「害虫駆除」というのをしている。たべものは社員の個人的なおやつくらいしかないし、ビル内に食べ物を扱っているところもないのだが、定期的にビル全体にバルサンみたいなものを噴霧するらしく、個人の食べ物撤去または封印が呼びかけられ、1日立ち入り禁止となる。その日は休日出勤などはできない。そのおかげか、ゴキブリなどは一度も見たことがない。

不二家はネズミがいるのだったら、ゴキブリなんかもいっぱいいるんじゃないかな?と思ってしまう。
生ものを扱うだけに、加熱した料理を出す飲食店以上に衛生管理をしっかりやってもらいたいものだ。
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もうすぐ単位認定試験

2007-01-26 01:10:21 | 放送大学
放送大学の単位認定試験が迫っている。私の場合28日、日曜日から始まる。
最初の試験は「日本語基礎A」である。はっきり言ってまったく勉強してない。
だから、教科書に何が書いてあるんだかも見たことがない。この科目は外国人に日本語を教える上で知っておくべきことを学ぶ科目だそうだ。課題をだしたとき、適当に答えをマークして送付すると、戻ってきたのは全問正解になっていた。以前は記述式で、面倒だから出さなかったのだが、今回の提出課題はそうではなく、非常に間単になっていた。
だからと言って試験が簡単だとは限らないが、とにかく勉強をする気になれない。

きょう、テレビでB’zの「今夜月の見える丘で」が流れた。イントロが流れた瞬間、それが何の歌かがわかった。それで、昔日本語教師をしていたとき、よくB’zの歌を聴きながら夜中に教案を書いたり授業の準備をしていたことを思い出した。
いつの間にか、B’zの歌も全然聴かなくなっていた。
それで、たまには聴きたいなと思い、今では時代遅れになっているカセットデッキを操作してみた。以前と変わりなく机の上に載っている。埃だらけでコンセントも入っていなかったので入れてみると、昔と同じように動き出した。なんと、B’zのカセットテープがそのまま入っていた。なつかしい曲が流れたが、聴き続ける気にはなれず数分で中止した。
これは、以前レンタルCDを借りてテープにダビングしたものだが、今ではもうテープなんて使っている人はいないだろう。
そして、日本語教師をやめてから夜中に机に向かうこともなくなったので、いつの間にか聴くこともなくなっていたのだ。最後に聴いたのはいつだったのか?今の仕事に転職してからも2年たつから、それ以前から放置していたことは確かなようだ。

日本語を教えるのがいやになった。日本語を勉強するのもいやだ。それと同時にその当時に好きだった音楽も聴き続けられない人間になった。なんだか絶対に精神病だと思う。

単位認定試験は勉強しないで受けるつもりだ。
日本語はもうどうなろうとかまわない。

それ以外にも、全然はかどらない科目ばかり。博物館関係は読み始めても集中できずアタマにはいらなくて困っている。こうなったら、もう切羽詰って一夜漬けでやるしかない。前夜になればいやがおうでもやらなきゃいけない心境になるだろう。

落ちたら落ちたでかまわない。卒業できなかったらやり直す。それだけのことだ。


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1月末

2007-01-25 22:47:59 | 未分類過去
今は、1月末だ。
先日、仕事をしていて落とし穴があった。それは、仕事の期限を見たときに、「1月末」と書いてあったのを見て、1月31日だ、と勝手に思いこんでいたのだった。
だから、先週の時点で翌々週まである、というか、少なくとも今週いっぱいは余裕があるのだろうと思っていた。ところが、なんだか仕事をせかす雰囲気が充満しているので再確認したところ、今週中には完全に仕事が完了していなければならないから、私の仕事は週初めに消化しなければいけないのだった。それならば、先週のうちに残業をしておくべきだったが、先週は全く考えずに今週に持ち越してしまい、さらに他の部署の人に応援を頼めばいいやと思ったら、逆にその人が休んでその人の仕事までが入ってきて、どんどんずれ込んでしまった。火曜までにはできそうだと言ったものの、残業をしても水曜日までかかってしまった。
そもそも1月末と1月31日は違う、ということを意識していなかったのが間違いだった。

ところで、もう1月末だが、ちょっとびっくりおどろき嬉しかったことがある。それは、年末に買った仏壇の切花が意外にも長持ちしてくれたことであり、1束ごと1月半ばまでしっかりしていた。その後枯れてきた花を捨てたが、最後に白い菊だけはぴんぴんしていて、それを1輪ざしにしていた。その菊が今日になって、いよいよちょっと元気が衰え花びらが乱れてきたので、片付けることにしたが、4週間も長持ちしたのはほんとうに驚きだ。土から生えていてもそんなに長くは咲いていないのではなかろうかと思う。思えば、年末になるべく安く済ませられないかなどと歩き回って、しかたなく800円を出して買ったような仏花だった。結局はお買い得だったなと思う。「貧乏なのに花を買ってくれてありがとう」と、天国の義母が喜んで花を長持ちさせてくれたのではないかと思うほどである。

もう1月も終りで、我が家も世の中も正月のなごりがなくなったわけだが、別件で驚くことがある。それは近所でお正月の飾りを未だに玄関に飾っている家があることである。玄関リースなら冬中、飾りのようにつけているお宅もあるが、昔ながらの純日本風の正月飾りだから、どう考えてもおかしい。7日すぎても片付けていないので、あれっと思って、「15日までつけておくつもりなのかこの家は」と思っていたのだが、それもとうに過ぎてしまった。
このお宅は、数年前までは自営業をしていて非常に大きな立派なお飾りをつけていたが、最近羽振りが悪いのか、引退して年金生活になったのか、車のお飾りのような小さなものをつけるようになった。昨年などは本当に「交通安全」と書いてあったように記憶している。今年は「交通安全」とは書いてないが、本当に小さい自転車にもつけられそうなコンパクトなものである。それがまだぶら下がっていて、風の強い日にはピラピラと風に翻ったりしている。「1月いっぱいつけているつもりなのか?このお宅は」と思いながら、いつもその前を歩いているが、忘れているのかな?気にならないのかな?と、こっちは気になって仕方がない。留守にしているわけでもなく、生活している様子ではある。

2007年ももうすぐ1ヶ月が終ろうとしている。気づかずに時がどんどん過ぎる。有意義に時を過ごしたいものだ。
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ヤル気なし

2007-01-25 18:51:57 | 未分類過去
どうして自宅にいるとヤル気がなくなるのか、ほんとうに不思議だ。
きょうは、遅い朝ごはんを食べたあと再び寝て、起きたら2時半だった。
夫は腹が減ったと言ってカップラーメンを勝手に食べていた。
私もおきると納豆でご飯を食べた。
その後、近所のペットショップにウサギの餌やおもちゃやシートを買いに行ってきた。
干草が残り少なくて買いに行ったのにもかかわらず、いつも食べさせているのがなかったので買わず、関係ないものばかり買ってしまった。これでは、また土曜日にでも買いにいかなければだめである。いつもと違うメーカーでも買えばよかったかな~と思う。
帰宅すると、もうすでに5時になり、1日は終わったも同然だった。

休みの日には、どこかに買い物にでもでかけて、素敵な洋服を買ったり、おいしいものを食べたりすれば、楽しくて気分がすっきりし、ストレスの解消ができそうな気がするが、何分お金がないからそういう楽しみはできない。
たまに買いものに行っても、売り場を延々とうろうろした挙句に、結局は懐と相談して全てをあきらめ、疲れ果てて帰宅するというのが関の山だ。どうせでかけてもそんなことになるから、初めから買い物にはいかないほうがいい。
なんかつまんない人生だな~
何を楽しみに生きていったらいいんだか・・・

昨日、パソコンで求人や仕事についての情報を見ていたら、私が勤めている種の会社の正社員の給料は30代以上だったら普通500万はくだらないようだ。中年を中途採用する場合は、実務経験は絶対必要であり、実務経験なしで採用されるのは20代後半までである。このような会社で実務の補助のみをしているパートの50歳に近いおばさんなんかを正社員として雇ってくれる同業の他社はありえないだろう。
私が今2倍の時間働くとすると、時間でいえば週40時間ということになり正社員の勤務時間に達するはずだが、今の給料形態では年収は200万である。これでは新卒の新入社員より少ない。私のやっている労働は、それだけの価値しかないということだ。
給料で人間の価値がきまるわけではないはずだが、どうしてもそういうもので測ってしまう。そうすると、自信喪失に陥る。

高校3年の娘は、もう学校の授業はなく、卒業式まで暇なので、朝からみっちり働けるバイトを探している。今までのコンビニの仕事は学業の合間の土日か夜働くという形だったので、それを今月いっぱいでやめることにした。
ところが、バイトの求人に応募すると、短期ではだめだという返答が続出し、雲行きがあやしくなってきた。つまり、フリーターなど1年中いつでも働ける状況のバイトを雇うか、または学生ならば短時間の仕事に時々入るというような小遣い稼ぎをするようなタイプの働き方のバイトが主流である。これでは、毎日規則正しい生活もできないし、定収入にもならない。意外な事実に困惑気味だ。春休み中にまとまったお金を稼ごうという計画はそううまくはいかない。

大学3年の長女は今就職活動中だが、企業のセミナーやエントリーシートの作成で忙しくバイトどころではなくなっている。求人に応募するには、まずパソコンでエントリーすることが必要らしいが、その時に新しい企画案や、会社についてのイメージや、自己PRなど、それぞれの会社が指定するものをそれぞれ吟味して書く必要がある。それをしておかないと後々採用試験を受ける資格も得られないので、本命がだめだったときのことを考えて、他のいくつもの会社にもエントリーしておかなければならない。セミナーなども受付開始を待っていて、ホームページから一気に申し込みを入れないと、人気の企業はすぐ満員になってしまうのだそうだ。ということは、そういうことをしなければならない時間帯にバイトなんかを入れることはできない。毎日バイトをしなければやっていけない学生は、就職活動も人並みにできず、結果としていい会社には勤められなくなるということだろう。
その上、就職活動のために日経新聞を定期購読するなども必要となり、一人暮らしをしていると、パソコンや新聞を家族と共有することもできず、それぞれに経費がかかるために家全体の出費はかさむばかりである。

入るものが入らず、出るものばかり増えている最近、やはり私も働き方を考えなければならないところにきている。ダブルワークが必要かと思うわけだが、効率よく収入を得るのはなかなか難しい状況で、そんなことを考えても気が鬱になってくる。

暇で自宅にいるとそういうことを考えてしまうから悪いので、会社で仕事をしているときに鬱にならないのは、そういうことを考える暇がないからだろうと思う。
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積んどく状態

2007-01-25 01:42:59 | 未分類過去
私の仕事は基本的にそんなに忙しくはないので、いつも机の上に未処理の書類が積まれているということはほとんどない。
普通、たまっても3件くらいで、だいたい2日以内には無くなるといえる。

だが、今回は初めて10件くらいたまり、1日数件消化しても次々に増えるという感じで、このままでは雪だるまだ、と思うほどだった。
これらを、一刻もはやく消し去りたいと思いつつ、期限も迫っているので、残業をしてなんとか減らしていたのだが、もしはっきりした期限がなく、これがどんどん溜まっていったら、「積んどく状態」になり、それが習慣化してしまうのだろう。
溜まっていることに慣れてしまうと、もうどうでもよくなって溜まっているのが普通の状態になってしまうのかもしれない。

よくお役所などでは、「積んどく課」などと言われることがあるが、定刻勤務で時間内だけ働いて、その範囲でできる仕事だけをしていたら結局はそうなるだろう。

以前社会保険庁で年金に関する電話応対の仕事をしていたことがある。以前も書いたことがあるが、年金所得からの扶養控除額を計算するために、年金受給者に対して扶養親族申告書というのを送り、記入して送り返してもらうのである。

そこで、よく問い合わせがあるのが、「本人がすでに亡くなっているのにこのはがきが届いた、どうなっているのか?」というものだった。亡くなってすぐならば入れ違いになっている場合もあるのだが、春頃に亡くなっているのにもかかわらずこのはがきが11月ごろに届いて家族が驚いていたりする。

中には、役所に死亡届を出したので、それでいいと思い、最寄の社会保険事務所には届けていなかったという人もいる。そういう場合は、いちいち役所から連絡はいかないから、社会保険のほうでは生きていることになっていて、年金も振り込まれ続けている。そういう人には社会保険事務所のほうにも手続きをするように言い、死後に支払われた年金は返金してもらうことになる。

しかし、中にはちゃんと手続きをしたのに、それが反映されていないというケースがあった。それで、当人の住む地方の社会保険事務所に、社会保険庁から問い合わせてみると、確かに死亡の手続きはされているとのことだった。

しかし、その書類は何ヶ月も積んどかれていたらしい。亡くなった方の家族から手続きは出されていたが事務処理がされていなかったのだ。
本当に「積んどく課」ってのはあるんだな~と思ったりした。

何事も山のようにたまらないうちに手を打っておこう。
皿洗い、掃除、勉強も、溜めずにこまめにやっておくことが大切だ。
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