山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

シンポジウムとアンケート

2007-10-30 00:25:39 | 未分類過去
昨日は肝心なシンポジウムの内容について書きませんでした。
いったい、何をやってるんだか。
私にとっては、門の問題が一番印象に残ったことだったのでしょうか?
また、変なことに、プログラムにアンケート用紙が挟まっていたのですが、その存在に全然気がつかなかったのです。

挟まっていた数枚のパンフレットやリーフレットなどには全部目を通し、はさんだままだと邪魔なので、カバンの中に入れ、プログラムだけ手に持って講演を聞いていました。
帰る時にアンケートを回収しているのを見て、あれえ?私のプログラムにはアンケート用紙なんか入ってなかったな~と思い、なんでわたしだけ入ってないの?といじけ気味に帰ってきたのです。

だいたい、こういうシンポジウムなどはアンケートが入っていることが多いのですが、めずらしくそういうものがないなあと講演の途中で思ったりしていました。
左右の人がアンケート用紙に何かを記入しているところでも見ていれば、それがあることに気がつき、探してみたりしたのでしょうが、たまたま近くの人がいずれも書かない主義の人だったようです。

それで、回収しているのを横目に見つつ「これはてっきり入れそこなったセットに当たってしまったのだな、今日は何から何まで運が悪いなあ」と思いながら帰宅し、その後、カバンの中のパンフレットを引っ張り出してみると、なななんとアンケート用紙がちゃんと入っていたじゃありませんか?

その白い紙は、パンフレットとは全然違う紙なので、それになぜ気がつかなかったのかまったくわかりません。考えられることは、何かのパンフレットの後にぴったりとくっついていたとしか考えられません。
しかし、パンフレットは普通裏側も印刷してあり、裏面も裏返してみると思うので、やはり不思議です。
しかも、レストランで食事が出てくるまでの間、手持ち無沙汰だったのでパンフレットを引っ張り出してひととおり見たわけです。それでも気がつかなかったのです。

守護霊(背後霊?)が意地悪してるんでしょうか?きっと隠していたんですね。

昨日重なった不運は、結局自分が原因のようですね。

それにしても、ちゃんとアンケート用紙が入っている場合は、「そんなもん、めんどうくさいな~」と自分の意志で出さないこともあるくせに、入っていないと、「何で入ってないんだ~」と、くやしく思うのは変な心理ですね。

あっ、また肝心なシンポジウムの内容を書かなかった!

(写真は、シンポジウムの行われた東京国立博物館平成館です。
そういえば、デジカメで写真を撮ろうとしたら、“カードがありません”だって。あっ、そうだ、パソコンにさしこんだままだった!ばか。しかたなく携帯で撮りました。)



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石橋は叩かないで渡るべし

2007-10-29 01:05:43 | 未分類過去
今日は、東京国立博物館に行ってきました。
東京国立博物館では今、「大徳川展」をやっていて、とても混んでいますが、それとは関係なく、「文化財の保護と修復」についてのシンポジウムを聞きにいったのです。
このシンポジウムはあらかじめ申し込み制で参加証のはがきが送られていました。
時間は長く、10時から5時までです。

上野駅には開演の15分前くらいに着き、充分余裕があると思っていました。
上野公園の中を通って10分前には国立博物館の前に着きました。はがきには西門からはいるようにと指示されていたので、近くに西門を探しましたが、見当たりません。正門の入り口で誘導している係の人に聞くと、さらに進んで芸大のほうまで行ったところの信号を右に曲がると西門があるとのことでした。

これは、予想外です。芸大までも結構距離があり途中から走り始めましたが、その交差点を曲がったあともまだまだ距離があり、そこも走って、ぎりぎり開演数秒前に座席に着いたという状況です。

もう、国立博物館ってすごく広いんですね。

入るときは建物(平成館)の端の入り口から入ったのですが、昼休みの説明では、入ってきたほうは使わず建物の正面から出るようにとのことで、再び入るときは、はがきを見せれば入れるとのことでした。建物の正面出入り口から出ると、敷地内をななめに進めるので意外に正門までの距離はありませんでした。

博物館内(東洋館にあるレストラン)でお昼を食べようと思ったのですが、行ってみるとレストランはすごく混んでいて、並んで待っている人もとても多く、かなり待ちそうな雰囲気です。昼休み中には無理かもしれません。それで、敷地の外に出て別のところで食べることにしました。

正門を出ようとすると、「再入場はできません」と書いてあります。
はがきを見せれば入れるというのは、門のことではないのかと不安になり、門のところにいる係の人に「外に出てもはがきを見せれば入れるんですよね」と聞いてみました。

すると、ここからは入れないとのこと、入るときは西門からなのだそうです。
あれ~?言ってることが違うのでは?と思い、中の説明では確か正門から出入りするようにと言っていましたが・・・ともう一度言ってみましたが、やはり同じ返事でした。

ええ~っ、またあっちまで歩くのか~?!!!
と思いましたが、外に出なければ食べられないので外に出ました。

公園内の食べ物の販売車にも人の行列ができています。西門のほうに比較的近い東京都美術館のレストランに行ってみました。そこは、やはり何人も並んではいましたが、博物館ほどではなく、5~6分で順番がきました。オムライスを頼み10分間くらいでパクパク食べて出てきました。

中の人は正門を使えと言い、正門の人は西門を使えと言う。
もし、遠い西門に行ったものの、万が一入れなかったら、また正門にもどってこなければなりません。
また走るのはいやだし、そんなことになったら完全遅刻なので、かなり早めに西門に向かいました。

西門を入ると、ひと気がなく、守衛さんが私を初めてきた人のように迎えて案内してくれるので、昼休みに出ただけだからと伝え、正門からは入れないそうなので、と言うと、
なんと、正門から入れるのだそうです。
というか、案の定という気もしました。

最初はまだ連絡がついていなかったが、その後にはちゃんと連絡がついていたのだそうです。

なんなんだ!

たぶん、確認しないで出てしまえば、食後そのまま正門に戻り、他の人もそうしていたので、難なく正門から入れたはずでした。
そうすれば、はがきで常設展を無料で見ることもできたので、その時間もとれたでしょう。

そもそも、門を出るときに確認したのが間違いだったヨ。

確認のし過ぎというのも良くない結果を招くことがあるのね。

(写真は数日前の国立博物館。本館正面。平日で企画展もなかったので空いていたようです。)
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台風だったのか!

2007-10-27 21:21:22 | 未分類過去
今日も放送大学に行った。
2限が授業で、そのあと視聴学習室でビデオを2本見てきた。
授業が終わった時点で外を見ると、恐ろしいことになっていた。
来たときは風が強めの雨くらいだったのに、木の枝が吹き飛ばされそうなくらいの強風になり、雨もすごい。
あっ、これはただの雨じゃなくて台風だ!
やばいことになったぞ。

そういえば、昨日隣家のおじさんが台風が来ていると言っていた。
そういえば、テレビの天気予報で、なんだか台風の進路が描かれた画面が出ていたようだ。
でも、ぜんぜん意識してなくて内容も聞いていなかった。
出かけるときは、かなりの大降りではあったが、電車に乗り遅れそうなので、いつものように自転車を飛ばして行ったから、帰りも自転車で帰らなければならない。
ひどい時急いで帰るよりは、2時間もすれば台風が通過するかもしれない。
そんなにも速度が速いわけはないが、ちょっと期待した。

学習室に入ると、意外にたくさんの人が勉強している。
隣に人が座っていないところを見つけるのが大変なくらいだった。
やはり、土日は多いのだろう。
台風なのにこんなに来ているんだから、帰れなくなるなどという心配もなさそうだ。
しかし、さすがに5時を過ぎると人もまばらとなった。
ビデオを2本見ても、3限が終わる時間よりは早く終わった。
5時半頃、外はまだまだ台風のさなかだった。

電車は房総のほうは見合わせになっているようだった。
無事に自宅近くの駅に到着し、スーパーに行って自転車用のカッパを買った。
980円だ。
予定外の出費だがしかたがない。
とても傘をさして乗れる状況ではない。
格好がどうのこうのとも言ってられない。

あとは、夕飯の食材を買い、自転車で帰ってきた。
傘はやはり無理だったので、前髪のほうがずぶ濡れになってしまった。

そんな中で嬉しいことがあった。
スーパーの駐輪場に20台くらい自転車が駐輪してあったのだが、大部分が倒れていた。
その中で、私の自転車が倒れていなかったのだ!
偉いぞ!よく頑張ったね。
思わず自転車をほめてしまった。
詳しくは、21台中15台が無残に倒れていて、6台が無事に立っている状況だった。(ブログに書くために数えてしまいました。)

帰宅すると誰もいない。
次女は今日も午前中から専門学校があったが、いつ帰ってきたかわからない。
そして、その後バイトに行ったらしい。
夫は夜勤である。
長女もバイトか、そうでなくともこの天気では夕飯を食べには来ないだろう。
1人で適当なものを食べる。
次女は、台風が行き過ぎたころ、バイトが終わればいいかもしれない。

今のところ、まだ風雨はかなり強いようです。(21:21)

(写真はまだ風が強くない頃の画像です。)
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“24-TWENTYFOUR”

2007-10-27 10:46:31 | 未分類過去
トゥウェンティーフォー」って何だ???

2~3週間前に、会社でお昼を食べていたとき、この話になった。
いっしょに食べていた人たちが話題にし始め、もりあがっていた。
テレビドラマであることはわかったのだが、日本のものか外国のものかもわからず、さっぱり話が見えなかった。
見たことのない人も、どういうものかは知っているようで、24時間のことが24時間のドラマになっているものでしょうとか言っていた。
DVDを借りこんで熱心に見ている家族がいるとかいう人もいた。

自分が見てはいなくとも、だいたいどんなものかがわかっていれば、こういう話題にもなんとなく参加できるものの、全くどういうものかの見当もつかない者にはもうどうにもわからないまま、ただえんえんと見えない話を聞き続けるのみだ。
「それは何ですか?私には全然わかりません」などと詳しいことを質問するのも、話の腰を折られたほうは興ざめだろうから、そのままにしている。
このようなことが度々ある。

今日、ふと思い出してネットで検索してみたところ、初めてどんなものかがわかった。
「24」のシーズンⅤというのが10月になってから毎晩深夜に放送されていたようだ。
会社の人たちも実際にその時間に毎日見ている人はいなかったのかもしれないが、録画して後でまとめて見たりしていたのだろう。
すでにシーズンⅣまでは以前からあったのであり、全く新しい話題でもない。だから「常識」だったのである。

そんなものも知らないのか!と夫にもバカにされるかと思ったが、ざっとどんなものか教えてもらおうかと思い夫に聞いてみた。
すると、「そんなものは知らない」とのことだ。『そういうのが好きな人がいるんだ。そんなもの知らなくていい』と言わんばかりである。ここまで断固としていると悩みもないだろう。

知らない人もいるということはわかったが、いつもいっしょにいる人間の5人中4人が知っているというような状況だと、なかなか辛いものである。
もしかしたら、別の話題だと誰か別の1人が蚊帳の外という状況も発生しているのだろうか。だが、私ひとりが知らないという話題が多いような気がする。

世の中の人は、どこから情報を得ているのか、それが本当に不思議でならない。
そういうものは、得ようとして得られる情報ではないのかもしれないが、自然にしていて得られない人間というのは、どこか生活習慣やアンテナの張り方がおかしいのかもしれない。

これを知るためにDVDを借りるのかと言えば、それほどの関心は持てない。
どんなものかわかっただけでよしとしよう。

ところで、「24」「トゥウェンティーフォー」「TWENTYFOUR」などと入れてブログを検索すると、今日現在ではあまりヒットしない。
もうすでに話題になる時期は過ぎたということだろう。または、最初から大して話題になるような一般的なものではなかったのかもしれない。

いずれにしろ、このようにいつも人より遅いわけです。




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○○含有気体

2007-10-27 00:14:22 | 未分類過去
今日、読んだ書類に、「酸素含有気体供給装置」というものが出てきました。
この「酸素含有気体」というのは、酸素を含んだ気体だから、たぶん物をよく燃やすために送る必要があるのでしょう。
ところで、酸素含有気体って何でしょう。
もしかして、空気もそのひとつでは?
そしたら、外から中に向かって単に風を送るものでもそう言えるのでは?
しかし、単なる風=空気を送る装置にそんな言い方をするわけもないから、おそらく酸素の含有率が普通の空気よりもっと高い気体を送るんでしょうね。

自然の空気の中には窒素78%、酸素21%、アルゴン0.9パーセント、炭酸ガス0.04パーセントが含まれているようだ。
だから、空気というのは、まず、窒素含有気体であり、酸素含有気体でもあり、アルゴン含有気体でもあり、炭酸ガス含有気体でもある。

アルゴンってなんだろう?
アルゴンは、水銀灯、蛍光灯、電球、真空管等の中に封入されたりするガスらしい。無色無臭だそうだ。
毎日吸っているのに、アルゴンなんてしらなかったな。
空気みたいな人などという表現があるが、アルゴンのような人などというのもあるかもしれない。あまり存在も知られておらず、どこで役にたっているのかわからないけど、実はすごく身近で大切なはずのものなのかもしれない。

と思ったら、ウィキペディアにこんなことが書いてありました。
「アルゴンという名称は、ギリシャ語で「不活発、不活性」という意味のαργόν (argon) に由来する。「働く」という意味のεργον(ergon)にanをつけたan ergon(働かない)が語源とする説もある。また、ギリシャ語で「怠け者」という意味のargosが語源とする説もある。」
となると、アルゴンのような人といったら、怠け者のことになっちゃうようですね。

人間は酸素がないと生きて行けないので、空気の中に含まれる気体の主役といえば、酸素のような気がするが、もし空気中に酸素の含有率が多すぎると燃えすぎてしまい、まずいことになるらしい。ちょっとした静電気が引火したりすることになる。

空気といえば窒素が大部分なわけだ。
窒素は何に使われるかというと、最近のテレビドラマ「探偵ガリレオ」で出てきたのは、液体窒素だった。
ウィキペディアによると「液体窒素は 冷却剤として使用される液体で、生体組織に付着すると容易に凍傷を引き起こし、また密閉空間で急激に気化させると酸素欠乏症に陥るので慎重な取り扱いが必要である。周囲の熱を断熱することで、液体窒素は目に見えるような蒸発による損失をともなうことなく貯蔵あるいは輸送ができる。」とのこと。
だから、ドラマでは液体窒素が大量に漏れた工場の窓をすぐに開けたということだ。そうしないと、液体窒素が建物の中に充満し物や人が凍りついたり、酸素欠乏で死んでしまったりするということだ。
しかし、窓を開けて大気の中に放出すれば、もともと空気の中にたくさん含まれているものだから、何ら害もなく自然に戻るということだろう。
ドラマでは、さらに光の屈折についても扱われていて、面白かった。
液体窒素は、子供が小さいころ手の指にイボができたとき、皮膚科に行って、この液体窒素でとってもらった。これでイボを凍らせて壊死させてしまったわけだ。イボはきれいに治った。

「探偵ガリレオ」の原作者は東野圭吾だが、この人は大阪府立大学工学部を出ているそうだ。だから、こういう化学的な内容のものを得意とするのだろう。
福山雅治もかっこいいし、科学の勉強にもなるので、今後も熱心に見ようと思う。

ところで、次のものの含有気体は何でしょう?

窒素 酸素 メタン 二酸化炭素 水素 酪酸 硫化水素 二酸化硫黄 二硫化炭素 アンモニア リン化水素 インドール スカトール

平均的な大人はこれらの含有気体を普通1日に合計0.5~1.5リットルの量、5回から20回に渡って放出するのだそうです!




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同窓会に来て行く服

2007-10-26 00:51:18 | 未分類過去
さっきから、グーグルで「同窓会に着て行く服」を検索してみたりしていた。
・同窓会に来て行く服がない。
・箪笥の中にある服をつぎつぎに探した。服はいっぱいあるが、いいのがない。
・同窓会に来て行く服をダンナと買いに行った。
・いいのがみつかった。
・何を着て行ったらいいでしょう?
などなど、いろいろある。

そこで、「何を着て行ったらいいでしょう。」という掲示板の答えに「会場によって決まる」というのがあった。

そうだ、会場によってきまるのだ!

しかし、実は会場がどこなのか、私は知らんのです。

小学校の同窓生というのは、田舎ゆえ人数が少なくて、おそらく、高校の同窓生なんかよりも地元に残っている割合が高いんですね。だから、地元で電話連絡かなんかでやりとりしていて、詳細を示した往復はがきをこっちまで送ってくるというような方法は取っていないようなのです。私などは、かなり遠くに行ってしまった部類で、あやうくはじかれるところだったらしいです。
だから、昔の親友が気をきかせて連絡してくれたのですが、会場は改めて知らせるということでした。
まあ、参加人数が決まらないと、会場もきまらないのでしょう。

だから、高級ホテルなのか、居酒屋なのかも全然わかりません。

ただ、以前やったときはあんまり大きくなく薄暗く狭い居酒屋だったので、てっきり今回もそういうところだと思い込んでいました。
だから、適当な服でいいのだと思っていました。

しかし、まさか、高級ホテルとかじゃないだろうな・・・。
高校の同窓会はホテルの宴会場でした。
高校の生徒は広い範囲から通学していたので、地元とは言っても、必然的に地元の中の都会が会場になります。

おそらく、小学校の同窓会はそんなことは無いとは思いますが、万が一ホテルだったら今回買った通勤着のような服じゃダメですね。
やはり会場がどこなのかは重要だな~。
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同窓会準備など

2007-10-25 23:00:03 | 未分類過去
今日は、午前中動物病院にウサギの爪切りに行った。かなり伸びていた。
体重・体温を測り、聴診器で心臓やおなかの動きをチェックしてもらい、口の中も見てもらって、異常なしだった。ちょっと太り気味ではあるが、とりあえず健康で安心した。
抱かれるのがキライなウサギだが、自分のために何かしてくれているということがわかるのか、なかなかいい子にしていた。

午後は夫が銀行に行くのでいっしょに出かけて中華料理を食べた。その後は、解散し、私は夕方美容院にカラーリングとカットに行った。9000円とちょっとした。
自宅で染めれば節約できたが、面倒くさい。それにやはり美容院でやってもらったほうがきれいにできる。とにかく、かなり伸びてもいたので、来月初めの同窓会のためには美容院に行かないわけにはいかないのだった。しかし、髪の毛を整えるとなかなか気分がいいものだ。

美容院にいったついでに、量販店で割引セールをやっていたので、洋服を見てみたが、これといって気に入ったものはなかった。

実は、このあいだの火曜日、仕事の帰りに別の駅の量販店に行き、上着(¥9800)とスカート(¥4900)とセーター(¥3900)を買ってきた。そこは、もっと田舎の方向にある店なのだが、商品の品数も多く、陳列の仕方もセンスがあるように思えた。コーディネートされたマネキンもたくさん並んでいるので参考になる。また、試着室にフェイスカバーがあるので、かぶり物でも着てみることができる。だから組み合わせた感じなどもわかるのでいい。
そこで、グレーっぽいスカートをみつけ、それに合う上着を探していた。売り場には上着とスカートがセットになるかのように、数枚の同類のスカート群と数枚の同類のジャケット群が同じコーナーに下がっている。そういうコーナーがいくつかある。しかし、どうも同じ生地ではないし、全然合わないような気もする。なかなか合うものがみつからない。
その時間帯、店員さんたちがしきりに新しいものを出したり場所を移動したりしていた。
火曜日っていうのは、ちょうどお客さんが少ない曜日なのだろう。たしかにお客はあまりいなかったし、バーゲンもしていない。どちらかというと、この様子では近々のバーゲンに向けて商品を補充しているようでもあった。だから、あんまりいいタイミングじゃない。しかし、この店のチラシは私の家のほうには入ってこないからいつバーゲンなのかもわからないし、もしわかったとしても、その日を狙っていけるわけでもないので、その日に買ってしまうことにした。
品物を移動している若い男の店員さんに、ここにあるジャケットとスカートはセットになっているわけではないのかと聞いてみた。すると、今、移動中なのでまだでたらめで、今後合うように変更するとのことだった。そして、ちなみにそのスカートに合うものはこんな感じだろうと探してくれた。素材も色合いもちょっと違う。店員さんが選んだ上着はこげ茶がかった黒だった。スカート生地に多少光沢があるので、上着も光沢のあるものが良いのだそうだ。
色合いが違うのでこんなのが合うのか?と思ったが、その上着と、ためしに同種の黒い上着もスカートと合わせて試着してみた。すると、店員さんが薦めてくれたこげ茶がかったほうの上着が合うことがわかり、それを買うことにした。
こんな量販店の店員さんでも、やはり洋服には詳しいもんだな~と感心した。自分だったらなかなか見つけられなかったし、組み合わせてみようとも思わなかったはずだ。
人が少なかったので、そのほかにも思う存分いろいろなものが試着でき、バーゲンでないのもかえってよかったかもしれない。

家の近くの量販店は今日からバーゲンだったから、その店も今日当たり安くなっているのかもしれない。

買った服は、同窓会用というよりは、通勤着だった。やはり後々着まわしできるものとなると、通勤に最適なものとなる。同窓会に行くには豪華さがちょっと足りないが、しかたがない。

今日の店で同じようなジャケットを見ると、5900円くらいだったので、ちょっと高かったなあと思った。5900円のを着てみると変だった。
べつの店で、もっと高い上下のセットなどもあり着てみると、サイズはちょうど良いが、デザインが若向きすぎてどこか似合わなかった。やっぱり火曜に買ってきてよかったのだと思った。

カードで買ったので引き落としは12月である。ボーナスのない我が家はそのお金がどこからでるのかと不安だが、パートのボーナスが2万円出る予定なので、それを引き落とし口座に補充すればいいかと思う。

同窓会に向けての準備は、貧乏人にとってはなかなか苦しいものだが、ひさしぶりに洋服の研究などできてよかった。
いつもは、無駄遣いをしないように、洋服売り場には近づかないようにしているのだ。
お金に余裕があったら、きっといろいろ買って際限なく楽しんでしまう性格だと思う。
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続「絵というもの」コメント内容に関して

2007-10-25 02:21:13 | 美術・美術館
2 絵というのは、単純に費やした時間のみを考えても、かなりの時間を労しているのだから、高いのは当然だ。

という内容に関しては、以下のコメントがありました。

「また生前その仕事が評価されず死後たいへんな価値として存在している作品もかなりあり、作品の価値と本人の生活がうまくなじんでいるとは限らない。ましてパートタイムの時給と同列に論じるというのはかなり乱暴だね。

2に関しては、その発想が生まれるまでの経緯が書いてなかったので、それについて書こうと思います。

あまり知られていない画家で、ちょっと家に飾るのにいいかなと思う程度の小さな絵でも、本物を買おうとすると何十万円もしたりします。
そういうのをかつては、何でこんなに高いんだ?と思っていました。
しかし、それがもし2~3万円だとしたら、もしかしたら額縁代と輸送費と画廊の光熱費と人件費と絵の具代だけで終わっているかもしれません。それを画家がどのようにして描いたのか?ということを、私は今まであまり考えたことがありませんでした。
たとえば、湖の絵だったら、遠くにある湖まで行き、どこかの宿に泊まり、何日かかけて描いたということです。単純に宿泊費と交通費を考えても数万円すっ飛んでいくでしょう。
たとえば、たいして才能がない画家で、普通の人よりもちょっと上手なくらいだったとしても、まあ、普通の人にはなかなか描けるもんじゃないし、湖までわざわざ行って描いたりなんかしないんだから、人間が手で描いた本物の絵が欲しいなあと思ったら購入するかもしれません。
そのときに、人間が手で描いた絵である限り、やはりある程度の金額は当然だと思ったのです。1枚50~60万で売れたとしても、様々な経費を考えたら画家の純利益は大したものじゃないかもしれません。

なんら、技術もない内職の人が絵の具で色を塗る仕事をしたって、1時間に数百円という収入にはなるのです。
そんな比較は下卑ているというか、問題外というところですが、単に技術面で言ってもずっと価値があることは確かです。
また、実際に画家がどれだけの手間や苦労をしているかと思えば、画家がその絵を創作した過程をもっと尊重し敬意を払いたいと思いました。

絵というのはそのもの自体の芸術性や価値で値が決まり、名作が論外に高価なのは当然です。名作は名作であるから価値があるので、画家が苦労したかしないかや労働時間などは関係ないといえるでしょう。
それはわかっていますが、たとえざらにあるような絵であっても、それが人間の手による一枚きりの絵であるということで、それに相当する価値はあるだろうと思います。いや、その労力を私は認めたいと思います。
(だからといって、駄作を喜んで買うわけじゃないですが・・・)

よく、手編みのセーターなどが5~6万円もすると驚くわけですが、それも技のある人が時間をかけて編んだものであり、驚くに値しないかもしれません。
コンサートを聴きに行くのにも数千円もして驚きますが、それも誰かがぼろもうけしているわけでもないかもしれません。
結局、人の手のわざというのは高いものなんだってことが言いたいことでした。

最低限の必要経費の上に、その絵の芸術性価値などが加算されれば、さらに莫大な金額になるということですね。
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「絵というもの」コメント内容に関して

2007-10-25 01:33:14 | 美術・美術館
「絵というもの」について次のようなコメントがありました。

「ルネサンス以前は特に、芸術家という存在は無かったに等しかった。彼らは依頼を受け「職人」として自分の創ったものを売って生活したわけだけど、それは現代の職人も同じではないだろうか?たいていの仕事は自分の手元を離れるものだから、ことさら画家だけを特別視するのはどうだろう?また生前その仕事が評価されず死後たいへんな価値として存在している作品もかなりあり、作品の価値と本人の生活がうまくなじんでいるとは限らない。ましてパートタイムの時給と同列に論じるというのはかなり乱暴だね。

取り急ぎそちらにコメントをつけましたが、もう少しちゃんと書こうと思います。

私が最初に書いた内容は次のような趣旨です。
1 画家は自分の作品を手放すことが寂しくないのだろうか。自分の絵の行方は気にかからないのだろうか。
2 絵というのは、単純に費やした時間のみを考えても、かなりの時間を労しているのだから、高いのは当然だ。

コメントに関連する部分でもう少し詳しく書きたいと思います。
1について

私が書いた画家というのは、ルネサンス以前の職人としての画家のことではなく、芸術家としての主に近現代の画家のことです。
芸術家としての画家は、売れないうちは展覧会などに出展し賞を取ることにより名を上げるでしょう。そういう時に描く絵というのは、注文された絵ではなく、自分が表現したい絵を描いているのであり、職人とは違います。
職人とは、多くは注文されたものを注文されたように創作し、その費用もあらかじめ計算されていて、それに見合ったものを造り、最初から手放すことを前提としている。
しかし、画家は手放すことを必ずしも前提とはしていないのではないでしょうか。展覧会で入賞した絵を売らないということもあるでしょう。しかし、買いたいという人がいたり、美術館に展示したいという話になれば売るということにもなるでしょう。
その後、売るための絵をつぎつぎに描くなら、それはそれで手放すことを前提とした職人的な感覚もあると思います。

自分の絵に対する愛着というのは、入江観氏の話を聞いたときに思ったことでした。
どの絵がどういうときに描いたものなのか、画家というのはちゃんと覚えているようです。
絵は自分自身の歴史ともいえるでしょう。
本人にとって印象深い絵とそうでない絵があるかもしれませんが、どの絵はどこの美術館にということもちゃんと把握されているようでした。
絵は自分の子どものようなもので、ひとり立ちした子供は手元には置かなくてもいいですが、人から愛されどこかで元気にしていてほしいものではないでしょうか。
どこかの役所で画家から借りた絵を倉庫にほうり込んでおいて、ゴミと間違えて廃棄してしまったなどということがありましたが、そのようなことは作家にとって非常に悲しいことだと思います。もし高額で買われたとしても、その絵が紛失してしまってこの世にあるのかどうかもわからないというのは本当に残念なことでしょう。

普通の職人も自分の作ったものを大切にしてもらいたいと思うでしょうし、それが一点ものであれば思いいれも強いかもしれません。
「ことさら画家を特別視するのはどうだろう」とのことですが、私は単に画家について思ったことを書いただけであり、何かの中から特別なものは画家だけだと言ってとりたてているわけではありません。
対比しているものは、物体でない芸術です。文芸や音楽は作者の手元から離れる寂しさはないということとの比較でした。

自分自身が、画家とその作品とのつながりについて今まで深く考えたことがなく、初めて考えたことだったので書いたというだけです。

また、原作を生み出す画家は芸術家、その複製画を描いたり修復などする人はそれなりの技術をもった職人じゃないでしょうか。

2については次回に書きます。
コメント

服装の不一致

2007-10-24 21:20:32 | 未分類過去
服について、2つコメントをいただきました。
それで、姉がなぜ私に対して服装を強制してくるのかを考えてみました。

人間というのは、自然にしておくと、気の合うもの同士、趣味の合うもの同士、価値観の一致するもの同士、などが友達となって一緒に行動するのではないでしょうか。
女子高生を見ても、同じような制服の着方、同じような化粧をしている子が集まっていっしょに行動しています。真面目な者同士、地味な者同士、派手なもの同士、遊び人同士などが集まります。
女子大生なども、似たような髪形、ファッション、体型、の人たちが一緒に歩いていることが多いです。並んで歩いている後姿などみると、双子のように見えることもあります。
姉とその娘も体型・髪型・服装など似ている部分が多く、一目で親子とわかり、お友達親子というか双子親子のようでもあります。

そういう状況の中にあって、30年間も離れて暮らしている姉と私は全く趣味も生活環境も職業も違い、それが服装や髪型の違いとなって表われているといえます。
その2人が並んで歩くとすると、似ているという調和は生まれないのです。
しかし、そこで、姉のほうとしては調和させようという動きがでてくるようです。

村上龍さんの小説だったかな、公園に集まる幼児を連れた主婦の集団で、ある一団は、ある一定の水準の容姿を持ったひとたちで構成されているというのがありました。
こういうことは本当にあると思います。
人々はそういう空気を一瞬にして読んで、自分がどこのグループに属するのかを判断しているのでしょう。まちがってもドブスでファッションセンスのないような人がそのグループに入っていくことはありませんし、そのグループの人たちも声をかけたりはしません。
もし、1-2回のやり取りがあったとしても、そのうちに居心地のよい似たものグループのほうに所属していくという流れです。

姉は昔から、そういう基準でグループを作りたがる人間だったようです。
姉は独身の頃、客船で海外旅行に行ったことがあったのですが、その中で親しくなったグループは全部容姿が美しいものの集まりだったと自分で自慢しており、その他の基準に合わない女性とはほとんど交流を持たなかったようです。そして、一定基準の3~4人の写真ばかりがあり、それについて、この人たちと仲良くなったけど「みんなきれいでしょ」と言っていました。
その客船には独身男性ものっていて、旅行期間中を通した一種のお見合いの場のようなものだったようですが、その中でどういう差別が行なわれていたかは、ある程度想像できます。優位に立つもの、無視されるものなど、おそろしい世界だったのではないかと思うのでした。
いい男グループがいい女グループに、変な男グループが変な女グループに誘いをかけるという関係で、ここでも空気を読まずにランクの低い男がランクの高い女に声をかけでもしようものなら、この人は何を勘違いしているのかしらとしらじらとそっけない態度で過ごすというようなことが行なわれていたと推測します。
男も女も容姿と学歴と社会的地位と年収などで分類され序列されているのでしょう。
そこでは多少学歴はなくとも容姿で点を上げる女性がいたり、多少容姿に問題があっても学歴と年収で点を上げる男などがいたはずです。
このことを思い出したのは、先日実家に帰った時に、姉がそのときの写真を引っ張り出してきて見せたからでした。同乗していたプロのカメラマンが撮ったとかいうことで、モデルのような写り方をしていました。年老いた今になって、若い頃の栄光を思い出したいのかなと思いました。

姉と私がもし他人であれば、全く接点を持たないはずの人間同士であり、一緒に行動することもないわけですが、家族という血縁関係がある以上いっしょに行動しなければならないときがあります。その時に、容姿やファッションセンスに独特の基準を持った姉が、私に対して同調しろという動きを見せるということでしょう。



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青いドレスの女(アンリ・マティス)

2007-10-24 00:08:36 | 美術・美術館
読書感想文というものがあるなら、絵画鑑賞感想文というのもあるわけですね。
それで、この間行った、フィラデルフィア美術館展で見た絵の中で印象に残ったものの中の1つについて書いてみようと思います。

青いドレスの女(アンリ・マティス)
この絵について詳しいことは調べてもいないので、たいしたことは知りませんが・・・。
マティスは、わざわざ、青いドレスを作らせて女性に着せて絵のモデルにしてこれを描いたようです。
明るく青く丸みのあるドレスで、白いフリルの飾りがついています。右手には白と黒の大きなビーズのブレスレットのようなものを付けていて、左手は左のこめかみのあたりを指差したようなかっこうをしています。この女性の手はものすごく大きいです。
髪は金髪で、長髪ではありません。
そして、顔、特に目はいい加減に手をぬいて描いてあるように見えます。
マティスは、この絵を何度も描いているらしく、その中には顔をしっかり描いたものもあるそうですが、最終的にこのようになったとのことです。
マティスが描きたかったのは女の顔ではなく、青いドレスだったようです。背景の壁やそこに飾ってある絵や、ソファーなど、赤と黄色と青と黒と白とわずかな緑という6色の配色でできている平面的な絵ですが、なんとなく楽しい気分になります。
やはり、顔はこんなてきとうな感じでよかったようだと思います。凝ってはいませんが、なかなかきれいな女の人です。絵全体の色合いも絶妙だなと思います。

物事というのは、何から何まで丁寧にくわしくやればいいというものではないようです。
文章なども、同じようです。どうでもいいところはいい加減にして、重要なところに力を入れよう。
芸術作品とは、このように、試行錯誤をした結果、最適な簡略化などして最高の形に落ちつくものもあるものですね。文学作品などもそういうことがあるでしょう。一見、雑な文章が入っていてもそれは作者の意図かもしれません。

それから、絵画では、習作とか無題とか、何気なく気楽に書いた絵がすごくよかったりすることもあるようです。
気合を入れれば必ずしもよい作品ができるとは限らず、ふとした心持の変換があったときに、ものすごく良い作品が作られることもあるようです。

この絵はマティスが明るい心持で描いたように思えますが、気合をいれて試行錯誤をしているうち、ふっと心の緊張がほぐれたとき生まれたのではないかと思います。



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絵というもの

2007-10-23 22:54:43 | 美術・美術館
絵や文などは「著作権」というものがあるところが共通しているが、画家にとって、自分が描いた絵(作品)というのは、どういうものなんだろうと思った。

文章は言葉だからどんどん印刷されて伝えられるのみであり、自分が書いた文が手元からなくなるわけではないが、絵画というのは、そのものが自分の手元から離れて、誰かの手元に渡っていくわけだ。だから、もうずっとその絵に会えないかもしれない。
しかし、自分が気に入って上手に描けた絵こそ、自分の手元に残すのではなく、他人に渡してそこで評価してもらうなり楽しんでもらうなりしなければ、その絵の存在価値が生まれない。画家は自らが描いた絵とは別れるという運命にあるといえる。
画家というのは、自分の絵の行き先を知っているものなのだろうか?
どこか遠くの美術館に展示されているのを知っていたら、自分の絵に会いに行くなんてこともあるのかな?

どこかでその作家の展覧会でも開催されると、ばらばらになっていた作品の多くが会場に集められたりするので、そこで初めて作品同士が一堂に会することになったりする。それは不思議なことだ。画家が生きていれば、たくさんのわが作品との再会に感無量かもしれない。大昔の画家でもうこの世にいない場合も、いままで時間差を持って描かれて人手に渡ったためにひとまとまりになったことない絵たちが、今や主はいないもののそこに集められて、人々がそこに画家の魂を感じたりするのであろう。

絵は、模写や複製画や写真や印刷物などになって、多くの人の目に触れることもできるから、そういうもので楽しむこともできるが、やはり本物は格別だ。

絵は高価なものであるが、それは当然のことである。
絵を描くのにはかなりの時間を要するだろう。単純にパートタイマーの時給に換算したって1~2日で、1万円くらいにはなるわけだ。数ヶ月もかかって描いた絵が何百万もするのは当然だといえる。

画家の卵にとって、絵描きになるか、絵の先生になるか、というのはやはり作品にどれだけ力を尽くすことができるかということで、大きな問題となるだろう。
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今日も秋晴れ

2007-10-22 23:55:36 | 未分類過去
うん、たぶんそうだっただろう。
きっと、秋晴れだったと思う。
確か、朝でかけたときは晴れていたし、会社のトイレの窓から覗いた外の風景は晴れていたような気がする。

今日は、残業をしたので、帰りはもう暗くなっていた。
今日読んだ文書は、なんだかすごく時間がかかってしまい、金曜日に読み始めたのに、今日6時間読んでもまだ終わらないのだ。1時間残業してもダメだったからもう明日にまわすことにした。あと、5ページくらいだから、30分くらいで終わるだろう。
しかし、39ページくらいだったと思うので、どうしてこんなに時間がかかっているのか、よくわからない。
1つには、文章を理解しながら図面の符合を探すのにいちいち手間取ってしまうのが原因である。かなり複雑な機械で符号がいっぱいついている。
1、から始まり、622D1,622D2,622D3、などという似たような5桁番号もいっぱいあって、最後は800番台である。
その中に200番台は、なかったはずなのに、なぜか突然232Aと232Bなどというものが文中に出てくる。19枚のすべての図面の符号を探してみるがやはりない。さらに文中をさかのぼりどこかに出てきたかどうか調べるがやはりない。その名称も出てこない。かなり似ている名称は出てくるが、同じではないし、番号も全然違う。確かにこれは間違いだという判断にいたる。こんなことをしているので、時間がかかってしまうのだ。
原因はおそらく、別の同類の書類で使った文面を流用しているからだろう。
232Aと232Bは草むらに落ちているかもしれない指輪を探すようなものなのだ。図面の中や文章のなかをくまなく探すのだ。
自分には読んだ記憶がなくても、ちゃんと筆者が前のほうに書いてある場合もあるし、別の符号と間違っている場合や、図面の符号の付け落としということもあるから、簡単には決め付けられないのだ。
結局、どこにもでてこないものだということが判明した。


帰りは、もうすぐ同窓会だから新しい服でも買おうかと思い、量販店の中をちょっとうろうろしてみたが、これといってよさそうな服がなかった。買う前にあらかじめ服の雰囲気やイメージを作っておいたほうがいい。近々美容院に行ってカットもしたいと思うので、髪形の研究もしたい。それで、女性のファッション雑誌を買おうかと本屋に行った。
料理の本は時々買うが、ファッションが載っている雑誌はほとんど買ったことがない。いろいろ見てみると、700円台から800円台くらいでそう高くはないのだが、なんでこんなにも分厚く重いのかと思う。ちょっとパラパラめくってみようとしても、重くて思うように持てないのだ。だいたいそれでいやになってしまった。
もっと薄いほうが売れるんじゃないのかな~

中年向けの雑誌は、みんな高級志向である。
もっと安物で格好よく決める方法などが載っている貧乏人向けファッション雑誌を作ってもらいたいものだ。
あんまり参考にもなりそうもないので、やめた。

服はあるもので間に合わせようかと思い始めた。交通費や参加費もバカにならない。
考えてみると、今まで同窓会のために買った服というのは、いつも買うものよりもかなり高価なものであり、質が良いため、着心地もよく、長年便利に着られるものが多かった。
だから、今回も奮発して買えば、今後の利用価値はあるだろう。
しかし、やっぱり予算がない。
それに、だいたい友達がどんな服を着ていたかなんて私自身記憶がないので、服なんか大して重要ではないだろうとも思う。

まあ、もう一回買い物に行ってみて、いいのがなかったらあるもので済まそう!



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いつの間にか紅葉

2007-10-21 23:30:01 | 放送大学
気がつけばもう10月も3分の2が終わり、ことしもあと2ヶ月あまりとなっています。
昨日と今日は、放送大学の面接授業に行ってきました。
この面接授業、1コマが長すぎるんじゃないでしょうか?
135分=2時間15分ですよ!
授業はとても興味深い内容ですが、にもかかわらず途中でどうしても眠くなってしまいます。
何度か眠気に襲われ、絶えきれずに意識が遠のき、また目を覚ましては授業を聞くということの繰り返しでした。
先生には本当に申し訳ないです。この長さは、やっている先生のほうが大変ですよね。

よく団体のバス旅行に行った時に、お客さんは途中で疲れて寝てしまうわけですが、絶対に起きているのは運転手さんですね。
ちゃんと行くべきところに車を走らせ、そしてちゃんと帰路につきます。
なんだか、バスの運転手さんと先生が重なってしまいました。ガイドさんは寝てはいませんが一応休憩はあるものです。運転手さんは最初から最後まで本当に大変だな~といつも感心します。先生はガイド兼運転手さんですよね。

それにしても、勉強をするときに、人間の集中力は、どうしたって2時間以上なんか持たないんじゃないんでしょうか。せいぜい1時間半じゃないかと思います。
しかも、放送大学の面接授業は1日に同じ課目を2~3コマやることが多く、それも異常ですね。

授業と授業の間は20分の休み時間がありますが、授業時間を半分にして、そこに10分休みを入れたほうがいいのではないでしょうか。

今日は、休み時間にちょっと外に出てみました。秋晴れでさわやかでした。
空を見上げると、もう木の葉が紅葉して黄色くなっていました。

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ダメ出し

2007-10-21 09:49:30 | 未分類過去
人と一緒にいると、自分の判断力がおかしいのかという不安に陥ります。

たとえば、洋服を一緒に見てあるいているとき、これいいかな?と手にとってみようとすると、「そんなの変よ、地味だわ」とか、または逆に「それは、若者向けじゃないの」などと言われてぴしゃりとやられてしまうのです。
そうなると、それを体にあてて鏡を見るという動作もできなくなり、そのままやめるしかありません。
そのようなことが延々くり返されると、同行者に文句を言われなさそうな服を探さなくてはならなくなります。だから、気もそぞろになり服選びどころではありません。
この前、姉と服を見ていたときは、姉がブティックで試着などして時間をかけているすきに、同じ建物内の普通の量販売り場で1000円のTシャツを選んで買ってきました。やっと自分の好きなものを選ぶことができました。
ところが、実家に戻ってそれを着ると、なんでそんな変なものを買ってきたのかと文句を言われました。また、それとGパンと上着で電車に乗って東京に帰宅しようとすると、それを着て帰るのか?と変な表情をされました。
その後、実家に電話をしたときに、最近また姉がそのときのことを母に話してきたそうで、あんなセンスのない安物を買ったりしていて、どうしようもないとか言っていたとのことです。
人が何を着ようと自由ですし、Tシャツ1枚のことで延々とケチを付けられるのはかないません。もう2度と一緒に買い物には行きたくないし、実際にそういう人間とは会いたくもないのです。しかし、私の判断はそんなにもおかしいのだろうかいう不安に陥ります。

そんな風なことが起こるのは姉ばかりではありません。
友人と一緒に出かけて、知らない土地でレストランなどを探しているときに、見本に適当な日替わり定食などが出ているのを見たりしたとき、私は、まあ特においしそうでもないけど、他の店を探すのも大変だしこれでいいんじゃないか?と思います。おそらく、夫と一緒だとそこで食べてしまおうという判断になりそうです。
ところが、見本と客席を見渡した友人は「ここはダメ、おいしそうじゃなさそうだわ。私は一目店の雰囲気を見ればおいしいかどうかわかるの」とのこと。
次にピザ屋に行くと「ここは生地があまりおいしそうじゃなさそうね」とのこと。
食べるに値しないものが多いようです。
会社などでも、たまに仲間で外食をするのですが、昼休みに手早く食べるには至近距離にあるファミレスのランチメニューでいいのではないかと私は思います。
しかし、他の人はファミレスは問題外。チェーン店ではないちゃんとした店でなければだめだというのが常識のようですから、ファミレスはどうか?などと言ったらレストランの価値のわからぬ人だということで必ずダメだしです。


でも、世の中にはこのようにダメ出しされた1000円のTシャツを来ているひともいるし、適当なランチを食べている人もいるので、私と同じ判断基準の人がいないわけではなさそうです。

しかしながら、自分がヨシとすることを、日常近くにいる人にぴしゃりとダメ出しされることが多いので、私は物事の価値がわからず、判断ができない人間だというレッテルを貼られているような気がし、不安になることもあります。

自分がダメなものの判断ができない人間である以上、同行者がダメ出しするかどうかにばかり気を遣いながら判断を仰いで行動しなくてはなりません。それもなかなか辛いものです。


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