山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

訃報

2008-12-31 15:23:52 | 日記
実家に帰る準備をしていたら、親戚が亡くなったという訃報が入ってきました。
新年早々に告別式があるそうです。
私と年齢がそう変わらない人で、病死です。とてもショックです。
親よりも早く逝ってしまうなんて、それはダメです。
自分が親を見送らなくちゃいけないのに、親に見送らせるなんてダメです。
でも、どうにもなりません。
本人が一番無念だったに違いありません。

私が、金がないだの、正月の準備がどうのこうのだのと、ぶつぶつ文句を言っているその時に、生きるか死ぬかの瀬戸際にあって、ついに命のともしびが消えてしまった。
その人もその人の家族も本当に大変な状況だった。
私はそんなことも知らずに、不平不満ばかり言っていて、なんてあさはかな人間なんだろうと思いました。

元気に生きていることだけで、感謝しなくちゃいけません。

私はその人より少しだけ若いです。
その人も昨年の年末は病気でもなんでもなく元気に暮らしていたはずです。
だから、その人のことを不幸だと思う自分も、その人と同じ年齢になったときに、今と同じに元気だという保証があるわるわけじゃありあせん。
でも、自分はもっと長生きできるという前提で考えています。

その人は50代前半で主婦でした。
そのくらいの人で亡くなる人も少なくはないようです。
幸い、これまでは自分の身近にそういう人はいませんでしたが、友人の口から、知り合いに亡くなった人がいるというような話を聞いたことがあります。
だから、他人事ではありません。

とにかく、生きてなくちゃなんにもなりません。

皆さん、健康にはくれぐれも気をつけてください。私も気をつけます。
健康診断もちゃんと受けて、どこか悪いところがあったら、早めに治療しましょう。
そうすれば、治る病気は多いです。

なんだか、年末に悲惨な内容になってしまいましたが、
すべては、「命あっての物種」です。

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お正月準備

2008-12-30 09:58:38 | 日記
お正月が近づいて、世間はなにかそわそわし、スーパーは人間だらけになっている。
いつもの数倍もする値段のかまぼこや伊達巻が並び、肉も大きなパックとなり、すき焼き用の牛肉なども高いものになる。
正月を迎えるとなると、やはりお供え餅が必要だろうか、仏壇の花もそれなりのものを供えなければならないか、玄関のお飾りも買うか、おせちも一応作ったほうがいいだろうか・・・などと考えていくと、こりゃあ予算も大変だ。
それだけのものを混みあう店に出かけて行って買って持ってくる手間も、えらく大変なことに思えてくる。
明日は、私は田舎に帰るので、それまでに、大掃除や料理などをすませ、年賀状も作成しなければと思うと、おそろしい忙しさになるだろう。
だが、どうもなかなかエンジンがかからない。

餅なんか買っても食べないよな~
おせちは元旦からやっているスーパーでは、年が明けるとすぐに半額になるもんだ。
しかし、だからといって、大晦日に作らないで元旦におせちの買い物をするっていうのもどうかなあ。
「年が明けてからなら安い」とか、「べつに正月料理もいらないだろう」と思って、普通の人がすることをしないというのも、なんか、さもしいじゃないか。
そこで、千円や2千円節約ができたからってどうなんだろう。そこで、何千円かよけいにかかったからといって破産するわけじゃないんだ。

どうも貧乏性でいかん。
これは、先祖代々伝わる貧乏性である。

実家の母は、パソコン印刷なんかができないので、できた絵入りの年賀はがきを買ってきたそうである。それがきれいな色のものは高いから、一番安いほとんど色がないようなものを買ったと言っていた。
確かに、色刷りのデザインはがきは1枚あたりの値段が、切手代に加えてかなり高くなっているといえるが、たかが数十円のことであり、そこで5枚セットの値段が地味なものよりも100円くらい高かったからといって、50枚買っても1000円よけいに出してきれいなデザインのものが買えるなら、そんな金額は大したことではないのではないか。
私なら、そんなつまらない年賀状を送るよりも、少しくらい高くても、自分がもらって嬉しいようなきれいなデザインを選ぶと思う。
母は年金暮らしではあるが、そんなに貧乏で生活に困っているわけではないのだ。

しかし、母の金銭感覚とはそういうものであり、仮にどんなにたくさんのお金があったとしても、その習性は変わらない。できる限りの節約をする。

そんなやり方をしてきたからこそ家が建てられたのであり、私のように無駄なものに金を使っていたら家なんか建てられるはずがないと言うのだ。
それで、一軒家はあるものの、暖房もほとんどしないで暮らしているから、寒くてしょうがない。
母の場合、なぜか家を持つことだけは、一般人間の最低条件で、無駄な消費ではないと思っているようだ。

私は田舎に帰ると、そのたびに近くのショッピングセンターに行って、バーゲンの洋服を買ったりするのだが、母にはそれが気に入らない。「服なんかそんなに買う必要はなかろう、自分は10年間も同じ服を着ている」などと言う。
そりゃあ、今着ている服がぼろぼろになっているわけじゃないし、着る服は他にもあるけれど、やはり毎年新しい服を買うのが人間の楽しみではないかと私は思う。
10年間も同じ服を着ていてどこが楽しいのか、そんなの生きる楽しみがない。

このように、私は日常品を買うことにおいては母ほどケチ臭くはないが、それでも母の習性に洗脳されている部分が多く、お金を使うことに対する抵抗がしみついているため、正月準備もついつい躊躇してしまうことが多い。
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これでいいのだ

2008-12-30 01:43:38 | 日記
仕事に関しては、なんとなくネガティブな考えになってしまうこのごろですが、
よく考えてみると、そう悲観することでもないようです。
会社は結局、今年も私の時給を上げてくれました。
私は、毎年時給を上げてもらっています。
4年間で、入ったときより110円上がりました。

この不景気の中で、これだけのことをしてくれる会社に、感謝するべきでしょう。

現状を維持することでもいいのかもしれない。

人は、何かと上昇しようと思います。
経済は成長しなくちゃいけない、
売り上げも増加させなくちゃいけない、
などと思っています。

しかし、それでは切りがありません。

何でもかんでも増産すればいいというものでもないし、
たくさん消費されればいいというものでもありません。

環境や省エネルギーを考えるなら、
この際、生活にかかる費用も縮小し、
そうなるなら、収入は増えなくてもいいということになります。


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転機

2008-12-30 00:27:23 | 日記
来年度、今住んでいる公営住宅の住人が「立ち退き」になるようです。
私たちは、老朽化したこの家に住んで、いつ「建て替え」てくれるのだろうと、何年も前から思っていましたが、「建て替え」という言葉は、私たちにとってはあまり関係がないのだったということを知りました。つまり、その建て替えられた家に住むわけではないのです。この老朽化した建物を壊して新しい団地を作るためには、今住んでいる人間が居ては実行できない。「住人をどげんかせんといかん」という考えの元に、「移転させる」という発想なのです。だから、「今ここに住んでいる人のために建て替えてあげる」ってわけじゃないのですね。だから、「建て替えです」って話の中に、「今の建物の後にできるのはこんな住宅です」という設計図なんてのは提示されません。つまり、それは今ここに住んでいる住人には基本的に関係のないものだからです。
私たち住民は、こんな老朽化した家、なんとかしてくれないかな~とみんな思っていましたが、この場所が嫌いな人はいないというほど、交通の便や環境のいいところでした。だから、この土地に別れを告げるのは住民の誰もが寂しいと思います。

しかし、移転先は新築住宅が用意されているそうです。つまり、私たちの知らないうちに、着々と私たちのための住宅が建設されていたというわけです。
それはあたかも、将来結婚する人間がすでにどこかに生まれ、暮らしていたというのに似ています。それは不思議なことですね。
あなたたちのための住宅を建設中ですよとでも知らせてくれてたらよかったのになあ。
以前、建売住宅を買おうとしたことがあっていろいろ見て歩いたことがあるのですが、これもまた、すでに出来上がっていたり、建築中だったりするわけで、自分の知らないうちに自分のための家がすでに作られていたというのは不思議なものだな、と思いました。
結局、買わなかったので、それは別の人のために建てられていたということですね。

住まいというのは、人間にとって重要なものです。それは運命の出会いでもあります。
もし自分で家を建てるなら、とても高価だし、かなりの大事業です。それが自分の知らないところで人任せに進行していたなんて、そんなことでいいのかなと思ったりします
公営住宅なので、公が用意してくれたところに、私たちはただ引越すだけです。そして、そこはたぶん私にとっても多くの住民にとっても終の棲家となるでしょう。
とてもありがたいことです。もし自分で新築のマンションなんか買ったら、どんなに大変なことでしょう。一生の労働を支払いに当てなければならないでしょう。
公営住宅はどこもあまり広くはないし、周りの環境や窓の方角などがどうなのか、今よりいいとは言えないかもしれません。でも、そう悪くはないはずです。「棚から牡丹餅」みたいなことです。贅沢はいえません。ありがたくそちらに移転することになります。

来年は転機になるでしょう。
ちょうど次女も20歳になって就職します。子どもたちはみな自立ということになります。

ものが大きく動くときは、ちょっと怖いです。
しかし、家を住み替えるとき、子供が親元を離れるときは必ずやってきます。
何もかも、永遠に続きはしないわけです。
転機が、良い転機となりますように。そしてこれからも平穏に暮らせますように。
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お飾り

2008-12-29 12:09:04 | 日記
最近のお飾りは、コンパクトできれいにできているので、
数日飾って捨てるのは勿体無くて、
下駄箱の中に保存し、
毎年同じものを飾ったりしています。

昨年は新しいのを買ったので、
今年もそれを使いまわそうとしたところ、
なんと、1年間も玄関そばの片隅に置いたままになっていました。

それで、見るとホコリまみれじゃないですか。
こんなのホコリ払って飾ったところで、
バチが当たることはあっても、
けっして運が向いてきそうもありません。

だいたい、今まで放置してあっただけでも、
十分にバチがあたっている感じです。

こりゃあ、新しいのを買わなきゃだめだ。

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廃墟からヤドカリまで

2008-12-29 11:03:04 | 日記
4年前は、日本語教師に挫折して、自分に対するイメージは廃墟だった。
もう、中身を「日本語を教える」という情熱で埋めることはできない。
空洞化した人間は、その廃墟を捨て、別の道を探さなきゃならない。

そこで、みつけたのは、手ごろな貝殻だった。
そこは、まあまあ住みやすかった。
そこで、その棲家をさらに住みやすくするため、その環境を研究し、自分をそこに適合させるべく頑張ってきた。
貝殻の内部は、最初は隙間があるくらいだったが、だんだんちょうど良い大きさになってきた。
私は、周囲の地形や水質なども熟知するようになってきた。周りの貝やヤドカリともうまく共存してきた。
だが、もっと活動するためには、最初に入った貝殻では窮屈になってきた。
さらなる大き目の貝殻を見つけ、そこに住み替えたいと思うようになってきた。

しかし、私が住み替える貝殻はないのだった。
周囲にはヤドカリではない本当の貝、つまり正社員といわれる貝がたくさん生息している。
貝には貝の世界があり、ヤドカリは立ち入り禁止である。ヤドカリはヤドカリらしくしていろといわんばかりだ。
ヤドカリは何年たっても、どんなに大きくなっても、自分自身の貝を作ることはできない生物である。
だから、これ以上大きな貝殻が周囲に無いとわかったからには、窮屈な貝殻の中に我慢して住み続けるか、あるいは、いっそのこと、このヤドカリという生物であることともおさらばし、別の生物に生まれ変わるしかないわけだ。
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読後感

2008-12-29 01:27:38 | 日記
大変読みやすかったので、一気に読んでしまいました。
「すべてがうまくいく8割行動術」って、今の私にぴったりの内容だったかもしれません。

私はどうしても100%頑張ってしまうほうです。
だから、へとへとだし、それが報われないと、とたんにがくっと来てしまいます。
こんなに頑張っているのに・・・と落ち込んでしまったりします。

この1年、仕事は自分なりに頑張ってきました。
毎日めいっぱい働きたいので、少しでも暇な時間があると、他に仕事はないだろうか・・・と思ってしまい、私より仕事の少ない同僚に私の担当分の仕事を回すとさらに仕事が減ってしまうことなどあり、他の人に、ついつい「仕事が少ない」「暇です」などと言ってしまうのです。

そうすると、周りは私がいつも暇をもてあましていると誤解したりして、新たに別の部署の仕事を回してきたりするし、忙しい時に残業をしても、ただ残りたいから残っているのだろうなどという誤解もされかねない状況なのでした。

しかし、実は、かなり忙しい日のほうが大部分で、毎日の仕事を消化し、やり遂げることでへとへとになっているのが現況です。もう全力投球なのであり、実際私の仕事の密度はかなり高いと思うのですが、それは同じ種類の仕事を80パーセントの力でやっている同僚とくらべると、非常に要領が悪そうに見えてしまう。逆に同僚は非常にスマートな仕事の仕方をしているという印象です。

たとえば、同じ内容のメールなんかが送られてきても、私は返信を返す暇もない。しかし、同僚は余裕を持って仕事をしているので直ぐに気の効いた返信をしたりすることができるのです。
そもそも、やってきた仕事は拒まず断らずを繰り返した結果、私のところにはこれでもかこれでもかと容赦なく仕事がやってきます。しかし、同僚は、労働時間を延長したりはしないため、「もう帰るので引き受けられない」と断わります。となると、同僚が担当するグループの人は、その辺をわきまえて、もともと時間内に無理そうな仕事を同僚のところに持ち込んでは来ないのです。

私自身は、多くの人が私に仕事を依頼してくれるのは嬉しいと思い、それに答えて無理をしてでも仕事をしてきました。しかし、それが自分にとっても、その依頼してくる人たちにとっても、本当にいいことなのかわかりません。
そのようにしなくてもやっているグループがあるんだから、やらなきゃやらないでも済むってことです。

そして、そうやってがんばったからと言って、現場の人が私の労働を便利に利用するだけのことで、人事のほうなどから、けっして良い評価をいただいているわけではないということがわかりました。

だから、今回も、私が今の仕事をしっかりやっているからと言って、正社員にはなれず、80パーセントの力で働いている同僚が、別の職種を加えて正社員になるという話に進んでいるようです。

この本の中に、「3番手のススメ」というのがありました。
「トップを走り続けていれば、肉体的にも精神的にも疲労してきてしまいます。そんなふうに仕事にすべてを捧げるのではなく、余裕を持って仕事をするのです。それは、努力をしないという意味ではありません。1位になれる力はあっても、ゴールに入るときは3番手になるということです。」
「ナンバー2でもいいのではないかと、と思うかもしれませんが、ナンバー2はリスクを伴います。トップの人間にしてみれば、いつ自分の座を狙うかもしれないやっかいな存在でもあるのです。」
「さらにナンバー3は、ナンバー1とナンバー2の社内政治のデッドヒートでどちらもダメになってしまった場合、棚から牡丹餅でトップになるチャンスだってあるのです。」

確かにそのとおりです。まったくこのとおりのことが起きているのです。
今回、私は契約更新の面接で、パートタイマーでは時給はこれ以上上げられないとのことで、上司から、現在同じ部署の正社員がやっている仕事を回すことも可能だという話から、正社員になることを希望しました。
しかし、実はその仕事はもともと別の部署でやっていた仕事であり、あとでわかったことですが、その部署のパートさんも時間の延長あるいは正社員を希望していました。
そこで、実質、どちらを正社員にするかという話になります。もともと別の部署でやっていた仕事なのだから、本来の別の部署がその仕事をするのが筋でしょう。そうなると私の仕事はありません。人件費や仕事量の関係から、正社員となれるのは1名です。
しかし、私はその人より古くから働いているし、これまでもほぼフルタイムで働いてきているので、その点では優先順位が高かったといえます。

そこで、会社側はまた別の種の新しい仕事を提示してくれたのです。しかし、その仕事は私が得意とする仕事ではなく、むしろいつも80パーセントで働いている同じ部署の同僚が得意とする仕事でした。そのひとは長年パートタイマーとしてきっちり過不足なく働いてきた人です。結局のところ、私でも他の部署のパートさんでもなく、その同僚が正社員に1番ふさわしい者となったのです。
その同僚はパートで長時間働く気は最初からなかったようですが、正社員となれば給料体系が全然違うので話は別でしょう。

それにしても、確かに私は能力的に1位ではありませんでしたが、働き損覚悟で夫の扶養からも外れて毎日働いてきた、その働き方と意欲においては1位だったと自負しています。しかし、そんなことは何の意味もなく、ただ疲れるだけでした。
それがわかったので、もう仕事を一生懸命やったことに対して、報いを求めるのはやめようと思った年末でした。

ちょっと力を抜きたいくらいですが、相変わらず仕事は容赦なく押し寄せてくるので、それには変わりなく対処しないわけにはいきません。
「優秀な仕事師たちは、お金のために仕事をしているのではなく、あくまでもいい仕事をした結果、報酬を受けていると考えています・・・」
と米山氏も書いてます。だから私も今までどおりきっちり仕事はしますが、もうそれに対する報いは求めません。
そして、私は仕事以外に生きがいがないようなものだったから、これからは、他に生きがいを見つけるしかありません。だから、今後は80パーセントの力を仕事に注ぎ、20パーセントは他のことを探そうと思っています。

米山氏のあとがきに、大学病院を辞める決意をしたときのことについて、次の言葉があります。
「1年後には辞職しなければならない状況に追い込まれたわけですが、自分の気持ちが決まって楽になりました。自分の能力を見出して、目標を立て、実現していくには1年は充分に長い。」

私も仕事を始めて4年がたち、1年後には5年が過ぎることになります。そろそろ潮時かもしれません。続けるにしろやめるにしろ、これからの1年間で、新しい自分の可能性を見つけ歩んでいきたいと思いました。

結局、100パーセント全力投球っていうのは、燃え尽きてしまうんだと思います。「燃え尽き症候群」ってやつですね。
だから、いつも元気に燃え続けるには80パーセントでやっていきましょう。
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全てがうまくいく8割行動術

2008-12-28 20:05:27 | 日記
今、こんな本を読んでいます。

今日、次女が大掃除をしていて、要らない雑誌を処分すると言い、ブックオフにいっぱい売りに行ったんですが、荷物が多いので私も付き合わされてしまいました。
だいたい古い雑誌なんて買い取ってもらえるのかいなと思ったのですが、確かに古い雑誌が店頭に売られているところを見ると、売れないこともないようです。
しかし、何十冊ももって行ったけど、結局130円でした。まあ、いいか。
あとはただで引き取ってもらいましたが、もう資源ごみの回収もないので、部屋が片付いただけいいです。
ブックオフには、元が1000円くらいするお料理の本なんかも100円くらいで売っていて、これはいいなあと思いました。
でも、また本が増えちゃうので、大きな本は買うのをやめました。

引取りの計算をしてもらっている間、店内を見ていて、米山公啓の「すべてがうまくいく8割行動術」という本を見つけました。
以前、私はこの人の本にはまっていっぱい文庫本を読んだことがあります。だから自分と波長が合うのは知っているので、なんかすごく懐かしい気がしました。100円とはいきませんでしたが、元値の半額350円で買ってきました。

家に帰って少し読み始めたところですが、この方、大学病院を辞めてしまわれたとのことです。ちょっと驚きましたが、やはり物書きのほうが向いているのでしょうね。

さて、本当に「すべてがうまくいく」ようになるかわかりませんが、正月休みに読んでみようと思います。
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「おばさん」

2008-12-28 12:12:18 | 日記
過去に日本語教師を脱落し、現在、非正社員である私にも、いとも簡単に認められるラベルがある。
それは「おばさん」だ。
これは、世界中の誰もが認めてくれるカタガキである。
こんなに簡単に認められるものは、ぜんぜん価値感がない。
一見、不名誉な印象のラベルだ。

しかし、考えてみると、いつか「おばさん」ということが認められなくなるときがくる。
「私はおばさんです」と言っても、「おまえは、ばあさんだ、おばさんじゃない」と思われるときがくるだろう。自分で鏡を見つめても、そこには「おばさん」じゃなくて「おばあさん」が映っている日が来るわけだ。そんなのいやだと思っても、「おばあさん」にならないんだったら早死にするってことだから、ぜひともいつかは「おばあさん」になりたいと思わなければいけないことになる。

図書館で借りた古館牧子さんの本はほとんど読まないで返したと書いたが、全く読まなかったわけではない。その中の対談は印象に残っている。
自分の若い頃の写真を見ると、若くてきれいだったな、と思うものだ。もう、そのころの若さはない。しかし、20代に撮った写真より30代のほうがふけているとはいえ、それは40代の今よりは若く、きれいである。
ということは、これからどんどん年をとって汚くなっていくのだったら、今の自分が一番きれいだということだ。
「今が一番きれい」なのだ。
そんなことが書いてあった。

だから、今光り輝かなきゃいけないよね。
ああ、いつのまにか、「おばさん」になっちゃった・・・と嘆くよりも、まだ「おばあさん」じゃない自分を、しっかりと光らせて磨かなくちゃいけないってことですね。
また、たとえ「おばあさん」になっちゃったとしても、来年の自分より今年の自分のほうが、明日の自分より今日の自分のほうが若さという点できれいなのだから、この今現在に磨きをかけて胸をはればいいんだと思う。

「おばさん」でいられるのにも限りがある。「おばさん」である今も貴重なひとときです。

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私は会社員

2008-12-28 01:01:53 | 日記
私は何者なんだろう?という記事を数日前に書きましたが、今日「カイシャインの未来」を読んでいたところ、その前書きの中に「カイシャインは、会社で働いて給料を得ている人のことである。」と書かれていました。
だから、それが正社員であろうとパートタイマーであろうと派遣社員であろうと、「会社で働いて給料を得」ていれば「カイシャイン」なわけなのですね。なるほど、これはわかりやすいです。私はれっきとした「カイシャイン」だったようです。

私は、パートタイマーで、ちゃんとした正社員じゃないし、良妻賢母のちゃんとした主婦じゃないし、誰でも入れる通信制の放送大学生だから、ちゃんとした大学生じゃないと言えばそういうわけで、ちょっと悲観的になりますが、それで良しとするならば、私は会社員でもあり、主婦でもあり、学生でもあって、恵まれた人間だとも言えるのかもしれません。

しかし、「私はカイシャインだった」と思うと、何か急につまらない職業だな~と思えてきたりします。
その中でも「会社人間」とは、会社のためにすべてをささげている人です。一般的に、これほどつまらない人間はいないと思われていますが、会社の中で有能とされていることはけっして悪いことではないと私は思っています。会社員でありながら会社で有能とされない人間がどこで有能とされるのか、その人間が、会社以外の場所で魅力を発していたとしても、会社の中で無能のレッテルを貼られていたらおしまいです。できればいろいろな場で魅力や才能を発揮し生きがいを持つことのできる人がいいでしょうが、まず基本的に会社の中で能力を発揮できなければつまらないだろうと思います。私はかなり会社中心主義かもしれません。
だから、それなりに会社の仕事のために、努力を惜しまない生き方が好きです。

カイシャインとはあまりにも範囲が広く、漠然とした言葉です。どのような分野の会社なのかわからないし、また、会社の中で営業をしているのか経理をしているのかでも、全く専門性が違ってきます。私はたとえばその会社の業務に関する知識に長けているとか、その人の従事する仕事内容に長けているといった、専門的能力を重視したいと思います。

プロの営業マンとか、プロの秘書とか、プロの受付とか、そういうかなり狭い範囲のはっきりした専門性を私は求めます。自分は何者であるのかというとき、漠然としたオールマイティーのカイシャインではなく、そういう具体的な何者かでありたいと思います。

急に話は変わりますが、先日、沢尻エリカ(22才)が44才の男性と結婚することになったというニュースが流れました。テレビ番組を見ていると、この沢尻エリカという人は、自分が何者であるかというレッテルを貼られるのが大嫌いな人であり、女優というレッテルを付けられたくないし、沢尻エリカはこういう人だという風に決め付けられるのが大嫌いなのだそうです。歌を歌ったところで歌手だとされるのもいやであり、そうなるとゲイジュツカというのかヒョウゲンシャというのか、あるいは、そういう内容も一切なく、「サワジリエリカ」という個人名でしか意味できないものになろうとしているのかもしれません。つまりこの人の職業は何かといえば「サワジリエリカ」という、世界にひとつの何ものにも分類できない職業ということになります。結婚相手の男性の仕事も強いて言えば「ハイパーメディア・クリエイター」とかいうもののようですが、なんかよくわからない職業らしいです。沢尻エリカはけっして「医者」や「青年実業家」などというわかりきった内容の職業の人と結婚したりはしないのでしょう。

何者にもなりたくなく、何者にもしばられたくない。これは私の希望とは全く逆だなと思ったしだいです。私はだいたい肩書きの書かれた名刺がほしいわけです。
そして、もし自分が映画なんかに出ることのある人間なら、絶対に「女優」というものになりたいです。だって「女優」になるということはとても難しいことでしょう。たったひとつの「女優」という肩書きをえることさえ難しいのに、その肩書きがうっとうしいなどというのは、バチがあたりそうです。一生女優で居続けること、生涯をそれにかけることができれば本望です。しかし、そうなれる恵まれた才能がありながらも、それを拒否するというのは全く贅沢な話です。
だから、本当に沢尻エリカの気分は理解できません。

才能のない人間は自分の職業がほしいし、自分が所属するものが欲しいけど、才能のある人間は何も欲しがらないものなのでしょうか。
エリカ様のような人にとっては、能無しオバサンが自分を「カイシャイン」に分類できたなどといって喜んでいる気持ちは、まったく理解不能でしょうね。


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海行き

2008-12-27 21:07:20 | 日記
「海行き」は、単行本「風化する女」に載っているもう1つの作品。
これは大学生時代、同じ趣味を持ち、本当に気心が知れ、親しくしていた友人3人(女2人・男1人)の仲間が、30代に近くなって再会する機会をもち、昔やそれまでの経緯を思い出しつつ、再びいっときの楽しい時間と行動を共にするという話であり、彼らはそれぞれの人生を歩んでいくというものである。
ほのぼのとした作品だった。

こういうことってよくあることだ。学生時代同じものを志したり、同じ趣味に打ち込んだりして、意気投合したような友人というのは、その若い頃の行動が、あとになってどんなにお粗末であったかに気がついても、バカだったとしっても、その当時の感覚や乗り、信頼感というものは、消え失せやしない。要するに青春を一緒に過ごした者同士の貴重な共感というものだろうか。

しかし、それはやはり一時味わうものであり、その時代が戻ってくるのではないのだ。だから、いわゆる同窓会のようなものは、何年かに1回会うくらいでいいだろう。
ああ、やっぱり昔の仲間はいいなあ、と思うし、今は今で頑張ってるじゃないと思う。昔もそうやって心を通わせた仲なのだから、それがそう簡単に壊れるものでもないし、そういう要素は年をとったからといって変わるものじゃないんだ。

でも、やっぱり青春は終わっているんだよね。
こういうつながりの人間関係は、その過去があるから今もあるわけで、そういう過去をもち得なかった人にはないわけだ。だから、人はそのときそのとき、人生を共感できるような人との関わりを作り続けないといけないのではないかと思った。
老人になってから、こういう仲間との再会があるとしたら、それは何も大学時代の友人に限らず、子供の同級生のお母さん仲間とか、パートタイマーの仲間とか、そういうある時期たまたま行動を共にして共感した人たちでもあるかもしれない。

私が学生時代、時間と行動を共有して心を通わせた人たちは、高校時代の演劇部の仲間と、短大のとき近所に下宿していた友人くらいである。その人たち以外にいないのだから、それは貴重な存在である。だから今でも大好きだよ。でも、だからといって、今その人たちと昔のように心を解け合わせることができるだろうかっていうと、どうなんだろう。
あの時たのしかったね、と思うけど、今現在の再会は私はそんなに居心地のいいものではないような気がする。

青春の思い出はいいもんだ。そこで築いた人間関係は今でも終わったわけではない。そういう思いを心の中に温めながら生きていくことはできるように思う。ただ、やっぱりどこか哀愁がただようなあ。
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風化する女

2008-12-27 16:42:50 | 日記

このあいだ、内舘牧子さんの著書などを図書館に返しに行き、代わりに木村紅美という人の「風化する女」、浅川純「カイシャインの未来」などを借りてきました。
前回借りた本は、またもやほとんど読まないまま返却期限を10日以上過ぎてしまっていました。
こういうのをちゃんと期限どおりに返さないというのが、常識人間として失格行為といえるので、自分の習性について反省しきりです。こうなった以上、せめて督促状が来る前に返却するしか、できることはありません。督促状ははがきで来るので、少なくとも送料が50円かかります。ということは、税金の無駄遣いです。
これが民間だったら、レンタルビデオの店のように、延滞料をとればいいです。1日延滞するごとに50円取るとかすればいいです。そうすれば、図書館は出費ではなく収入になるはずです。しかし、そのようなシステムはありません。そのへんが、公共のものというのはおかしいんじゃないか、もし延滞料を取られるなら、私のようにだらしのない人間でも、絶対にちゃんと返却期限を守るでしょう。そのような決まりごとがないということは、期限を守って返却することはそれほど重要なことではないのかもしれない、などと思ってしまうわけですが、とにかく、督促状を受取るのはやめにしたいものだと思いました。

「風化する女」
どうしても、こんな題名にひきつけられて本を借りてしまう私は、私自身が「風化する女」だからなのでしょう。43歳独身会社員のれいこさんは、1人部屋で亡くなってしまいます。彼女は誰からもあまり関心ももたれず、好感度や人気の薄い女性でした。その彼女の生き方を真面目に把握しようとしたのは、同じ会社でたまたま少しだけ親しかった主人公の女性だけだったのでしょう。
1人の人間が誰にも理解されないままこの世から消えて行く、その女性が思いを寄せていた男性さえその存在すら意識していないようなことさえある。
なんだか、悲しい話です。でも、こんなことよくあることかもしれません。

女が長い間会社勤めをしていると、もう美しさとかかわいさとかそういうことで評価されないので、きっちり仕事をするしか生き延びる方法はないけど、そのきっちり仕事をしていることさえもが、あまり意味をなさないものになってしまう。
そこで、誰にも理解されなくとも自分は組織の歯車として役に立つことをしようという信念のもとに、自分なりのポリシーをもって生きていく。そんな人がある日突然この世から消えたところで、会社はその人に何ら期待をしていたわけでもなく、変化はないし、人々の意識の片隅にも残らないことがある。
それが現実だ。
ただ、誰かがそういう命に着目したからこそ、この小説が存在する。
だから、そこに救いがあるっていえばあるのだけど、やっぱり風化するものは風化してしまうのだから、もうどうしようもない。

なんか、現実が身にしみるような話だ。

もっと景気のいい、ハッピーな題名の本を選ばないといけませんね。
しかし、そういうのは、あまりにも自分とかけ離れすぎて、余計にげんなりしてしまうので、やっぱりこのような本が自分の波長に合ってしまうのかと思います。
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どうも要領が悪い

2008-12-26 20:02:14 | 日記
今日は、今年の出勤日最後。昨日4時の時点で今日締め切りの文書4件を抱え、そのうちの1件を残業でやっつけた甲斐あって、今日はなんとか大丈夫そうだった。
そうしたらさらに1件最終チェックのものが入ってきたので、ちょっときつかったが、昼休みも20分間くらい仕事をし、3時から大掃除のところ、なんとか2時45分に全件終了。
よかったよかった。しかし、それから所定の作業記録に記入事項を記入し、週末と月末に提出する自分の日報と勤務報告を書いて提出しなくちゃならない。勤務報告書を書く前にもう3時になってしまった。

同じ仕事をしている同僚はといえば、もう昼ごろの時点で日報や勤務報告を書いていたようだった。そして、3時前には、ちゃんとエプロンをして、窓のブラインドを開け始め、掃除に取り組んでいるではないか。
私はといえば、まだパソコンに向って日報や勤務報告に血眼になっている状況。
気がつくと、周りの社員もみなパソコンのスイッチなど消し、天井の蛍光灯をはずし始めていたから、あせって中断し、自分の担当場所に走っていった。

実は私もエプロンを用意してあったのだが、エプロンをする暇さえなかった。掃除の担当場所は、組織図によって所属している部署であり、自分が日ごろ居る場所ではなく、ちょっと複雑である。男性社員がはずした蛍光灯を拭いたり、台や器具を拭いたりした。
全員でやったので、ものの30分で終わってしまったから、自分の場所に戻り勤務報告の続きを書いたり机の中を整理したりしていた。

その後、掃除用具の片付けなど手伝いに行くと、同僚はパソコンに送られてきた掃除分担表をちゃんと印刷して持っており、それにしたがって的確に行動しているところだった。
実は、私も掃除前にその分担表を確認しようと、パソコンに送られてきたメールを探したのだったが、あせっているせいもあり結局みつからず断念して、数分の遅刻で担当部署にかけつけていたのだった。
全く、他人からみると使えない人間だな、と思う。

そういえば、今日の昼休みは会社の中がやたらと静かだと思ったら、なにやら外食に行った人が多かったようだ。年の最後だからなのだろうか。私たちがいつも5~6人で食べているテーブルも、今日は配属部署の社員同士で食べに行った人や、パートタイマーの同期同士で食べに行った人などがいて、集ったのは2人だけで、ちょっと寂しかった。まあ、1人じゃなくてよかったが・・・。もうこのへんから他の人は年末お祭気分のようである。

そして、掃除の後の納会である。今年は参加してみようかなと思っていたところ、午前中に送られてきたメールに、「ゲームのためのグループ分けをしました」というのがあり、「パートタイマーの人は参加確認がされていないのでグループのメンバーに入っていません」とのこと。「もし、参加するのであればその旨申し出るように」とのことだった。
わざわざ申し出てまで参加させてもらうのも面倒だし、それに返信を送り返す余裕もないほど忙しかったので、そのままにしたため、結局参加はせず早々に帰宅した。年末の挨拶などもする気にはなれなかった。

それにしても、この会社というのはだいたいこんなふうなのだ。総務で「パートタイマーの方もぜひご参加ください」などという建前のメールを送って来るのだが、幹事は出席確認をするでもなく、あらかじめ「出席しない」という「前提」でコトが運んでいる。そして、直属の上司から「参加してください」というふうな誘いをもらったこともないし、「参加しますか」と聞かれたことも一度もない。結局はパートタイマーというのはそのような催しとは関係がないものだ、という意識に支配されている。
今日出勤しているパートタイマーはわずかなので、内線電話1本で参加するかしないかを聞き、それからグループ分けすることもできるはずだと思うのだが、そうしようと思わないこと自体、もうその根底に流れる意識は見え見えである。
「パートタイマーはお呼びじゃない」の一言に尽きる。

そもそもパートタイマーが正社員と同じというふうに思うのが大間違いで、こうなったらそのような催しには一切参加せず、わりきって働くのみである。

ひさしぶりに明るいうちに帰ってきて、のんびりとすることができた。
明日から9日間の休日である。



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へとへと

2008-12-26 02:10:25 | 日記

私の勤める会社は、明日までの営業ですが、そのため、年末の最後の追い込みになっています。
今日は2時間半の残業でした。社員さんたちが、書類のチェックの依頼をいっぱい持ってくるので、もう必死です。
明日の午前中にやってしまうのが望ましいのですが、ここに来て普段の3倍くらいのものを持って来られては、こっちもたまりません。
もう少し早めにやっておくことはできなかったのでしょうか。しかも、内容がめちゃくちゃのものもあり、チェック者にみつけてもらって直せばいいやという他力本願のような感じです。完成度が低いとさらにチェックに時間がかかってしまいます。

幹事の社員は、明日の夕方に開催される納会の準備で忙しそうですが、その忙しさというのは、日常の仕事に追いたてられる忙しさとは違い、いろいろなイベントを企画したり、物を用意したりと、なにかとにぎやかに笑いながら往来しています。
それもそれで重要なことでしょうが、こっちが血眼になって仕事をしているのは、納会と大掃除で仕事時間が大幅に減るせいでもあり、このような年末行事がそれほど重要なものなのかとついつい思ってしまいます。
社員は4時から納会となり、仕事時間が短縮されても給料は丸々もらえますが、パートタイマーは普段5時以降まで働く契約の人でも、仕事は4時までということになってしまいます。仕事を消化するためには、早く来たり昼休みを削ったりしなければならない状況で、その部分は時給には換算されません。このような厳しい環境の中で、能天気に納会などを楽しむ気にもなれず、出ようか出るまいか悩むところです。

さらに、来年からパートタイマーにお茶やお湯の準備、テーブルの雑巾かけなどをする仕事を増やすということで、よりによって明日その仕事について説明があるとのことです。来年から始めてもらいたいとのことのようですが、なんでこの忙しいときにそんな説明に時間をとるのか、よほど暇なのかなと思わざるを得ません。
それに思うところ、お茶入れというのは、社員さんが出社する前に用意するとなれば、今までよりも早く出社しなければならないということになります。時給で働いているのだから、15分早く出社するなどとなるのは納得できません。
以前そのような仕事をしていたパートさんは、朝と昼休みと帰りにその仕事が入るため、かなり時間が奪われると言っていました。思うように休暇を取ることもできないとも言っていました。なんか憂鬱です。

時給が20円上がったのですが、1日120円収入が上がるということです。しかし、そのために、今よりも15分早く来て15分遅く帰るようなことになるなら、全くの損です。
このあたりは、しっかり主張したいところですが、明日はそのようなことに長い時間をかけられる状況ではないため、どうなることやらです。

とにかく、預かった書類のチェックを全件処理すること。
それだけが、重要事項!
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今年やり残したこと

2008-12-23 15:20:54 | トラックバック練習・ご意見板
トラックバックご意見板のランキングによると、今年やり残したことは

1 貯金
2 ダイエット
3 片付け
4 旅行
5 資格取得

ということです。

すごい、私も全く同じです。みんな考えることは同じなのかな。

まず、1の貯金
これは、今年やり残したというよりも、もうずっとできないで来たこと。
今年はパートタイムの収入から毎月5000円ずつ積み立てをしてわずかに自分のへそくりを作りはしたものの、年間6万円じゃどうにもならない。来年はがんばって毎月1万円にしようかと思っているけど、それでも大した金額にはなりません。でも、全くしないよりはマシなので、少しずつでもしようと思います。

2 ダイエット
秋から休日には区の体育館にエアロビクスなどに出かけたものの、11月からは足が遠のき、12月こそはと思ったのに、結局忙しかったり気が乗らなかったりで、運動はしていません。だから、太ったままです。これも来年はやりたいと思うけど、なにぶん用事が入ったりして運動に行くのは難しい状況です。こうなったら、やはり食べ物を減らすしかなさそうです。

3 片付け
職場の自分の場所は散らかってはいません。しかし、自宅は大変なことになっています。片付けようと手をつけても、結局のところ途中で挫折してしまい途方にくれるばかり。
片付けようとしたのが、余計に汚れるという結果に陥ることばかり。
来年は、この家を引越す可能性大です。それを機会に要らないものを処分しきれいに片付けたいと思います。

4 旅行
春には夫婦で念願の北海道に行ったし、秋には栃木のほうに友人と日帰りバス旅行に行ったので、まずまずの満足ですが、秋に行きたかった小旅行の熱海は行かないまま終わりました。また、実家の母と一緒に温泉旅館にでも泊まりに行こうと思っているのですが、なかなか実行に移せないまま月日が過ぎています。来年は、実家の母との旅行を実現したいと思います。

5 資格取得

今年取った資格は、「2級知的財産管理技能士」というものです。これは「知的財産検定」が国家資格になって名前も変わったものです。以前「知的財産検定2級」を取っていたので、移行するための特例講習を受けて合格証書をもらいました。合格証書はつい最近、12月20日ころ送られてきました。

そのほかには、6月に放送大学の「芸術系博物館」の認証状をもらいました。

今年、形になったのは、この2つでしょうか。

つい先日、ECO検定(環境社会検定)を受けて、多分受かっていると思いますが、結果は来年になるので、これはまだ形になっていません。

それでも、1年間にこのくらいとればヨシとしようかなと思います。

ただ、いつだったか著作権検定初級を受けて落ちたままになっているので、これは近々再チャレンジしなくちゃと思っています。また、何年か前に中国語検定3級を受けて5点くらい不足で不合格だったので、これもいつか合格したいなと思っています。

そして、1~5以外ですが、
6 家庭サービス ・・・しなかったな、と思います。
家族のためにおいしいご飯を作るとか、来年はもう少しちゃんとしたいと思います。子どもたちも社会人になって、毎日一緒に暮らしているということはない状況になりそうですが、せめて家にいるときはご馳走でも作ってやりたいです。

来年もよい年になりますように・・・。

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