(ウー・ソウの失望、バー・モウの証言)・・・前編
高山:そうした伝説の存在は、ビルマ人も、マレーシア人も、インド人も、みんな無意識に日本の力を当てにしていた証左かもしれない。
当時のビルマ首相ウー・ソウのことを思い出しました。彼は1941年10月、ロンドンにチャーチル首相を訪ねています。イギリスはビルマを支配するにあたって大多数を占めるビルマ人を軍隊から遠ざけ、少数民族のカレンを軍の主体としていました。その結果、第一次大戦ではビルマからの派遣軍はインド軍60万に対して1万に過ぎなかった。
ウー・ソウはこれを交渉材料に、チャーチルに「将来、独立を約束してくれるならビルマ人を戦場に出す」と申し出たのです。チャーチルは彼をさんざん待たせたあげく、「国家体制の問題は戦争が終わるまで待つように」と言った。ビルマの独立などまったく考えていないということです。
それでもウー・ソウは諦めず、大西洋を渡ってアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に会いに行った。会見を待つ間に彼は『TIME』誌に寄稿しています。
「ビルマが知りたいのは、われわれはいま世界の自由のために戦っているが、それはビルマ自身の自由のためでもあるのか、ということだ。完全な自治はビルマ国民の一致した要求であり、それは大西洋憲章が制定される前からの願いだ」
しかし、先ほどの日下さんのご指摘どおり、民族自決、国民の望む政府など理想に満ちた大西洋憲章を書いた当のルーズベルトに、盟友英国の植民地を解放させるような意図は毛頭なく、ここでもウー・ソウは失望させられた。
失意のままラングーンへ帰る途中、彼は乗り継ぎのハワイで日本軍による真珠湾攻撃に出くわすことになった。彼は帰国ルートを変え、再びアメリカ本土を経由して12月末にリスボンに入ります。ここからの彼の行動が東京・飯倉の外務省外交史料館に残っている。
「12月31日午前、ビルマ首相ウー・ソウが密かに大使を来訪せり。ハワイより引き返し大西洋を経て当地着。帰国のため飛行機待ち合わせの間を利用して苦心来訪せる趣なり。その申し出は下記の如し」
「いまやシンガポールの命運旦夕(たんせき)に迫りビルマ独立ための挙兵には絶好の機会と認められる。日本がビルマの独立尊重を確約せらるるにおいてはビルマは満州国のごとく日本の指導下に立つ国として日本とともに英国勢の駆逐に当たり、また、日本の必要とする資源はことごとく提供するの用意あり」
1942年1月1日付「東郷外務大臣宛。発信人、千葉公使」の公電は植民地ビルマの首相が英国を見限って日本陣営に加わるという、信じられない申し入れをしたことを伝えているのです。
ウー・ソウが、白人社会のリーダー2人から受けた失望の直後、同じアジア人が見せた真珠湾での驚くべき戦果を見せつけられた、その衝撃の大きさが彼の提言からもうかがえます。
ところが、すでにその頃は、日本の外交文書は連合軍の暗号解読システム「マジック」によって細大漏らさず米英の知るところとなっていましたから、ウー・ソウはこの翌日、ジブラルタルから飛行機に乗ってナイロビに着いたところでイギリス側に逮捕され、日本の敗戦の日まで同地の刑務所に監禁されてしまう。日本を当てにするのが遅すぎました。
この事件を知ったルーズベルトはチャーチルに手紙を送っています。
「私はビルマ人が好きではありません。あなた方もこの50年間、彼らにずいぶん手を焼かれたでしょう。幸い、(日本と手を結ぼうとした)ウー・ソウとかいう彼らの首相は、いまやあなた方の厳重な監視下にあります。どうか、一味を一人残さず捕らえて処刑台に送り、自らまいた種を自ら刈り取らせてやるよう、願っています」(ジョン・ダウ―『容赦なき戦争』)。
---owari---
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