(殺生に関する「道徳」と「法律」の共通点)
これについて、道徳で言えることは何でしょうか。
それは、法律で言われていることと同じではありますが、「自然状態、つまり通常の個人の生活状態において、生けとし生けるものは慈(いつく)しむべし」ということです。
これは当たり前のことではありましょう。やはり、人間であろうと、動物であろうと、植物であろうと、命あるものに対して、無駄に、いたずらに、命を奪ってはならないのです。
この世において、すべてのものが、その使命を全(まっと)うしようとして、また、その人生を全うしようとして努力しているわけですから、そうした幸福感を、むやみに奪い去るべきではありません。「一生、幸福に生きたい」という人間を、何の理由もなく殺したり、重傷を負わせたりするようなことは正しいことではないのです。
もちろん、「生きていくために、動物を食べなくてはいけない」という人間の性(さが)があるため、必要な動物や家畜を殺さなければならないこともあるでしょう。そういう運命もあるので、確かに気の毒だとは思うし、それなりの悲劇は起きているのだとは思います。
ただし、必要以上のものを殺したりすべきではありません。また、その反面には、「食料がもったいない」という思想もあって、「『無駄に殺して、食べないで捨てる』というようなことをしてはならない」といった考えも出てきます。
あるいは、「植物であっても、みだりに傷(いた)めてはならない」という感じは出てくるでしょう。やはり、花壇に咲いている花を折ったりするべきではないのです。私も、幼稚園のころに悪さをしたことがあるので、恥ずかしいかぎりではありますが、こうしたことをすると、道徳的には必ず怒られます。花が咲いて、みなを楽しませているにもかかわらず、花を折ることで、花自身の寿命を終わらせたり、周りの人の喜びを奪ったりするようなことは迷惑行為なのです。
したがって、一般的に、平時においては、そういう価値観は守られるべきだと思います。
(「ナチスの大殺戮(さつりく)」を見て平和への考え方を変えたアインシュタイン)
しかし、「国家の緊急事態的なこと」になってきた場合、考え方を変えなければならないことがあります。
要するに、自分個人の命を全うする尊さを選ぶよりも、もっと大きな価値を守らなくてはいけなかったり、国土のために戦わねばならなかったりすることがあるわけです。
例えば、第一次大戦が終わったときには、アインシュタインも、「いかなる理由においても、人殺しは犯罪だ」というようなことを言っていたにもかかわらず、ナチスが登場したことで、その考えを変えました。
彼は、「ナチスが六百万人ものユダヤ人を殺す」という大殺戮が起きたのを見たわけです。もちろん、彼自身は、運よくイギリス経由で逃れることができたものの、あの大殺戮を見て、「絶対に人を殺してはならない」という考えについて撤回しました。
そして、第二次大戦からあとは、「私は、人殺しには反対だ。平和を愛する者である。しかし、そういう私であっても、私自身を殺しに来る者と、私の家族を殺しに来る者に対しては、銃を持って戦う」というように考え方を変えたのです。
第一次大戦のときには平和主義の同志だったロマン・ロラン(フランスの作家 )などと袂(たもと)を分かつことになったとしても、「やっぱり、それについては許せない」ということだったのでしょう。これは、ユダヤ人虐殺(ぎゃくさつ)など、ナチスのさまざまな恐怖を経験した者の言葉なのだと思います。
実際に、理由なく大勢の人が殺されるのを知ったときに、「私だって戦う。自分を殺しに来る、あるいは自分の家族を殺しに来る、さらには、自分の友達を殺しに来る者たちに対しては、自分だって抵抗するし、立ち向かう」というようなことを言って、彼自身、考え方を変えました。
このあたりは一つの参考になるのではないでしょうか。
アインシュタインは、当初、「二パーセントの人間が兵役(へいえき)拒否すればいい。それだけの人間を刑務所に放り込んだら、刑務所は満杯になるので、国家は犯罪を取り締まれなくなり、国家的な暴力ができなくなるのだ」というようなことを言っていました。ところが、考えをガラリと変えたということは、「観念的な平和論」から、現実的なことへの気づきがあったのだと思うのです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます