(「岳飛伝―THE LAST HERO―」に見る“戦う者の美学”)
「岳飛伝(がくひでん)―THE LAST HERO―」というDVDを観たのですが、これは、宋(そう)という国が、ちょうど終わりを迎えていくころの話です。
当時、金(きん)という国が強くなってきて、南下して宋を攻め、宋は、いわゆる南宋のほうに押し込まれていきました。皇帝自身も南へ南へと逃げていき、とうとう船に乗って、宮中が海上にあるようなところまで押し込まれてしまいます。そのようななかで、“ザ・ラスト・ヒーロー”として岳飛が登場し、戦っているという状況です。
まだ、すべて観終わってはいませんが、中国でも、「国を護るために戦ったヒーローは偉いものだ」というふうに見ています。やはり、「外敵に対して戦う」というのは偉いわけです。
ただ、戦いをする者でも、自国の国民をいじめたり、凌辱(りょうじょく)したり、略奪したりするような軍隊は嫌(きら)われます。一方、徳と節度を持ち、軍規を守る者は、尊敬の念を持たれます。そのように、戦いの専門家においても、「規律を守るかどうか」「民に対する考えや思いはどうか」というようなところで徳を測られるものなのです。
やはり、そこには、“別の美学”が働いているのでしょう。人類史のなかには、いろいろなことがあるので、完全には避(さ)け切れないものがあるのです。
(「マクロの観点」の善悪は、人間心ではなかなか分からない)
マルチン・ルターは、バチカンの金集めについて、「サン・ピエトロ寺院を建てるために、『チャリンチャリンと金の音がするたびに天国が近づく』などという文句でお金を集めているのはけしからん」と思ったわけです。そして、『聖書』による救済、万人司祭主義を唱えて、思想的にぶつかりました。
しかし、それはそれとして、ぶつかってもいいけれども、その後、大きな宗教戦争が起きています。三十年間ぐらいの大きな戦争が起き、人口が何分の一かに減るようなことがあったわけです。
それだけの戦争を起こすのは、神の力なのか、悪魔の力なのか、分からないところもあるでしょう。人類史上、どう判断すべきか、問題はあると思うのですが、そうした主義・主張や信念のために、人は戦うこともあります。また、それが正しいかどうかは、その時点で分からないこともあるのです。
あるいは、イエス・キリストが出てこなければ、イエスを信じてついていく人もいなかったでしょう。もし、イエスを信じてついていく人が出なかったとしたら、ローマによる三百年以上の迫害もなかったわけです。
もちろん、ローマだけではなく、滅びるまでのユダヤの民による迫害も受けました。旧宗教としてのユダヤ教による迫害と、ローマによる迫害と、両方を受けています。そして、たくさんのキリスト教徒、キリスト教の洗礼を受けた人が殺されました。ライオンに食べられたり、十字架にかけられたりしたわけです。
これに対して、「イエスが出なければ、こういうことはなかった。人が死ななかった。そのほうがいいから、イエスは出るべきではなかった。このときに出たイエスは、悪魔の代理人だった」というような考え方をする人もいるかもしれません。
確かに、「地上の命や安楽こそが最大の幸福だ」と考えるのならば、そういう人には出てきてもらわないほうがよいでしょう。「争いを起こすような人は来てくれないほうがいい」ということになります。ミクロの観点、あるいは個人の人生から見れば、そうなるわけです。
ただ、二千年の歴史から見た場合、もし、イエス・キリストが出なかったら、人類のその二千年間に、大きな空洞のような穴があいたことは事実でしょう。やはり、この間、地上の人類の精神史が数多くつくられてきたことは間違いありません。また、トータルでの“損得計算”は、天上界でなされているものだと思います。
確かに、戦いの過程で、いろいろな悪魔も生じたであろうし、憎しみや被害もたくさん生じたでありましょうが、こうしたマクロのことについては、人間心では分からないものがあります。
そういう意味では、こうした全体について、「道徳」で語ることは難しいかもしれません。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます