今日から日下公人・高山正之(対談)著書「日本はどれほどいい国か」より転載します。この本には副題があり、「何度でも言う、『世界はみんな腹黒い』」と付けられています。
(「孤立」よりも「隷従(れいじゅう)」のほうが恐ろしい)
日下:マスコミなどが「アジアとの友好を大切にせよ」と叫ぶとき、彼らの言うアジアはどこかといえば、だいたい中国、韓国、北朝鮮といった「反日」を国是にしている国ばかりです。なぜもっと広く見渡さないのか。見渡すと、「反日」が大好きなマスコミにとって“不都合な真実”を語る国々があるからですね(笑)。
それから、「そもそも諭」をいうと、友好は結果であって、国家が外交において追求するのは国益であり、名誉を守ることです。そのためには対外的な摩擦があってもかまわない。今は政治家も、マスコミも、経済人も、そろって「日本が国際的に孤立することはいけない」としか言わない。
それは、「孤立してもよい」という考えのほうが日本にとって都合がよいという状況があり得ることが想像できないからです。こちらのほうが付き合う相手を選べる立場にあることがわからないようでは、いつまで経っても国際社会で主体的な振る舞いはできない。
友好や親善に失敗すれば国際的に孤立し、孤立すればイジメがやってくる――こう考えるのは間違いです。国際社会は、力のある国を孤立させることはできない。力のない国、力のないフリをする国がシカトを受けるのです。
北朝鮮の核問題をめぐる六ヵ国協議で、アメリカが日本の拉致問題を置き去りにして、北のテロ支援国家指定解除に走ろうとしたときも、日本がアメリカとの友好や親善に尽くさなかったからではない。アメリカが始めたイラク戦争に支持を表明し、自衛隊を派遣するなど、むしろ尽くしたから軽く見られて、アメリカの自己都合を優先された。
国際親善を第一にして周囲との摩擦回避に努め、相手の要求を受け入れ続けた結果、日本はいくらでも譲歩する国だという印象を世界に固定化させてしまった。いまや「日本の存在は無視してかまわない」と他国は思っている。ここらで孤立よりももっといやな、惨めなこと――屈従や隷属――があるということに気づかねばならない。
戦前までの日本人が偉いのは、一国の独立がいかに大変な緊張をともなうかを、身をもって知っていたことです。それに対して戦後の日本人は、日米安保体制という事実上の隷従を、「同盟」という名で糊塗(こと:あいまいに取り繕っておくこと)することで、まったくわからなくなってしまった。
アメリカ・オンリーになったことで、こちらが主体的に付き合う相手を決めるというセンスを失い、中国にも、韓国にも、北朝鮮にもそれを見透かされて揺さぶられています。
高山:『産経』の記者時代、イラン・イラク戦争の取材や、国連指定の「アジアハイウェイ」を走るという国連協賛の企画で、ベトナムからトルコのイスタンブールまで走破したことがあります。こうした海外特派員としての経験から言うと、「アジアは一つ」などという考え方がいかに幻想にすぎないかがわかる。
宗教、人種、言語ともに多様で、私見ではバングラデシュ以西では日本人の価値観がまったく通じない。ただ、中国や韓国などとはまったく異なる視点から日本を評価する国がたくさんあるのはたしかで、その根底にあるのは、日本が近代西欧と対峙したということにあります。
たとえばイランを視界に入れて歴史を見ると、ギリシャでもローマでも、ペルシャ(イラン)を制することが当時の覇権国に躍り出る道だった。紀元前478年、サラミス海戦後にアテナイを中心にエーゲ海諸島と沿岸諸都市がペルシャの来寇(らいこう:外敵が攻めてくること)に備えて結んだデロス同盟は、まさにアテナイの覇権確立につながったものですね。
アレキサンダー大王も、ペルシャ王ダレイオス三世の軍を破ってペルシャ、シリア、エジプトを征服し、そこからインドに攻め入ってバビロンに凱旋している。この大王によってギリシャ文化が東方に伝播したわけですが、彼らはそもそも前559年のアケメネス朝のキュロス二世がペルシャを建国し、オリエント世界の統一に成功して以来、世界史上で自らがその巨大な存在の一つだったということに、日本人には想像もつかないような強烈な自負心を持っている。
それが、たとえば日本の戦った日露戦争やその後の大東亜戦争なども同質に見るところがあって、西欧キリスト白人文明に屈しなかったという“共感”にも通じている。
日露戦争当時、英国、ロシアに牛耳られていたペルシャは、日本勝利の報に接すると、「日本のように強く、日本のように独立を全うするために日本と手を取らねばならない」と新聞が書き立て、やがてレザー・シャー(後に国王)が登場してイスラム国家から共和国に衣替えを急ぐことになりました。
その息子のモハメド・レザー・パーレビは、1941年に国王に即位、1963年にイランの近代化、脱イスラム化を図る「白色革命」に着手しましたが、その目標の一つが「西の日本たれ」でした。
もっともこれは、貧富の差への不満や宗教改革に対するイスラム教徒の恨みを生じさせ、イラン全土に反国王のデモが広がって、1979年、ホメイニ師のイラン・イスラム革命で国を追われましたが、1935年にペルシャからイランに国号を改称し、独立のための近代化を志向させた一因に日本の日露戦争勝利があったのは間違いない。
---owari---
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