(日本が提案した「人種平等規約」はいかにして葬られたか)・・・前編
高山:ついでに当時のオスマントルコにも触れておくと、トルコはエカテリーナ二世時代から19回もロシアと戦って、勝ったのは1回だけ。負けるたびに、ウラルを奪われ、黒海沿岸を失い、カフカスを取られてきた。どうしても歯の立たないロシアにアジアの小国、日本が宣戦布告したのはアブドル・ハミット二世のとき。
そもそも日本とトルコの間には少なからぬ因縁があります。明治23(1890)年、トルコ王族の一人、オスマン・パシャ殿下が日本表敬の帰途、乗艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で台風のため沈没した。オスマン殿下ら587人は遭難死したものの、乗組員69人は漁民の必死の努力で救助され、この事件を機に両国に友好、交流が深められました。だから、仇敵ロシアの対戦国日本は見知らぬ他国ではなかった。
エンギン・ヤズジオウル元駐日トルコ公使に聞いた話によれば、トルコ政府は当時、黒海と地中海を結ぶボスポラス、ダーダネルスの二つの海峡を握っていた。日露開戦となれば黒海艦隊も出動しますが、この海峡が国際協定で軍艦の通行を禁止していたのを口実にロシアの黒海艦隊を通行止めにし、日本に協力したという。
日下さんがおっしゃったように、日本が国益と名誉を追求し、敢然とロシアと戦うことを決意したことでトルコも協力をしてくれた。日本がロシアに平身低頭して和を乞うばかりであったら、こうした敬意と協力は得られなかったでしょう。
日本海海戦の劇的な勝利がトルコに伝えられると、「新聞は自国のものであるかのように勝利の記事で紙面を埋め、市民は街中を歓呼の渦で埋めた。その年に生まれた子供にはトーゴーの名がつけられた」と公使は語っています。トルコの高級靴チェーン店「トーゴ―」も東郷平八郎にちなんだものだといいます。
日下:といって、彼らが日本人に対して“人がいい”ばかりかといえば、全然そんなことない(笑)。彼らは彼らの気持ちで動いている。彼らの価値観と国益を理解したうえで、日本とトルコの友好関係を考えなければなりません。
高山:それから、ペルシャはササン朝時代にゾロアスター教が国教になりますが、642年からアラブ人の支配に入り、イスラム教が強くなる。その後、13世紀に入ってからチンギス・ハーンの孫フラグがアッバース朝を倒して、イル・ハーン国というイランにおけるモンゴル王朝を建てますが、征服された国の常で、モンゴロイド系の混血児がたくさん生まれた。
この末裔はいま、イランの最下層で暮らしています。彼らが生業(なりわい)としているのは、パン焼き職人などで、タンドリーチキンみたいなのを焼いている。熱くて汗まみれになる仕事はモンゴロイド系が継いでいるんです。苛酷な歴史の宿命を彼らはいまも引きずっているわけです。これは、われわれ日本人には、なかなか分からない世界です。
日下:歴史的に、人種や宗教による苛酷な迫害を受けたことがない日本人は、“世界標準”から見れば極めて幸福だった。いや、人種に関して言えば、日本人は実力でその差別を跳ね返してきたわけですが、先の戦争で日本の責任を一方的に論(あげつら)う人たちは、このことがまるでわかっていない。ひどいのになると、日露戦争ですら「日本がロシアに侵略した」などと言う(苦笑)。
当時のロシア皇帝が日本人をなんと呼んでいたか。「マカーキー(猿)」です。彼らにとって日本人は人間ではなかった。たかだか一世紀前まではそんな時代だったという事実を知らず、われわれの父祖が血と命を代償に築いた“遺産”を自明のものとして受け取っていながら、それへの感謝を知らない。
---owari---
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