信玄と謙信を語るエピソードで、「敵に塩を送る」という言葉が有名です。
これは謙信が信玄に塩を送って甲斐を助けたことから、敵を助けるという意味でこの言葉が生まれたとされています。
この話の発端は、1567年、信玄は13年間にも及んだ今川氏との同盟を一方的に破棄しました。そこで駿河の今川氏真は相模の北条氏康と相談し、甲斐の信玄に塩を送るのをやめてしまったのです。甲斐は山国で海がないため、塩を精製できない。塩は生き物にとって不可欠であるため、塩止めされたのは一大事だったのです。
しかし、それを知った謙信は「塩の流通を止めるとは卑怯な行いだ」と怒り、3000俵もの塩をすぐさま信玄へと送った、とされるものでした。このことから、敵を助けることを「敵に塩を送る」というようになったものです。
さて、この話は事実なのでしょうか?
この話は、信憑性の高い古文書や資料には記載されていません。ですが、謙信が今川氏に同調して「塩止め」を行ったという記録はないので、越後は甲斐に塩の流通を続けたということは確かなようです。
現在では、謙信はビジネスのために甲斐に塩を売ったのであって、美談になる話ではないと言った意見がネットでもよく見かける。
本当にそうだったのでしょうか。
確かに、信ぴょう性の高い古文書が残っていないので、逸話の領域を出ないことも事実だと思いますが、謙信が越後から甲斐への塩止めをしなかったことは事実です。
この時、上杉の諸将は十数年にわたる武田軍との苦しかった戦いの数々を思い出し、肉親を、縁者を、友を数え切れぬほど失ってきた恨みを晴らし、雌雄を決するのはこの機をおいて他にないと、謙信に「塩止めのご下知を」と進言したはずです。謙信には当然、「塩止めの下知」は容易であったはずだが、それをしなかった。
謙信は「甲斐に使者を!わしが信玄公と争うは弓矢においてなり、塩、糧食にあらず」と一声。
「義」を重んじる謙信は、武田領民の苦しみを見過ごすことができず、越後から信濃へ「塩を送る」ことを決意したのではないでしょうか。あえて塩止めを行わなかったのです。
この逸話を補強するお話が2つあります。
一つは、「塩の日」にまつわるお話です。現在、1月11日は「塩の日」に定められています。
1568年1月11日(旧暦)、謙信から越後の塩が送られ、信玄の領地である松本藩領(現在の松本市)に到着したことから、それを民衆が喜び、このことを記念して、この日に「塩市」が松本市で開かれるようになったといわれています。
そして、事実として、塩を運んだ人の子孫がいたのです。450年前、越後まで塩をとりにいき、甲府まで運んだとされる塩屋孫左衛門の18代目が、石油製品販売業「吉字屋(きちじや)」の社長、郄野(たかの)孫左ヱ門さんです。
郄野さんによると、塩問屋だった初代が信玄の命を受けて越後へ行き、1568年1月11日に松本、14日に甲府へ塩を運んだそうです。ただ、塩が越後から甲府に運ばれたことを示す資料はないといいます。
郄野さんは「謙信公御年譜の中に、以前と同じように塩を送るように、と出てきます。謙信は塩止めを知りながら塩の流通を止めなかったと考えています」。吉字屋は現在も塩を取り扱っているとのことでした。
松本市立博物館の前館長、窪田雅之さんは、「上杉家からの塩が届いたという文書はありません。文書で残っているのは、江戸時代初めから塩市が開かれ、塩が売られていた事実だけです」と語っている。
もう一つは、「塩留めの太刀」にまつわるお話です。
東京国立博物館には福岡一文字の在銘太刀(重要文化財)で、塩を送ってもらった返礼として信玄が謙信に贈ったと言われる「塩留めの太刀」が所蔵されています。
しかし、上杉家の刀剣台帳には信玄の父武田信虎より贈進となっているので、信玄から返礼とは思えないのです。信玄に代わって父信虎が贈ったということも考えられますが、時代背景が合いません。
今川・北条から塩止めを受けたのは1567年、父信虎は74歳です。父信虎は48歳の時に信玄から甲斐追放を受けており、信玄に代わっての増進は考えられません。父信虎は31歳の頃に上杉と同盟関係を結んでおり、この時に贈られたものと思われるので、「塩留めの太刀」ではないと考えられます。
したがって、武田から上杉に贈られた太刀はありますが、それは「塩留めの太刀」ではないと申し上げておきたい。
信玄の訃報に接した謙信は、食事中の箸を落とし、「ああ、競うべきものすでになし」と涙を流したという。川中島に対峙して激闘を重ねた信玄と謙信。両者の間には、生涯の好敵手として、敵味方を超えた不思議な心の交流が芽生えていたのでしょうか。
謙信が贈った塩は、その友情の結晶だったのかもしれません。
父親を追放し、嫡男を自害へ追い込んだ信玄の武田家は滅亡した。義を重んじた謙信の上杉家は、出羽国米沢藩(山形県)の藩主として、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。
長い目で見れば、この差が両者の雌雄を決したのではないだろうか。
---owari---
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