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国とは何か、国づくりとは何か ①

2018年04月09日 | 政治・経済

今日から国とは何か、国を奪われるとはどういうことなのかについて、お話します。

 

アメリカのオバマ大統領の時、そしてトランプ大統領になってからも中国の習近平国家主席は「太平洋には中国と米国を受け入れる十分な空間がある」と発言した。これは、大国のアメリカと中国で太平洋を二分しようという趣旨で、太平洋の東を米国、西を中国が管理し、太平洋を米中で二分しようとする中国側の膨張政策です。

 

中国は「日本には尖閣だけでなく、沖縄の領有権もない!」と宣言しているのです。

(●絶対証拠はこちら↓

https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_11_15/94728921/  )

 

この国際社会において、そんなバカなことを中国はしないと思っているお花畑の日本人に言っておきたいのが今回のシリーズです。

 

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このシリーズは5回に分けてお伝えします。

 

(国はどうやってつくるのか)

「国を超える話」は、格好いいと思って誰でもする。しかし、「国をつくる話」は何のことかわからない・・・・・これは日本人の特徴で、2000年も前に自然発生的に国ができて、それ以来満足して暮らしているから、部分的改良だけですんできた。その部分改良も、もう2000年の経験があるから、日本人にとっては慣れたもので別に慌てない。

 

それに比べると、アメリカは建国以来まだ240年しか経っていない。中国に至っては、1949年にできてからまだ68年だから、できたばかりである。未だに試行錯誤で国をつくっている最中である。それだけの歴史の差があるから、対話をしても両者とはどうも話が行き違ってしまうのである。

 

国とは何で、国づくりはどうやってやるのか。

日本人は建国の必要がなかったため、その勉強をしていないから、敢えて根本的なところから説明してみよう。

 

日本人のある人たちが、つい60年前に実際に建国した例がある。私たちとって身近な例であり、自分のこととして捉えやすいから、その話を取り上げよう。

 

沖縄の八重山で、独立宣言して国をつくったことがある。

そのときは大統領選挙もあって、宮良長詳という人が選挙で選ばれた。日本人が「国づくり」を考える上で面白い具体例である。

 

(昭和201215日、独立宣言)

「八重山共和国」という、桝田武宗さんが1990年に出した単行本がある。八重山島へ行って、共和国が8日間存在したことを克明に調べ上げた本である。

 

八重山共和国ができたのは昭和20年である。815日に戦争が終わるが、そのちょっと前、623日に沖縄の日本陸軍が壊滅した。これをもって沖縄戦は終わったとするのだが、しかし、それは軍隊の戦争が沖縄本島で終わっただけで、日本国家はまだ続いている。

 

しかし沖縄県庁は焼けて、県知事はそのときすでに亡くなっているから、地方行政体がない。そこへアメリカ海軍が上陸して、ただちに「軍政」を敷くと宣言する(軍政は国際法にも決められているが、上陸早々の宣言は早すぎると問題にする人がいる、支配していないうちに宣言するのは侵略だというわけである)。

 

それはともかく、沖縄はそれ以降、アメリカ海軍の軍政下に入ったのだから、アメリカから見れば日本の国ではなくなった。しかし、だからといってアメリカ軍がすぐ沖縄全部に来るわけではない。

 

特に八重山諸島の周辺は、石垣島(当時は八重山島)、西表島、宮古島の三つが大きいが、アメリカ軍がやって来ない。アメリカは戦争継続中で、続いて九州へ上陸作戦をしなければいけないから、八重山諸島まで手が回らなかった。

 

その後815日に日本は降伏するが、それでもアメリカ軍人は来ない。まだ手が回らなかったらしい。

 

それで、空白状態が815日以降始まることになる。

そのとき、住民は2万人ぐらい。日本陸軍の兵隊も8800人いたが、終戦に伴って軍隊は解散で、船が来れば少しずつ本土に戻れるという状況である。

 

このとき、八重山島にいた人たちは、いったいどこの国の人なのか?

なんとも言いようがないのである。日本の国籍はまだ持っているが、アメリアの宣言によればアメリカ海軍の支配下にある。しかし、実際にはアメリカ軍は来ていない・・・・・という奇妙な立場である。

 

さて、八重山島は極度の食糧不足だったから、住民は自治会をつくる。自治会の仕事は、まず解散した日本軍の兵隊の暴行、略奪から身を守ることであり、もう一つは「芋一個運動」といって、食べるものがない人のために芋を持っていってあげましょうという、まあ、福祉活動のようなことをやった。

 

村の若い人たちが、こういうことを始めたのが9月。

沖縄県庁の出先となる八重山支庁の建物もあるし、そこで働いていた人もいるが、しかしもう上からは予算も命令も来ない。沖縄県庁は爆撃で何にも残っていない状態だから、機能が完全に停止して、八重山支庁へ配る物資がない。予算も権限も事実上消滅である。

 

それで「自治会をつくろう」という話になるが、自治会規約が最終的に決まったのが1213日の準備会だった。

 

そして1215日の朝、ドンドーンと金属のどらを、島中鳴らして歩いたそうである。新聞も出ていないしラジオ放送もないから、どらを鳴らして「今夜集まれ、八重山郡民大会を開く」と呼びかけた。八重山館という映画館があったらしいが、その前の広場に、夜8時に1000人が集まった。

 

それからが面白いが、だんだん盛り上がって、とうとう夜の11時には「もう自治会じゃない、自治政府だ。いや、自治政府じゃない。八重山共和国だ。独立宣言してしまえ」「そうだな」と、八重山共和国政府誕生の独立宣言をした。

 

宮良さんはすっかり乗ってしまい、選挙を受けて「私が大統領です」と宣言する。それが1215日の夜11時。

 

さて、これはなんだろうか?そこを考えてみてほしい。

手作りだが、国をつくった最初は、どこの国も全部これである。

アメリカであれどこであれ、一番最初はみんなこれである。

誰かが高らかに叫んで、どこからも文句が出なければ「国家誕生」である。その後は隣国の承認が得られるかどうかである。

 

(独立宣言が国づくりの第一歩)

似たような例を挙げれば、第二次大戦中に同盟通信のジャカルタ支局長をされていた野津康雄さん(のちに岡山日々新聞社長)がこんな話を語っておられた。世界中の短波放送を聞いていると、「もう日本は負ける」ということがよくわかった。そこで814日にスカルノを呼んで、「明日、日本は負ける。だから間髪を入れずに独立宣言をしろ。そうしないと、オランダがまた戻ってきたとき、再びオランダ領になってしまうから」と教えたという。

 

スカルノ青年は「国際関係とはそんなものか」と教わって、日本軍の軍政担当者を回って了解と支持を受け、それからかねての同志を集めて独立宣言をし、ラジオで世界に放送した。その日付は当時日本が使っていた皇紀2605年とした。インドネシア紀元元年とまでしなかたが、それはともかく、このアドバイスのおかげでインドネシア共和国が誕生したのである。

 

国旗は日の丸を真似て、上半分が赤くて、下半分が真っ白という二色刷りのデザイン。まさに日本のおかげで独立したからである。

 

つまり、国をつくるのは、ともかく独立宣言することが第一歩なのである。

独立するという「意」が第一歩である。

 

その次に領土を決めて、その範囲内を有効支配するためには当然武力が要る。だから武力をどう調達するかで、降伏する日本軍が保有する武器・弾薬をこちらによこせという戦いが、進駐してくるオランダ軍とインドネシア軍の間で始まったのが独立戦争の第一歩だった。

 

2話へ続く

 

---owari---

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