(スパコン「京」運用終える )
① ""スパコン「京」運用終える 電源落とす“引退”セレモニー””
💻 神戸市にある世界最高レベルのスーパーコンピューター「京」は、後継となる次世代スパコンの整備のため運用を終え、30日、電源を落とすセレモニーが行われました。
「京」が設置されている神戸市の施設で行われたセレモニーには、関係者などおよそ180人が参加しました。同じ場所には「京」の100倍の計算能力がある後継の次世代スパコン「富岳」が設置されることになっています。
「京」の共同開発に当たった理化学研究所の松本紘理事長は、「一抹のさみしさはあるが次の『富岳』に『京』の精神を引き継いでいきたい」とあいさつしました。
そして、「京」の置かれている計算機室で4つのスイッチが1つずつ押され、午後2時半すぎ電源が落とされました。
平成24年に国家プロジェクトとして開発された「京」は、世界最高レベルの計算能力を生かして、地震の被害予測や医薬品の開発など幅広い分野で活用されてきました。
「
京」は来週から撤去作業が始まり、その後「富岳」の設置工事が行われ、2年後の運用開始を目指すことにしています。
理化学研究所の松岡聡計算科学研究センター長は「『京』は消えるが、日本のスパコンの技術を革新的に進めた歴史は残る。1日も早く次世代の『富岳』を使えるよう開発を進めていきたい」と話していました。
“2位じゃダメなんでしょうか”発言も
スーパーコンピューター「京」は、国家プロジェクトとして理化学研究所と大手電機メーカーの富士通が1100億円余りをかけ、共同で開発しました。
平成18年から開発が始まり、平成20年に神戸市中央区のポートアイランドで着工しました。
しかし平成21年、民主党政権による「事業仕分け」で、当時の蓮舫行政刷新担当大臣が「世界一になる理由は何があるんでしょうか、2位じゃダメなんでしょうか」などと発言し、いったんは「予算の見送りに限りなく近い削減」という判断が下されました。
その後、科学者たちから「国益を大きく損なう」と反発の声が相次ぎ、プロジェクトが復活しました。そして平成24年、「京」の本格的な稼働が始まります。
864台のコンピューターを連結して1秒間に1兆の1万倍にあたる1京回の計算を行うことができる「京」は、一時計算能力の世界ランキングでトップになりました。
その後、計算能力の順位は落としたものの、いわゆる「ビッグデータ」の処理能力を競うランキングでは平成27年から世界トップに立ち、総合力と実用性の高さが評価されました。
一方、スパコン開発の国際競争がアメリカや中国を中心に激しさを増していく中、理化学研究所と富士通は「京」の後継機の開発を進めることになりました。
後継機は、日本の最高峰「富士山」にあやかり「富岳」と命名され、計算速度は最速で「京」のおよそ100倍と、世界トップクラスの処理能力を達成する見通しだということです。
「富岳」は2年後に運用が開始される見込みで、局地的な豪雨や竜巻の発生といった気象のより精度の高い予測や、医薬品の開発、自動車や航空機のエンジンの設計などへの活用が期待されています。
渋滞予測や防災でも活用
「京」はこれまで、国内外の大学や研究機関、200を超える企業などが活用し、宇宙観測や渋滞予測、新しい薬や素材の開発などさまざまな分野の研究に役立てられてきました。
膨大なデータを瞬時に処理する能力は、幾とおりものシミュレーションの作成や解析結果を3次元で映像化することを可能にし、特に防災分野の研究で活用が進みました。
このうち建物の耐震性の研究では、構造や築年数などに加え地盤のデータも一括して分析し、1棟1棟の揺れをつぶさに予測できる「次世代のハザードマップ」として注目されています。
また、いわゆる「ゲリラ豪雨」の研究では、上空の雨雲データなどを処理し、雨が降りだす前に豪雨の発生を予測する技術の開発に役立てられています。
どうなる?「京コンピュータ前駅」
スーパーコンピューター「京」の運用が停止されたことを受けて、「京」の名前を駅名に採用している神戸市内を通る「ポートライナー」は今後、名前を変更するかどうか検討したいとしています。
神戸市中央区にある「ポートライナー」の「京コンピュータ前駅」は、「京」が置かれた研究施設が近くにあることから、8年前の平成23年、駅の名前に「京」を取り入れています。
「京」は30日で役割を終え、2年後には後継機となる「富岳」が導入される予定で、「ポートライナー」を運営する神戸新交通は駅名をこのまま残すか「富岳」に変更するかなど対応を検討したいとしています。
神戸新交通総務課の金谷保和係長は「『京』があることで親しまれてきた駅なので、なくなることは残念です。まずは『富岳』の活躍に期待したい」と話していました。
✈ 富岳=富嶽 (Wikipedia)
WWⅡで大日本帝国が計画していた""超重爆撃機""の名前でした。富岳=富嶽と言う名称が、思わぬところで歴史の一齣と繋がっていました。
富嶽(ふがく)は、第二次世界大戦中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした6発の超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。
富嶽による米本土爆撃機計画[編集]
アメリカ軍による初の日本本土空襲が行われた1942年(昭和17年)に、中島飛行機の創始者である中島知久平が立案した「必勝防空計画」に書かれていた、アメリカ本土空襲後にそのままヨーロッパまで飛行し、ドイツまたはその占領地に着陸することが可能な大型長距離戦略爆撃機である「Z飛行機」、これがのちの富嶽である。 同年8月15日、大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望した[1]。その中に「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置)ノ能力増大」という項目があった[1]。
アメリカ本土爆撃を視野に入れ、日本を飛び立ち太平洋を横断してアメリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断してドイツで補給を受け、再び逆のコースでアメリカを再攻撃しながら戻ってくるか、またはソ連を爆撃しつつ世界を一周すると言う壮大な計画であった。全長45m(ボーイングB-29の1.5倍)、全幅65m(B-29の1.5倍)、爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)、航続距離は19,400km(B-29の3倍)、6発エンジンを目指した。
中島飛行機が設計にかかわる。1943年(昭和18年)5月31日、中島は軍令部官邸での夕食会で本機(富嶽)の構想を説明する[2]。昭和20年にはB-29大型爆撃機が大量配備され『要スルニ現状デハ日本ノ軍需工場ハ全滅シテ戦力ヲ失フノハ明カデアルカラ、大型機ヲ急速ニ設計、生産ニ着手セネバナラヌ』と指摘し、B-29に対抗するには『其ノ飛行場ヲ使用不能ニスル事ガ考エラレル』と述べた[3]。中島は、東條英機首相をはじめ、陸海軍大臣や関係者にも構想を訴えていたという[4]。
このあと陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、これに軍需省も加わった体制で開発が進められた。しかし陸海軍の要求性能が大幅に異なったため調整に苦労を強いられ、かつ軍需省は途中で独自に川西航空機に設計案を作らせ、しかも陸海軍や他社はおろか中島内部にさえ根強い反対論があるなど、開発体制には多くの問題があった。第一次案では、下記の仕様のごとくハ54×6基であったが、空冷四重星型という新形式の開発に手間取り、応急案としてハ44(二重空冷星型18気筒、2,450馬力/2,800rpm)やハ50(二重星型22気筒、3,100馬力/2,400rpm)6基装備で暫定的に計画を進めた。この影響で爆弾搭載量も20tから15tに減らされた。
当時の日本はおろか戦後すぐのアメリカにおいてすらも、その技術力・工業力では手にあまると思える空前のスケールの機体(1946年に初飛行したアメリカ製の超大型爆撃機B-36ピースメーカーも推力不足に悩まされ、当時としては最新鋭の装備であったジェットエンジンをやむなく追加した)であったため、実現までに解決せねばならない諸問題が山積し、与圧キャビンの研究、新式降着装置の開発も行われた。
1943年より中島飛行機三鷹研究所構内に組み立て工場の建設が開始された。しかし1944年(昭和19年)4月28日、日本軍は陸海軍当事者・軍需省・関係制作会社をあつめて超重爆撃機「富嶽」の研究を続行するかを検討した[1]。富嶽を予定どおり制作した場合、日本陸軍の四式戦闘機(疾風)の943機減産、海軍の陸上爆撃機銀河235機の減産をまねく見通しとなった[1]。資材・工作機械・技術研究の観点から、富嶽の研究は「遺憾ながら中止せざるを得ない」との結論になった[1]。 日本軍は6月下旬のマリアナ沖海戦に敗北し[5]、絶対国防圏の東の鎖ともいうべきサイパンは7月6日に陥落した[6]。最大の支援者であった東條英機首相は7月18日に辞職した[7]。本土防空戦のための戦闘機開発優先・開発機種削減方針により、「この戦争に間に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。