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nhk news web ; (最重要記事/沖縄戦 「護郷隊」の陣地跡、少年兵) 6月21日19:56分、 沖縄戦 「護郷隊」の陣地跡見つかる 少年らで編成の極秘部隊

2020-06-21 20:22:54 | 沖縄地方、沖縄本島地方  大東島地方  宮古島地方  八重山地方



◎◎  沖縄戦 「護郷隊」の陣地跡見つかる 少年らで編成の極秘部隊


2020年6月21日 19時56分


太平洋戦争末期の沖縄戦の際に旧日本軍が地元の少年らで極秘に編成した「護郷隊(ごきょうたい)」と呼ばれるゲリラ部隊の陣地跡が沖縄のアメリカ軍基地内で見つかりました。この部隊に関する戦争遺跡が見つかったのは初めてで、専門家は少年らを巻き込んだ悲惨な戦闘の実態を検証するため、今後、アメリカ軍に共同調査を申し入れることにしています。

75年前の沖縄戦の際、旧日本軍は、正規軍を後方支援し、持久戦に持ち込むため、およそ1000人の地元の10代の少年らを召集して「護郷隊」と呼ばれるゲリラ部隊を極秘に編成しました。

護郷隊は昭和20年4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、3か月にわたって山岳地帯でゲリラ戦を展開しましたが、激しい攻撃にさらされるなどして160人が命を落としました。

この護郷隊が拠点を置いた陣地跡が、沖縄のアメリカ軍基地「キャンプ・ハンセン」内で見つかっていたことがアメリカ軍への取材でわかりました。アメリカ軍が、ことし3月に基地内に残る戦争遺跡の調査を行っていた際に、沖縄本島北部にある恩納岳(おんなだけ)の山頂付近で見つけたということです。

恩納岳には、沖縄戦当時、護郷隊が司令部や野戦病院、それに敵を迎え撃つ機関銃壕などからなる陣地を構築し、今回、機関銃壕の跡や部隊の建物の土台部分とみられる石垣などが確認されました。

護郷隊について調査している地元の専門家によりますと護郷隊の戦争遺跡が見つかったのは、今回が初めてです。

一方、恩納岳の一帯は戦後、アメリカ軍が実弾射撃訓練などを行う演習場として使用しているため、少年たちを巻き込んだ悲惨な戦闘の実態について現場での詳しい検証ができないままになっているということです。このため専門家は、今後、アメリカ軍に対して共同調査を申し入れることにしています。


「護郷隊」ほとんどが10代の少年

旧日本軍が作成した資料などによりますと、旧日本軍は劣勢が想定された沖縄戦を前に秘密戦要員の養成機関「陸軍中野学校」の出身者を派遣し、正規軍を支援する遊撃戦=ゲリラ戦専門の部隊を沖縄本島北部で極秘に編成しました。

当時、アメリカ軍は日本の本土を攻撃する前線基地を設置するためにまず沖縄本島中部に上陸して近くの飛行場を奪い、その後、正規軍が拠点を置く南部に攻め込んでくるとみられていました。

このため、北部の山岳地帯にゲリラ部隊を配置し、上陸した敵を後方から攻撃してかく乱する作戦を立てたということです。編成された部隊は、およそ1000人の隊員のほとんどを地元の10代の少年が占め、「故郷をみずからの手で護る」という意識を持たせるため、「護郷隊」と名付けられました。

「護郷隊」は2つの部隊からなり、「第一護郷隊」は現在の名護市にある多野岳に、「第二護郷隊」は恩納岳に陣地を築き、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した直後から3か月にわたってゲリラ戦を展開しました。

また、少年兵らは、見た目が幼かったことから、避難民に成り済ます方法で敵の偵察や正規軍との伝令にも駆り出されたということです。

護郷隊について調査している地元の専門家によりますと、戦闘などで隊員160人が命を落としました。

一方、秘密部隊だったため沖縄でも戦後長く存在をほとんど知られず、部隊や戦闘の実態について解明されていないことも多いということです。


「護郷隊」と「恩納岳」

恩納岳は沖縄県恩納村と金武町の境にある標高363メートルの山で、沖縄戦の際、「第二護郷隊」が陣地を構えました。元少年兵の証言などによりますと、山頂付近に部隊の司令部や機関銃壕などがあり、中腹には野戦病院や兵舎などがありました。

しかし、アメリカ軍に攻め込まれると、部隊は山頂へと追い詰められていき、それに伴って山頂近くに移された野戦病院は、負傷した少年兵などであふれかえったということです。

そして、部隊は数千人規模による攻撃を受け、昭和20年6月初めに陣地を撤退し、恩納岳はアメリカ軍に制圧されました。

部隊が撤退する際、負傷して動けなかった少年兵らは軍医に殺害されたり、手りゅう弾を渡されてみずから命を絶ったりしたということです。

戦後、アメリカ軍は昭和22年から恩納岳を含めた一帯を実弾射撃訓練を行う演習場とし、さらに、昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると、艦砲射撃や空爆などを伴った演習も行うようになりました。

その後、一帯は昭和32年からアメリカ軍基地「キャンプ・ハンセン」として運用され、現在に至るまで軍の特別な許可がなければ立ち入ることができない状態が続いています。

米軍撮影 170枚の写真

NHKは今回、アメリカ軍が恩納岳の護郷隊の陣地跡で撮影したおよそ170枚の写真を軍から入手しました。

このうちの1枚には、沖縄戦の際に護郷隊が使った機関銃壕の跡が土砂で一部が埋まった形で写されています。

護郷隊の元少年兵によりますと機関銃壕は沖縄戦の直前に少年兵らによって山の斜面に横穴を掘って作られ、入り口近くには土のうなどが積まれていました。そして、壕内には機関銃や弾薬などが備えられ、アメリカ軍が攻め込んでくると少年兵らは中で身を隠しながら機関銃を掃射して迎え撃ったということです。

また、別の1枚では石垣が確認でき、護郷隊について調査している専門家によりますと特徴から司令部か物資の保管小屋など部隊の建物の土台部分とみられるということです。

このほか、近隣などから陣地に避難してきた住民が使っていたとみられる茶わんや湯飲みの破片なども確認できます。

長年、護郷隊について調査している恩納村「村史編さん係」の瀬戸隆博さんは「元少年兵らの証言を裏付けるものだ。恩納岳はアメリカ軍基地内にあるため立ち入りができず、場所ははっきりしないものの遺骨も残っているという元少年兵の証言もあるため、基地内に入ってさらに詳しく調査する必要がある」と話しています。


「根こそぎ動員」の始まり

太平洋戦争で旧日本軍は、敗戦が続き戦局が悪化すると一部で戦果があがっていたゲリラ戦を拡大することを決め、陸軍中野学校出身者の指揮のもと最初の専門部隊を編成して昭和19年3月にニューギニア島に派遣し、その後、第2部隊をインドネシア東部の島で組織しました。

そして、「絶対国防圏」の要所のサイパンが陥落した翌月の昭和19年8月、3番目と4番目となる部隊を沖縄に編成することを決めます。これが「第一護郷隊」と「第二護郷隊」です。

それまでは成人の兵士を中心に編成したのに対し、護郷隊は兵士不足のため地元の10代の少年たちを召集することになりました。その際、当時は19歳からだった召集対象の年齢を昭和19年11月に軍の規則を変更して17歳に引き下げ、さらに翌月には、沖縄などでは志願すれば14歳以上の少年も召集できるようにしました。

しかし、元少年兵らの証言によりますと当時、志願したとされた少年たちの中には強制的に召集されたケースが少なくなかったということです。

護郷隊以降、旧日本軍は子どもたちも戦場に投入する「根こそぎ動員」の動きを加速させ、陸軍中野学校の出身者を全国に派遣して各地の少年や少女などにゲリラ戦の訓練などを施し、本土決戦に備えました。

  護郷隊について調査している恩納村「村史編さん係」の瀬戸隆博さんは「護郷隊の戦争が沖縄だけのものでなく、さらにバージョンアップして本土決戦で行われた可能性があった。日本では世界各地で起きているテロなど遠いものとして実感があまりないと思うが、かつて日本で10代の子どもを戦場に送り出し、命を落とすことを推奨して犠牲にしており、決してひと事ではない」と話しています。


元少年兵「戦場という地獄 仲間が次々に」

沖縄県大宜味村に住む瑞慶山良光さん(91)は16歳だった昭和20年3月に召集され、「第二護郷隊」に配属されました。

そして、ゲリラ戦の際にアメリカ軍の手りゅう弾で大けがをし、その後は、部隊の後方支援として恩納岳の陣地の野戦病院で負傷兵の搬送や死亡した兵士の埋葬などに当たりました。

瑞慶山さんによりますと、野戦病院ではベッドの代わりに板が敷かれ、収容された負傷兵が手当てを受けていたということです。そして、アメリカ軍が攻め込んでくると負傷して動けなくなった兵士の中には捕虜になって情報が漏れるのを避けるため、軍医によって銃殺された人もいたということです。そのうえで、部隊が陣地を撤退する際、残った負傷兵らは手りゅう弾を手渡されみずから命を絶ったということです。

瑞慶山さんは「上陸したアメリカ軍と戦えということになり、僕たち少年が最初の戦いを担いました。いつ殺されるのかという恐怖心の中、仲間が次々と『アンマー』と叫びながら死んでいった。戦場という地獄に行き、戦後はPTSDになったうえに護郷隊は正規軍ではないとして補償も受けられないなど苦しい日々を過ごしました」と話していました。



  

nhk news web ; (天文学/部分日蝕、各地で観測) 6月21日19:18分、  「部分日食」 各地で観測 国内ではおよそ半年ぶり

2020-06-21 20:09:10 | 🚀🛰宇宙 ; 人類のロマンと挑戦、国立天文台、JAXA、NAS各国・宇宙開発…


◎◎  「部分日食」 各地で観測 国内ではおよそ半年ぶり


2020年6月21日 19時18分


◑◑  太陽の一部が欠けたように見える「部分日食」が、国内ではおよそ半年ぶりに各地で観測されました。

◐◐  「部分日食」は太陽と月と地球が一直線上に並び、地球から見て、太陽の一部が月に隠れる現象です。

●●⇨  国内では去年12月以来、およそ半年ぶりで、今回は、午後4時ごろに欠けはじめ、午後6時半ころまでに終わりました。

  21日は、雲が広がった関東や九州地方の一部などを除いて、晴れたところが多く、各地で観測することができました。

◇◇太陽が最も隠れた割合は那覇市で79%、東京都で35%、札幌市で17%などとなりました。

●●  また、インドや中国などでは太陽が指輪のような形に見える「金環日食」になりました。

¤¤¤  次に日本で日食が見られるのは3年後の2023年4月で、この時は九州南部など一部の地域だけで部分日食になる見通しです。


nhk news web ; (重要記事/新感染者35人、東京都) 6月21日18:56分、  東京都 35人感染確認 うち夜の繁華街の関係者18人 新型コロナ

2020-06-21 19:58:20 | 関東 2 ; 千葉県 埼玉県 東京都 神奈川県



◎◎  東京都 35人感染確認 うち夜の繁華街の関係者18人 新型コロナ


2020年6月21日 18時56分


◆◆  東京都は、21日都内で新たに35人が新型コロナウイルスに感染していることが確認されたと発表しました。1日の感染の確認が30人以上となるのは4日連続です。

●●  東京都は21日都内で新たに20代から70代までの男女合わせて35人が新型コロナウイルスに感染していることが確認されたと発表しました。

◐◐  このうち、20代と30代が合わせて31人と、全体のおよそ90%を占めています。

◑◑  35人のうち、21人はこれまでに感染が確認された人の濃厚接触者で、残りの14人は今のところ感染経路がわかっていません。

★★★  また、35人のうち夜の繁華街の関係者は18人で、このなかには集団検査を受けた新宿区にあるホストクラブの関係者9人が含まれているということです。

  1日の感染の確認が30人以上となるのは4日連続で、これで都内で感染が確認された人は、合わせて5783人になりました。

□□  一方、21日は、都内で死亡が確認された人の発表はありませんでした。

nhk news web ; (注目記事/20日の人出、主要都市で増加) 6月21日12:07分、 20日の人出 主要都市で増加 感染拡大前上回ったところも

2020-06-21 17:49:22 | 健康・病気; 新薬・新治療法、 老化、リコール、感染症コロナウィルス!


◎◎  きのう20日の人出 主要都市で増加 感染拡大前上回ったところも


2020年6月21日 12時07分

○○  都道府県をまたぐ移動の自粛が全国で緩和されて初めての土曜日となった20日、都心部をはじめ全国の主な都市の人出は前の土曜日よりも増え、横浜や千葉、札幌では感染拡大前を上回りました。

  NTTドコモは、携帯電話の基地局の情報をもとにプライバシーを保護した形で全国の人出のデータをまとめています。

◐◐  20日は、都道府県をまたぐ移動の自粛が全国で緩和されて初めての土曜日となりました。


☆☆☆  都心部や首都圏の3県の20日午後3時時点の人出は、前の週の土曜日と比べて

▽新宿駅周辺で9.9ポイント、
▽渋谷センター街周辺で12.3ポイント、
▽大宮駅周辺で9ポイント、
▽横浜駅周辺で12.6ポイント、
▽千葉駅周辺で11.9ポイント、それぞれ増加しました。

 
◇◇ 全国の主な都市も

▽札幌駅周辺で6ポイント、
▽名古屋駅周辺では6.5ポイント、
▽大阪の梅田駅周辺で9.9ポイント、
▽福岡の天神周辺で8.4ポイント、それぞれ前の週の土曜日より増えました。

¤¤¤ 感染拡大前のことし1月中旬から2月中旬の休日の平均と比べると、おおむね7割から8割の水準に戻った形ですが、横浜駅周辺と千葉駅周辺、それに札幌駅周辺では3%から8%、感染拡大前を上回りました。

☆☆☆  一方、羽田空港の第1ターミナル、第2ターミナルでは前の週の土曜日より6ポイントから8ポイント増えました。

nhk news web ; (注目記事/観光客戻り始める、京都宮津) 6月21日12:44分、 移動自粛緩和 観光地に客が戻り始める 京都 宮津 新型コロナ   

2020-06-21 17:32:28 | 環境省;組織と機能…


 ◎◎ 移動自粛緩和 観光地に客が戻り始める 京都 宮津 新型コロナ


2020年6月21日 12時44分


◇◇  都道府県をまたぐ移動の自粛が緩和されて初めての週末を迎え、日本三景の一つ京都府宮津市にある天橋立周辺にも少しずつ観光客が戻っています。

○○  天橋立を北側の山から望む展望スポット、「傘松公園」は頭を逆さにして両足の間から見る「股のぞき」の状態で天橋立を眺めると、松並木が天にのぼる龍のように見えることで知られています。

☆☆☆  21日は午前中から府外などからの観光客が次々と訪れ、逆さまの景色を楽しんでいました。

  岐阜県から訪れた30代の男性は、「移動の自粛緩和を受けて久しぶりに旅行できました。股のぞきをすると見え方が大きく変わって驚きました」と話していました。

⇨⇨  公園の運営会社によりますと、先月の緊急事態宣言の解除後も人出は例年の1割から2割ほどにとどまっていたいうことですが、20日から21日の人出は天候に恵まれたこともあり、5割程度にまで戻っているということです。

○○  地区の土産物店などで作る団体の会長は、「まだ団体客は戻りませんが、個人客が少しずつ戻ってきてくれていると感じます。早くコロナが終息してにぎわいが戻ってほしい」と話していました。