じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

夢二・・・あった

2014-05-03 14:30:51 | 日記的雑談
いや、宮城県美術館は家から割りと近かった訳です・・・バイクで22分かな?

で、早い昼飯を食ってからで掛けたんで、アッチに付いたのがピッタシ昼飯時だった訳です。
したらば・・・カフェって言うの? 昔で言う喫茶店の今風に洒落たのが有りまして、そこには若いお母さんから中年のオバちゃんから婆様からガキまで・・・まっ、オヤジも居ましたけど・・・随分な人が居た訳です。

しかし、まっ、来ちまった物は仕方が無い、で、300円で入場券を買い求めて中に入った訳です。

アレです・・・美術館と言うのは無駄に広い空間なんでありますなぁ~・・・やっぱしアートと言いますか芸術と言う物は「無駄」や「無意味」と関わりが深いと思っている私に隙はないなと思いましたよ。

で、夢二を見に行ったと言えばそうなんですが、この際ですから常設展示物もしっかりと見た訳です。

いや、ハッキリ言って常設の油絵などの方が私としては良かったなぁ~・・・まっ、展示してある画家の名前も作品名も覚えちゃい無いし、心ある人は鉛筆借りてメモってましたけど、私はそこまで思い入れは無いんでそん時だけ感激すれば十分です、と,言う事ですっかり忘れちまいましたが。

ナント申しましょうか・・・私は絵を見ていて涙が出そうになっちまうんですよ。
いや、悲しみや怨念や苦しみや、下手したら憎しみとか妬みとか、ナンとも言えない作者の重い気持ちとでも言いましょうか、錯覚なのかもしれませんが、そんな物ばかりを感じてしまう訳です。

ナンなんですかねぇ~? そんなに思い詰めて書いてる人ばかりじゃないと思うんで、何故に絵を見てると息苦しくなったり泣きたくなってしまうのか、分からないんですが。

ホントに、作者の名前を微かに知っている程度の物から、ああ、これかぁ~、知ってるわぁ、と言う物や、間違ったらゴメンなさい、でも、多分初対面ですよね、と、言う物まで・・・兎に角、有名無名に関わらず、アソコに展示されているクラスの絵になると、画面からナニかカニかの「念」がで居るな、と,感じちまう訳です。

で、極稀に、何もおかしい事はかいていないのに、見ていると笑いたくなっちまう物も有る訳です。
そうなると、やっぱし,オラが感じているのは作者の製作過程の心理的な物とか、作品に託したと言うか込めたと言うか・・・やっぱし「念」としか言いようが無いモノを感じるんじゃないかと思うんですがねぇ。

で、無教養な変態オヤジでありますから絵の事なんて何も分からないでみている訳でして、ンじゃぁナニを見て楽しいのかと言いますと「間」であります。
具体的に言うと、描いてある物と隙間の割合とでもいいましようか・・・やっぱし「間」としか言えないんだけど、それが写真にも同じ物が有るんだよなぁ~・・・と,勝手に思い込んでみている訳であります。

で、好きだなぁ~と思うには確かな「間」が在ると言いますか、全部絵具が塗られて隙間なんか無いんだけれども、それでも、主題と思しく描かれた物と、背景なんだろうな、と見える物には対比される「間」が存在していると見える訳です。

なので私は絵を見ていると言うよりも、色の組み合わせやら、それらが醸し出す「間」と言いますか、描かれた物の先にある見えない「空」を見るみたいな・・・分からないよね、この説明じゃ。

で、宮城県美術館の常設展示の絵達は、どれもこれも大好きになっちまいました。
平日に行って、日がな一日眺めて対話してみたいと思う程であります。

さて、その次に見たのが、夢二に影響を与えたと言う、W・カンディンスキーですか?
まっ、殆ど興味がわかなかったと言うのが正直な所でして、他にも洋画家の作品が沢山有ったんですが、ハッキリ言って何も感じませんでした。

洋画家の作品に何も感じない理由は大体分かるんであります・・・多分、絵は語りかけて来てると思うんですが、何分にも言葉がわからないんで・・・と,言う事では無いと思います。
恐らく、宗教観の違いから来る物の見方の違いじゃないかと思う訳です・・・要するに、感覚の違いが在り過ぎて入り込めない入って来ない、みたいな。
描かれている題材も宗教観の漂う物が結構多くて、オラけっこう仏教徒してるんで、バテレンの物の見方は馴染まないんだなと思いました。

さて、いよいよ竹久夢二なんですが・・・うん、ハッキリ言ってドーでも良いと言いますか、ナンと言いましょうか・・・上手く言えないんですけれども、商業絵画とか言ったら怒られますかね。

しかし、夢二が描く女性は好きであります・・・ナント申しましょうか、触れなば落ちん、と言う危うい色気とでも申しましょうか・・・そんな物を感じる作品群が在りました。

で、晩年の作品に、婆様と言いますか、色気の抜けた年代の女性が数点有ったんですけれども、それって、やっぱし自分の歳と呼応したと言う意味ナンでありましょうか? なんて所を面白いと思って見た訳ですが。

しかし、夢二の作品にも確かな「間」は厳然として存在している訳で、やっぱし,目で見て何かを感じさせる物には、確かな「間」があるのは間違い無さそうだ・・・しかし、それがどんな物なのかは未だ掴み切れ居ない・・・と、まぁ,1時間と20分で全部見終わっちまいまして・・・そして、さっさと家に戻ってコーヒーなど飲みながら感想をしたためている訳でありました。

いや、夢二をくさしたからって呆れなさんな、怒りなさんな、馬鹿なオヤジの戯れ言ですから。

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連休で、晴天・・・なのに゛

2014-05-03 11:20:12 | 日記的雑談
PCで遊ぶしか術の無い寂しい無職の私・・・大型連休なんて無縁。

むえん? 無縁? 無塩? 無援? 無鉛? 無煙?

一番シックリ来るのは・・・無円,か? 無宴、か?

金が無いんで宴も無い・・・そう言う事ですかね?

庭の柿の葉っぱが日一日と青くなりキレイです。
キゥイの葉っぱと同じ頃に新芽と言いますか若葉が出たんですけれども、やっぱし舶来のキゥイは成長が早いと言いますか、外人のガキと一緒でませてるんでありましょうか?ぐんぐん伸びて既に大人であります。
しかし、柿の葉っぱ、おっとりしてると言いますか、どうせ実を付けるのは秋なんだから、と、のんびりと成長しているようであります・・・えっ、?柿の葉っぱを見たいですとぉ?


渋柿です


葉っぱに「いのち」を感じませんか?

冴えねぇなぁ~・・・嫌なんだよなぁ休みの日って。
何処へ行っても人が多くて・・・うん? 美術館とか行ってみっかな?
教養の必要な場所にヤンママとかガキは出没しないだろう?

おっ・・・展示は「竹下景子」だとさぁ・・・ゴメン「竹久夢二」ですって。
しかも、特別展示なのにいつも料金ですって。

暇だし・・・行ってみっか? バイク出25分かな?

よしっ・・・行って来る!!!!



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いい天気で、今日から連休

2014-05-03 09:43:35 | 日記的雑談
さぁ~大型連休の最後の四日間が絶好の好天で始まりました・・・が、私はと申せば、特別な日ではない訳でして・・・いや,だって,もう生涯大型連休の私にしてみれば、ああ、本日は他の人もお休みな日か・・・何処へ行っても混むな、と言う程度の事な訳であります。

特別何もする事が無い・・・うむっ、昼飯を食ったらバイクでホームセンターに乾電池を買いに行こうと思う、大事な予定があるな・・・序でに、お気に入りの100均に行って荷物の仕分けに使うジップ袋を買わなくちゃ・・・あっ、コップとか皿とか、箸とかフォークとか、帰りには捨てて来て良いようにこっちから持って行くのが良いかもな。

いや,タイなんかはもう日本の100均より(質を考慮すれば)物は高いんですぜ。
だからパンツもユニクロで買って行く訳でして,こうして見ると、クオリティーと価格のバランスて見たら日本って物価は安いのかも,ナンテ思う今日この頃、大型連休の初日、絶好の五月晴れの空の下、貴方様に置かれましては如何お過ごしでありましょうか?

ソーだよねぇ~・・・金も無いのに暇だけ貰っても困っちまいますよねぇ~その気持ち、分かります。

こう言う時に「釣り」と言う趣味は良いと思うんだが・・・それも、釣れない釣り。
で、釣りは鮒に始まり鮒に終わる、と言われる訳ですが、最近、その意味が分かって来た訳です。

いや,何も釣りの妙味の事を宣っているのではなく、これはとても意味深い言葉でして、釣りと人生と言いましようか、人間の本質と言っても過言ではない、深い所の話しなのだと思う訳です。

さらりと説明をしたいんですが、ガキの頃に原体験が有って、中間の年齢では、釣りのナンたるかを追求してみた事が有るので分かったのかも知れないんで、釣り糸を一度も垂れた事が無い人にはピンと来ないかも知れませぬ。

まっ、ずっと昔に出来た言葉なんで、私の子供の頃の体験で語っても近代的になっちまうのかも知れないけれども、まっ、そこはそれ・・・。

まず、貧乏人の小倅が鮒釣りなど始める時には、釣り竿など無い訳です。
竹竿を自分で見繕って,拾って来たテグスを繋ぎ合わせ、道糸を作る。
浮木は,木っ端や学校の工作で使う材料を適当に加工して作る。
本当は板重り(鉛の板状の物)か、噛潰し(がン玉と呼ばれる鉛の粒)が欲しいんだが、無いので釘やその他の金属で代用する。
そして、最大の鬼門が釣り針なんだが、これは頻繁に消耗するので買うしかない。
金色の、糸止めに赤いポッチの付いたのが良く釣れるのだが、それは高くて買えないので、殆ど素焼きか?と言う安いのを買う。
そして、これも、釣具屋で「赤虫」と言う、ユスリカの幼虫を買えば抜群に釣れるのだが、そんな金は無いのでミミズを掘って行く。
季節と場所によってはミミズよりもウドン粉の方が良い事も有るのでそれも持って行く。

で、家から味噌お握りを握って持ち、水筒に水を入れ,一式を風呂敷に包んで・・・いや、これは書き過ぎだな・・・当時でもナップザックと言う背負い袋は持っていたな。

で、テクテクテクテクと,1時間でも2時間でも、釣れると風の噂に聞いた池や沼まで歩く訳です。
空っぽのバケツと釣り竿を手に持って。

まっ、大抵は何も釣れずに飽きて水遊びになっちまう訳で、池にはまって泥だらけとか、ズック靴は水と泥で,歩くと鉄腕アトムみたいな足音と言いますか、グッチョン・グッチョンとか鳴る訳です。

で、そのようなガキの、釣れない釣りを経験しますと、大人の持っている金の掛かった武器と言いますか装備が羨ましくて仕方が無い分けです。

オラが釣れないのは道具が悪くて、エサも赤虫じゃネェし・・・いつかはああいう風にビシッと釣りテェなぁ、などと夢を描く訳です。

さて、そのうち鮒釣りナンテしなくなっちまって、まっ、自伝車で海まで行ける年齢だと、やっぱし味噌お握りと水筒を持って海まで漕いで行って投げ釣りなどに興じる訳です。

しかし、その時も、ガキがアルバイトしてやっと買った投げ釣り用の竿では限界が有って、大人が持っている、遠くまで仕掛けを飛ばせる上等な釣り道具に負ける訳です。

で、大人になって、普通に給料貰って、それなりの釣り道具が手に入るようになって,釣りが趣味です、なんて事になって、それでも飽き足りないと自分で釣り船を持ってみたり、淡水だと、ニュージーランドに行って,鱒釣って来たぁ~とかなる訳であります。

さて、釣りは鮒に始まり鮒に終わる,を鑑みますれば、ガキの頃に芽生えた思いは、魚を釣りたい、射止めたい、から,ガキはガキなりに、人と比べ、せめて隣の大人のように、もっと沢山、もっと大きな、と,目指した訳です。
人生も、振り返ってみれば、竹竿にウドン粉の、殆ど釣れない釣りが原点であり、そして、腹を減らしてかぶりついた味噌お握りに勝る物は、ここまで生きて来ても無かったかもなぁ~・・・なんて所に行き着くのかなと言う事であります。

と、言いつつ、私の人生は佳境に入って尚貧慾と言いますか、貪欲と言いますか、死ぬまで大漁祈願でありまして・・・とても鮒釣りに戻れそうには無いのでありまして、まっ、思い付きで宣ってみただけであります。



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まっ、後の祭りなんだが・・・

2014-05-03 09:10:07 | 日記的雑談
いや,見掛けと雰囲気の通り、精神的には至ってチキンの方なんで、一つ小さな間違いを犯すと三日はくよくよすると言う,どうしようも無い女々しい奴が私なんです。

まっ、事の起こりは昨日の昼飯に税抜き950円のチャーシューメンを食っちまったと言う事であります。
で、ドー考えてもアレで税込み1026円は納得がいかない訳でして、やっぱし,向いのアソコで1080円のランチにすれば良かったよなぁ~・・・アレなら茶碗蒸しやら天ぷらと、サラダも付いて・・・いや,寿司勘ランチって、握りが8ケに天ぷらや茶碗蒸しやサラダが付くんですぜ・・・ああ、あと先日喰った時には味噌汁が海苔でして、春の海苔の味噌汁・・・粋ですぜぇ~・・・。

オレが変わり者なのは十分承知で、普通一般の人とは精神構造も思考も、下手すると味覚も違うのかも知れないんだが・・・ラーメンって、どう頑張ってもラーメンだろう?

ラーメンの価値を評する時に良く言われるのが、出汁だと思うんだが、ナンだカンだ言って、出汁と言うのは和食の物だと思うんだが。

で、和食は出汁が決め手と言うのは異論も反論も無く、それしか無いでしょ、と,諸手を上げて万歳な訳ですけれども、和食を見渡した時に、家庭料理じゃない、ホントの職人が作って金を取っている和食に油っこい物ってありますかね?

いや,和食って、素材が脂ぎった物だったとしたら、それを如何に淡白に喰わせるか、旨味としては残しながらも主張は許さない、そんな料理の様な気がするんですけれどもね。

で、ラーメンなんですが・・・和食並みに出汁引いて風味豊、と宣ったとしても、美味いと言わせているのは脂であると思う訳です。

私は、純和風的ラーメンを知ってますが、出汁が利いて鰹の風味であっさりして美味いんですけど、それならラーメンである必要性は感じない訳です・・・言い換えれば、あの麺である必然を感じない、か?

そこで思いつくのが・・・ラーメンは、始めに麺がありき、で,あの黄色い麺をいかに美味く喰わせるかの料理である、と,言う事かと思う訳ですが、如何でありましょうか?

で、「かんすい」が無ければラーメンの麺は始まらない訳なんですけれども、皆様は中華まんじゅうの皮にもホントは潅水が使われているのをご存知でありましょうか?
今時のスーパーやコンビニの饅頭には使われていないと思うんですが・・そうと言い切る根拠は香りであります。
かんすいを使った小麦の食い物は独特の風味と言いますか、香りが有る訳で、これは饅頭でも麺でも共通だと思う訳です・・・かんすい使った饅頭なら色もほんのり黄色くなってなくちゃダメなはずなんで間違い無いと思います。

と、言う事で、ラーメンの命は麺であり、麺の肝はかんすいに有り、これを基本にどうやって違いを出すかの競争となると、後は汁しか無い訳ですが、そこに和風と言われる出汁を持ち込んで、それが美味いといい、流石に鰹出汁だ、とか言うのを聞くと、本物の出汁の味わいを知らぬ輩が、悲しいのぉ~・・・なんて思っちまう訳です。

昆布さえも使わずに仕上げた「潮」・・・この味が分からないと無理かもなぁ~・・・と,ネットの検索を駆使して書いてみましたが、説得力は有りましたでしょうか?

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