いや、宮城県美術館は家から割りと近かった訳です・・・バイクで22分かな?
で、早い昼飯を食ってからで掛けたんで、アッチに付いたのがピッタシ昼飯時だった訳です。
したらば・・・カフェって言うの? 昔で言う喫茶店の今風に洒落たのが有りまして、そこには若いお母さんから中年のオバちゃんから婆様からガキまで・・・まっ、オヤジも居ましたけど・・・随分な人が居た訳です。
しかし、まっ、来ちまった物は仕方が無い、で、300円で入場券を買い求めて中に入った訳です。
アレです・・・美術館と言うのは無駄に広い空間なんでありますなぁ~・・・やっぱしアートと言いますか芸術と言う物は「無駄」や「無意味」と関わりが深いと思っている私に隙はないなと思いましたよ。
で、夢二を見に行ったと言えばそうなんですが、この際ですから常設展示物もしっかりと見た訳です。
いや、ハッキリ言って常設の油絵などの方が私としては良かったなぁ~・・・まっ、展示してある画家の名前も作品名も覚えちゃい無いし、心ある人は鉛筆借りてメモってましたけど、私はそこまで思い入れは無いんでそん時だけ感激すれば十分です、と,言う事ですっかり忘れちまいましたが。
ナント申しましょうか・・・私は絵を見ていて涙が出そうになっちまうんですよ。
いや、悲しみや怨念や苦しみや、下手したら憎しみとか妬みとか、ナンとも言えない作者の重い気持ちとでも言いましょうか、錯覚なのかもしれませんが、そんな物ばかりを感じてしまう訳です。
ナンなんですかねぇ~? そんなに思い詰めて書いてる人ばかりじゃないと思うんで、何故に絵を見てると息苦しくなったり泣きたくなってしまうのか、分からないんですが。
ホントに、作者の名前を微かに知っている程度の物から、ああ、これかぁ~、知ってるわぁ、と言う物や、間違ったらゴメンなさい、でも、多分初対面ですよね、と、言う物まで・・・兎に角、有名無名に関わらず、アソコに展示されているクラスの絵になると、画面からナニかカニかの「念」がで居るな、と,感じちまう訳です。
で、極稀に、何もおかしい事はかいていないのに、見ていると笑いたくなっちまう物も有る訳です。
そうなると、やっぱし,オラが感じているのは作者の製作過程の心理的な物とか、作品に託したと言うか込めたと言うか・・・やっぱし「念」としか言いようが無いモノを感じるんじゃないかと思うんですがねぇ。
で、無教養な変態オヤジでありますから絵の事なんて何も分からないでみている訳でして、ンじゃぁナニを見て楽しいのかと言いますと「間」であります。
具体的に言うと、描いてある物と隙間の割合とでもいいましようか・・・やっぱし「間」としか言えないんだけど、それが写真にも同じ物が有るんだよなぁ~・・・と,勝手に思い込んでみている訳であります。
で、好きだなぁ~と思うには確かな「間」が在ると言いますか、全部絵具が塗られて隙間なんか無いんだけれども、それでも、主題と思しく描かれた物と、背景なんだろうな、と見える物には対比される「間」が存在していると見える訳です。
なので私は絵を見ていると言うよりも、色の組み合わせやら、それらが醸し出す「間」と言いますか、描かれた物の先にある見えない「空」を見るみたいな・・・分からないよね、この説明じゃ。
で、宮城県美術館の常設展示の絵達は、どれもこれも大好きになっちまいました。
平日に行って、日がな一日眺めて対話してみたいと思う程であります。
さて、その次に見たのが、夢二に影響を与えたと言う、W・カンディンスキーですか?
まっ、殆ど興味がわかなかったと言うのが正直な所でして、他にも洋画家の作品が沢山有ったんですが、ハッキリ言って何も感じませんでした。
洋画家の作品に何も感じない理由は大体分かるんであります・・・多分、絵は語りかけて来てると思うんですが、何分にも言葉がわからないんで・・・と,言う事では無いと思います。
恐らく、宗教観の違いから来る物の見方の違いじゃないかと思う訳です・・・要するに、感覚の違いが在り過ぎて入り込めない入って来ない、みたいな。
描かれている題材も宗教観の漂う物が結構多くて、オラけっこう仏教徒してるんで、バテレンの物の見方は馴染まないんだなと思いました。
さて、いよいよ竹久夢二なんですが・・・うん、ハッキリ言ってドーでも良いと言いますか、ナンと言いましょうか・・・上手く言えないんですけれども、商業絵画とか言ったら怒られますかね。
しかし、夢二が描く女性は好きであります・・・ナント申しましょうか、触れなば落ちん、と言う危うい色気とでも申しましょうか・・・そんな物を感じる作品群が在りました。
で、晩年の作品に、婆様と言いますか、色気の抜けた年代の女性が数点有ったんですけれども、それって、やっぱし自分の歳と呼応したと言う意味ナンでありましょうか? なんて所を面白いと思って見た訳ですが。
しかし、夢二の作品にも確かな「間」は厳然として存在している訳で、やっぱし,目で見て何かを感じさせる物には、確かな「間」があるのは間違い無さそうだ・・・しかし、それがどんな物なのかは未だ掴み切れ居ない・・・と、まぁ,1時間と20分で全部見終わっちまいまして・・・そして、さっさと家に戻ってコーヒーなど飲みながら感想をしたためている訳でありました。
いや、夢二をくさしたからって呆れなさんな、怒りなさんな、馬鹿なオヤジの戯れ言ですから。
で、早い昼飯を食ってからで掛けたんで、アッチに付いたのがピッタシ昼飯時だった訳です。
したらば・・・カフェって言うの? 昔で言う喫茶店の今風に洒落たのが有りまして、そこには若いお母さんから中年のオバちゃんから婆様からガキまで・・・まっ、オヤジも居ましたけど・・・随分な人が居た訳です。
しかし、まっ、来ちまった物は仕方が無い、で、300円で入場券を買い求めて中に入った訳です。
アレです・・・美術館と言うのは無駄に広い空間なんでありますなぁ~・・・やっぱしアートと言いますか芸術と言う物は「無駄」や「無意味」と関わりが深いと思っている私に隙はないなと思いましたよ。
で、夢二を見に行ったと言えばそうなんですが、この際ですから常設展示物もしっかりと見た訳です。
いや、ハッキリ言って常設の油絵などの方が私としては良かったなぁ~・・・まっ、展示してある画家の名前も作品名も覚えちゃい無いし、心ある人は鉛筆借りてメモってましたけど、私はそこまで思い入れは無いんでそん時だけ感激すれば十分です、と,言う事ですっかり忘れちまいましたが。
ナント申しましょうか・・・私は絵を見ていて涙が出そうになっちまうんですよ。
いや、悲しみや怨念や苦しみや、下手したら憎しみとか妬みとか、ナンとも言えない作者の重い気持ちとでも言いましょうか、錯覚なのかもしれませんが、そんな物ばかりを感じてしまう訳です。
ナンなんですかねぇ~? そんなに思い詰めて書いてる人ばかりじゃないと思うんで、何故に絵を見てると息苦しくなったり泣きたくなってしまうのか、分からないんですが。
ホントに、作者の名前を微かに知っている程度の物から、ああ、これかぁ~、知ってるわぁ、と言う物や、間違ったらゴメンなさい、でも、多分初対面ですよね、と、言う物まで・・・兎に角、有名無名に関わらず、アソコに展示されているクラスの絵になると、画面からナニかカニかの「念」がで居るな、と,感じちまう訳です。
で、極稀に、何もおかしい事はかいていないのに、見ていると笑いたくなっちまう物も有る訳です。
そうなると、やっぱし,オラが感じているのは作者の製作過程の心理的な物とか、作品に託したと言うか込めたと言うか・・・やっぱし「念」としか言いようが無いモノを感じるんじゃないかと思うんですがねぇ。
で、無教養な変態オヤジでありますから絵の事なんて何も分からないでみている訳でして、ンじゃぁナニを見て楽しいのかと言いますと「間」であります。
具体的に言うと、描いてある物と隙間の割合とでもいいましようか・・・やっぱし「間」としか言えないんだけど、それが写真にも同じ物が有るんだよなぁ~・・・と,勝手に思い込んでみている訳であります。
で、好きだなぁ~と思うには確かな「間」が在ると言いますか、全部絵具が塗られて隙間なんか無いんだけれども、それでも、主題と思しく描かれた物と、背景なんだろうな、と見える物には対比される「間」が存在していると見える訳です。
なので私は絵を見ていると言うよりも、色の組み合わせやら、それらが醸し出す「間」と言いますか、描かれた物の先にある見えない「空」を見るみたいな・・・分からないよね、この説明じゃ。
で、宮城県美術館の常設展示の絵達は、どれもこれも大好きになっちまいました。
平日に行って、日がな一日眺めて対話してみたいと思う程であります。
さて、その次に見たのが、夢二に影響を与えたと言う、W・カンディンスキーですか?
まっ、殆ど興味がわかなかったと言うのが正直な所でして、他にも洋画家の作品が沢山有ったんですが、ハッキリ言って何も感じませんでした。
洋画家の作品に何も感じない理由は大体分かるんであります・・・多分、絵は語りかけて来てると思うんですが、何分にも言葉がわからないんで・・・と,言う事では無いと思います。
恐らく、宗教観の違いから来る物の見方の違いじゃないかと思う訳です・・・要するに、感覚の違いが在り過ぎて入り込めない入って来ない、みたいな。
描かれている題材も宗教観の漂う物が結構多くて、オラけっこう仏教徒してるんで、バテレンの物の見方は馴染まないんだなと思いました。
さて、いよいよ竹久夢二なんですが・・・うん、ハッキリ言ってドーでも良いと言いますか、ナンと言いましょうか・・・上手く言えないんですけれども、商業絵画とか言ったら怒られますかね。
しかし、夢二が描く女性は好きであります・・・ナント申しましょうか、触れなば落ちん、と言う危うい色気とでも申しましょうか・・・そんな物を感じる作品群が在りました。
で、晩年の作品に、婆様と言いますか、色気の抜けた年代の女性が数点有ったんですけれども、それって、やっぱし自分の歳と呼応したと言う意味ナンでありましょうか? なんて所を面白いと思って見た訳ですが。
しかし、夢二の作品にも確かな「間」は厳然として存在している訳で、やっぱし,目で見て何かを感じさせる物には、確かな「間」があるのは間違い無さそうだ・・・しかし、それがどんな物なのかは未だ掴み切れ居ない・・・と、まぁ,1時間と20分で全部見終わっちまいまして・・・そして、さっさと家に戻ってコーヒーなど飲みながら感想をしたためている訳でありました。
いや、夢二をくさしたからって呆れなさんな、怒りなさんな、馬鹿なオヤジの戯れ言ですから。