じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

鰯玉と人間玉

2014-05-05 17:49:58 | 思想信条仏教宗教


いや、このブログのCMで出て来た絵ナンですけど,オヤジの雰囲気が良いのでパクっちまいました。

しかし、パクるって、いつからこんな用法に転用されたんですかね?
私が御幼少の砌には、パクられる、って,お巡りさんに捕まる事だったんですけどね。
それが知らない間に盗む、とか,盗用とか、そっち方面の意味合いが強くなっちまいましたもんね。

パクる・・・捕縛の縛(バク)るから来たと思うんですが、如何でありましょうか?

鬼兵が・・・大人しく縛に就けぇぃ,とか言ってましたもんで、たぶん間違い無いと思うんですがねぇ・・・まっ、ドーでも良い事ですけど。

本日の午前中に「イワシ玉理論」と言うのを思考していた訳なんですが、モウ後一行で終わると言う所でSafariが凍っちまいまして強制終了して消えちまった訳です。
同じ事って書けないもんですよね・・・思考って、展開して広がるもんじゃありませんか?
断片を思い出しても繋が悪くて意味不明と言いますか、論調も違っちまうし・・・良い感じだったんだがなぁ~ホント、近来稀に見る正論だったと思うんですが・・・逃がした魚ですか?

やってみますかね・・・断片を思い出しつつ、軽く。

イワシ玉と言うのがある訳です。
何億匹と言うイワシが群れになって玉を作る物であります。

鰯は,読んで字の如く、弱い魚なんで群れている訳です。
どこか人間社会に似ているな、と,思うところから、鰯玉理論は思いつきました。

人間社会と言うのは、やっぱし群れを為さ無いと都合が悪いんで、社会と言う「人間玉」を形成すると思う訳です。

で、鰯玉は、理屈が在って出来る訳ではなく、本能と言いますか、遺伝子と言いますか、自然の摂理で纏まるんだろうと思う訳です。

で、人間玉と言う社会は、果たしてドーなのかな? と、思うと、自然に形成されていたのは遠い昔の事であって、今は、私の考えるところでは「ああすればこうなる理論」と言う、都市化の理論に則って人間玉は形成されていると思う訳です。

さて、ここなんであります。
人間は、社会を形成して人間玉として寄り集まらないと生きていけないんでありますが、しかし、玉の形成が作為的と言いますか、「ああすればこうなる理論」で作られちまっている・・・ここが味噌と言いますか、肝なんだろうと思う訳です。

人間玉は、人間本来が持っている自然の本能で集まるのではなく、玉に寄り添っていないと生きていけないから、そうしないと社会から弾き出されてしまうから、なので、集まる方は無意識なんでありますが、結果は、社会を形成してそこに人間玉が作られるように仕向けた力の作為だと思う訳です。

さて、鰯玉の特徴として、中心部で玉を引っ張る鰯程強い鰯で、玉の辺縁になると、泳力の弱い鰯がやっと着いていると言う感じな訳であります。

で、鰯玉の周りには、カツオだのギンガメアジだのツムブリだの、と,捕食魚が狙っている訳でして、群れから外れたやつを拾って喰う訳であります。

また、元気の良いカツオなどは鰯玉に突撃して群れを食い散らしていく訳ですが、そんな時、鰯玉の中心は辺縁の鰯が食われている間に向きを変え、難を逃れて生き延びる訳であります。

自然の摂理と言いますか、掟も厳しいもんであります。
弱い物から喰われていく、であります。

しかし、それは必然なんで、強い子孫を残すためには、弱い物から喰われる淘汰の先に強い種が残る訳であります。

こうして見ると生存競争は鰯玉も人間玉も同じに見えるんですけれども、しかし、それは見掛だけの事じゃないかと思う訳です。

鰯玉は、自然の掟が役割を決める公平な社会だと思う訳です。
そうする事によって鰯と言う種が生き伸びるのでありますから。

さて、人間社会の人間玉はどうでありましょうか?

鰯玉は海と言う社会で生きている訳であります。
海を支配するのは自然の摂理なんでありますが、人間玉が泳ぐ海の社会は、自然の摂理に支配された公平なところでありましょうか?

人間社会の,しかも,人間玉が大きく形成される都市は、何処かの都市計画やら未来の設計なんて事を考える、同じ人間の頭脳から生まれた産物な訳であります。

と、言う事は、誰かの能の中の創造の海でその他大勢の人は人間玉を形成している訳であります。

世界中には相容れないで対立する宗教が数多ある訳です。
それほど人に因って思考の方向も質も違うのに、特定の人達が考えだした「ああすればこうなる」と言う思いで、社会は組み立てられ、そこに人間玉は形成させられる訳であります。

始めの方で書きましたが、人間玉が出来るのは、生物としての生存の条件をより良く、と,選択していったら,やっぱし群れた方が良いな、と、自然に出来上がった本能的な物だと思うのであります。

なので、群れる性質を持つ人間は、与えられた社会が自然と掛け離れた作為的な海であったとしても、他では群れが作れないので仕方なく「ああすればこうなる理論」にしたがって作られた海で生息する訳です。

で、この事は踏み込むと止めどないんで軽く流しますが、社会を作る「ああすればこうなる理論」の原理は、全く持って一般的な人間がより良い人間玉が形成出来るように、などとは仕組まれていない訳です。

人間玉も見掛けは鰯玉と同様の競争に晒されているように見えるんですが、その原理は自然の摂理ではなく、甚だしく作為的な物で、人間玉の中での個人の位置も、作為的に決まってしまう物だと思う訳です。

さて、「ああすればこうなる理論」で擬似的海の社会を作って人間玉を形成させる目的は何かと考えると、簡単に言えば「富」でありまして、もっとハッキリ言えば「銭」であります。

逃げられない社会と言う人口の海に人間玉を形成させ、それを作った側は、人間玉から溢れて来る弱った人間を補食するのであります。

鰯玉もそうでありますが、群れは新陳代謝が激しく、中心の鰯がいつまでもそこに居る訳ではなく、常に入れ替わっており、少し前まで群れを引っ張っていた鰯も何れは補食されるのであります。
その事は、擬似的海の社会で形成された人間玉も同様であります。

擬似的な海に人間玉を作らせるのも人間なんですが、その人達は、人間玉を喰って、肥えるのであります。

美味しく喰うためには人間玉にも、ある程度育ってもらわなければなら無いので「餌」は巻かれる訳であります。
それが社会にある、仕事であります。
ありとあらゆる仕事は、そこから上がる利益の多価の大小に関わらず、擬似的海に撒かれた「餌」なのであります。

餌はふんだんに巻かれる事も在るし、人間玉が増え過ぎたと思えば制御されたりもする訳ですが、それは全て「ああすればこうなる理論」の延長線上でありまして、擬似的海の社会を作る人達の意のままな訳であります。

さて、ここまで私は鰯玉と人間玉を使って、自然の社会と不自然な社会を語ったつもりなんですが、これは,社会の構造を批判しているのでは在りません。

簡単に言えば、為政者達が社会と言う擬似的な海を作り、そこに人間が集まるように仕向け、労働から生まれる価値を搾取している構図を述べ居るのでは在りません。

ンじゃぁ、ナニを宣いたかったのかと申しますれば、私個人に限って言いますと、私は本能が強いのか野生が残っているのか、社会と言う、擬似的な海、不自然な海に違和感を感じると言う事なんであのます。

社会に違和感を感じるのは何故なのかと考えていた訳ですが、それは,擬似的な海は自分の精神的な部分と相容れないと言う事な訳であります。

それは、自然の摂理を無視した「ああすればこうなる理論」と言う、誰か他の人の脳味噌の中で生まれた不自然さを感じてしまうからなのだと思う訳です。

と、言う事で、他人様が作った記事で気な海と言う社会は、私に取っては偽物でしかないわけで、泳いでいても息苦しいだけ,と言う事であります。

序でに言えば、私は人間玉から逸脱して生きる事を選んだ訳で、ですから,もう餌は貰えない訳であります。

しかし、自分の精神的な部分を真っ当に保ちたいと思うと、社会から距離を置き、本物の自然に少しでも多く触れて生きる・・・それが基地外になら無い最良の方策か、なんて事を言いたかった訳です、が、支離滅裂過ぎて判りませんか?

そうダベねぇ~・・・書いた本人も面倒で嫌になって止めるんですもん。

やっぱし全然違う方向に逝っちまった・・・最後、無理くり気持ちの問題にすり替えましたが、過程の話しは経済話しと言いますか、いつも宣っている「国家とは何か」の焼き直しですもんね。

いや、もしも最後まで読んでくれた人が今したら・・・お疲れさまでした,と。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムーミン、必要かも

2014-05-05 14:03:52 | 日記的雑談
独りでカフェに入ると空いた席にムーミンを座らせてくれると言うんだが、それって、余計に辛く無いか?
周囲の人に歴然と、独りなんだ、と,判らせる信号になりはしないか?

連れなしの客のテーブルにムーミンを座らせる

いや、そもそも独りって寂しいと決めつけるのを止めて欲しいんだが・・・そう言うの、私なんかは返って傷つくんですけど。

やっぱし、いい歳して独りでお茶飲んじゃダメですか? 友達少ないって、欠陥ですか?

知り合いは増えたけど、友達ができない

ナニをフザケタ事を言っているんだ・・・馬鹿野郎か? いいか、友達が出来ないって、それは困った事なのか? 問題なのか? こう言っちゃぁナニなんだが、知り合いが増えているだけいいじゃネェか、ええっ?

自慢じゃないが、無職になってからこっち、知り合いどころか、友達だと思っていた奴らからも忘れられた存在の私の立場はドーなるんだ、ええっ?

まっ、書いている勢い程には気にもして居ないんですけれどもね。
いや、私の性格で友達を作ろうと言うのはダメなんであります・・・友達もろとも不幸になっちまうと言いますか、まっ、相手に迷惑かけるんでそう言う関係は作らない方が良いと自覚している訳です。

まず、私程の明晰な頭脳を持っちまうと世の中全部見えちまう訳です・・・なので、会話をしても完全に迎合体制を敷かない事には全面的に説教型になっちまって困っちまう訳であります。

私の口癖、特に酔っぱらうと・・・「いや違う!!!」であります。
これをやられて腹が立たない人と言うのは中々居ない訳で、友達関係なんて維持出来る訳が無い、と、自信を持って言い切れる訳であります。

いや、私の性格に問題がある訳ではないのですよ・・・世の中が理不尽と言いますか、間違っている訳なんですが、世間一般人はそこに気が付かずに常識と言う囲いの中で安穏としつつ,判ったような事を宣う訳です・・・それを看過するとすれば、私は口を開く事が出来ずに俯くしか無い訳であります。

だったら,友達ナンカ居なくてもいいもん・・・オラ、寂しくなんか無いもん、と言う方向へ行くのが必然だと思う訳です。

まっ、マジで言うと、友達って、ほとんど居無いし、知り合いだって少ないし、それで人生ドーなのよ、と問われると・・・馴れちまいました、と言う感じでありますか?

でもね、知り合いの増やし方も,友達の作り方も知っているし、サービス業やら営業もこなしたんで、人付き合いの何たるかは適当に知ってもいるんですね。

それでもね、やっぱし性格ってどうしようも無くて、折れるとか、迎合とか妥協とか、そう言う感覚が大嫌いなんでダメなんですね。

で、上記記事に「相手を受け入れよう」みたいな事が書かれている訳ですが、書くは易し行うは難し、だと思う訳です。
受け入れるって言うとなんか心広く、暖かみを持って・・・ですか?
それの限度って、ドンなモンなんですかねぇ?

だって、相手のある事だから、画一的な物差しでは計り切れませんね?
相手に合わせて自分の懐の広さを調節するんですかねぇ? それって、妥協とか迎合と何処が違うのか?

私は思うんですがね・・・友達って、特定のステージと言いますか「場」と言いますか、共通の立場と言うのが前提なんじゃないかと思う訳です。

いや、趣味が一緒とか、同じ映画を見て共感出来る感性とか、そんな程度の物じゃ無くて、某かの目的のある行動に立脚した「場」を共有した時に成り立つのが友達だと思うんであります。

なので、漠然と気の会う友達とか、そう言う人が板としても、きっと過去に同じ目的で場を共有した時間が有ると思う訳です・・・ガキの頃からの同級生とか、ね。

なので、例えば、某かのサークルなんかに顔を出して知り合いは出来ても、友達にはならないと言うのは、共有する場への思い入れ、と言いますか、熱の温度差とでも言いますか、そう言うのがあるような気がする訳です。

私の友人と言うのは少ないんですが、その人達との付き合いは、かく遊びのステージ事な訳です。

ダイビングの人とはそれだけ。
スキーの人とはスキーだけ。
山登りの人は山だけ。
クライミングの人はクライミングだけ。
スケベの方面はアイツだけ、など,ですね。

使い分けしているようでアレなんですけれども、しかし、スケベが趣味のアイツを他の趣味の人に紹介しても成り立ちませんもん。
以下同文、でして,クロスオーバーは無い訳です。

で、多趣味なんで極に、ダイビングとクライミングが重なったり、スキーの人と山が重なったりと言うのがある訳ですが,それって、場が重なるから成り立つ訳で、やっぱし肝は「場」の共有だと思う訳です。

しかし、自分の趣味も変化しますし、環境や生活の形も変化する訳であります。
それは、自分も然りでありますが、友達の方にも変化はある訳です。

と、なったらドーでありましょうか?
友達との付き合いって、千変万化、形も無ければ質も同一なんてあり得ないと思う訳です。

その昔、激しく熱を燃やしたダイビングからは身を引いている私は、そっち方面の人との縁は今は薄いんであります。
しかし、やっぱし,一時期寝食を共にして過ごした時期を通ってますんで、一年ぶりに会っても「おぉー,やぁー」であります。

トライアスロン仲間なんて、現役退いて20年近くなる訳ですが,未だ呑み友達と言いますか、年に何回か集まって昔話に花を咲かせる訳であります。

友達って、言葉で語っちまうとアレなんですけど、自分が思っていれば、10年会わなくても友達だし、毎日酒を飲み歩くからと言って、そうじゃ無いかもしれない・・・何でも有りなんじゃないんですかね?

知り合いも少なく、友達なんてこっちが一方的にそうだと思っているだけの人しか居ない私ですが・・・これだけは言えます・・・自分から声を掛けないと忘れられます。

待っていても誰も声は掛けてくれません・・・黙っていれば忘れ去られるだけであります・・・これ、真理。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そばを食って来た

2014-05-05 12:57:24 | 日記的雑談
書き込んでいた画面が凍っちまって意気消沈・・・憂さ晴らしと厄払いに天笊を喰いに出掛けてみました。

と、申しましても、都会の人には山の中の素敵な古民家の蕎麦屋も,オラに言わせれば、裏山の先の年寄りがやっている蕎麦屋・・・もっと悪く言えば、過疎対策で補助金出ている蕎麦屋、と言うアレなんですが・・・ああ、こう言う余計な事をかくから読者が居なくなるし、誰も目に留めてくれなくなるんだよな・・・ホントの事でも書いちゃダメなんだよな。

例えば・・・大倉ダム湖畔の「蔵人」と言う蕎麦屋は、元は愛子地区の庄屋の家系の古民家を,過疎で廃校になった大倉中学校の跡地に移築し・・・云々。

蕎麦は、大倉地区に流れる冷たい清流でキリリと締められ、小気味良い歯応えを残しつつも喉越し滑らかと言う、素朴な田舎蕎麦で・・・云々。

山菜や山村の野菜を使った天ぷらは、まず目で楽しませようと紅葉の天ぷらが趣を添え、旬の山菜のコシアブラと,蕗の薹の苦みが蕎麦つゆの甘みを引き立てている・・・云々。

などのように書けば良いのだろうけれども、しかし、現実はそんな甘いもんじゃ無く、たしか消費税の値上げ前は税込みで900円だったはずの天笊が、切り上げするにも程があるだろうと言う、1000円になっていたりして、ドー言うつもりナンダおいっ!!!と言いたい部分が無くも無い訳であります。

さて、肝心の蕎麦なんですが、始めた頃はシロートだったとは思えない出来映えでして・・・いや、だから,決して手打ち蕎麦ナンテ事は何処にも書いてはいない訳でして、普通に何処かの製麺屋に頼んで打って貰っている蕎麦でありましょう。
けれども、ナンなんでしょうか? やっぱし水なのかなぁ? 蕎麦に締りが在ると言いますか、まっ、味よりも歯応えと言いますか、舌触りと言いますか・・・そう言う蕎麦です。

いや、刻み海苔を乗せるの止めた方が良いな・・・業務用の袋の物なんでしょうけど,香りも何も抜けちまった代物で、かえって風味を損ないます。

で、蕎麦よりも天ぷら狙いでして、私は旬の山菜の天ぷらを食うのが目的で、蕎麦はオマケみたいなもんです。

まっ、書き連ねれば・・・薩摩芋、カボチャ、椎茸、コシアブラ、蕗の薹、紅葉・・・と、結構な種類と量であります。

本日はやっぱしコシアブラですかねぇ~? 何の味も特徴も無い、強いて言えば歯触りだけが命みたいな、存在感の無さが好きであります。

で、この蕎麦屋がシロートである事を垣間見せるのが、天ぷらを出しといて天つゆは無い、と言う事でありましょうか?
そして、手打ちでもないんで、香り高いそば湯など望んでもナニなんでありましょう、そば湯も出ません。

と、まぁ、わざわざ遠くから出掛けて来て感激とともに喰えばそこそこ行けるもんだと思うんで,お近くへお出での節は是非皆様も喰ってみてください。

あっ、秋の茸シーズンなんてのも捨て難いかもよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嫌になったぞぉ~

2014-05-05 10:22:17 | 日記的雑談
これは、違うMacから書き込んでいるんだが・・・朝から3時間かかって書いた物が、あっちのパソコンの画面で固まっている。

自分としては近来稀に見る秀作だと思ったんだが・・・豆に保存しながらと、気をつけているんだが、乗っている時程走っちまってそんな事は忘れるもんです。

ショックだなぁ~・・・直木賞狙う入り口だったんだがなぁ。

放っておいたら機嫌直すだろうか?

糞バカヤローがぁ・・・泣きたいきぶん。

ダメだ、思い出して新たに書く気力も起きない程に打ち拉がれている。

しょうがねぇなぁ~・・・天ざるでも喰いに行って気分転換だな。

しかし、今日は寒いんで、温かい肉そばなども良いか? 

あっ、こどもの日か? 混むな・・・どん兵衛でも喰いますか?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする