いや、奇を衒った表題ですけど私の今の心境と言いますか・・・また面倒臭い事を考えていた訳であります。
発端は・・・此の記事でありました・・・↓
自民・西田昌司参院議員「私を形作った西部邁さん」 戦後の偽善の根幹、明確に整理…雷にうたれた思い
ナンと申しましょうか、私も西部邁には随分影響を受けた訳であります。
で、一番の影響は・・・考える事、でありました。
私が西部邁の文章に触れたのは平成4年に買った文芸春秋から出された「日本の論点」の中の記事でありました。
それは・・・直接民衆制の未来「雰囲気」に屈する民衆政治の醜悪さ・・・と言う表題の記事でありました。
中身は今読んでも少しも陳腐では無く、ウルトラ・デモクラシー・・・これが先進各国の政治を寝腐れにしている、と語っているんですが、今もそのまま当てはまると思います。
また、デモクラシーは民主主義ではなく民衆制であると言い・・・もはや民衆制は「雰囲気の支配」に達した・・・は、特に小泉劇場以後の日本そのままであります。
で、分からないのは政治の事や論壇の人達の話では無く「考える事の必用」が分からなくなっちまったのであります。
いや、まだ年端も行かない頃に左巻きに気触れて以後ずっと社会に興味を持って考えて来たんですが西部邁ほどの能力を持たない自分の思考は屁の突っ張りにもならない訳です。
まっ、そもそもが的外れであると言うのも否めないんでありますが、分からなくなったのは中身の事では無く考える事そのもの・・・行為そのものに意味があるのかどうか、なんであります。
いや、自分の中でさえ無意味だと分かっている事ではありますが、無関心になり思考しなくなったらドーなっちまうんだろう?と、一種の恐怖さえ感じる訳であります。
社会的に何の影響力も無い一市民・・・草の根的場末の活動さえもしていない凡夫ですけど、社会を考え監視し続けなければ、と思うんであります。
しかし・・・
・・・その西部さんが自裁されました。実は、20年前から西部さんの考えは聞いていました。生きるということは死ぬこととセットですから、きれいに死んだからこそよく生きたともいえる。なかなかできないことですがね。ちょっと寂しい気はするけれども、悲しみはありません。一言でいえば「西部さん、お見事! 見事な人生でした」。・・・
で、あの西部さんでさえ最後は考える事を止めてしまった訳ですから。
私に考える事を教えた人が事情はナンであれ止めちまった、となると分からなくなっちまうのであります。
そしてもう一つ厄介な事なんですが・・・説明すると長くなるので端折りますが、南無阿弥陀仏を唱える者とすると全ての面倒は仏様に下駄を預けちまえば良い訳でして考える必用は無い訳であります。
ドーなんでしょうねぇ?
人畜無害の趣味だから、好きにしろ、でありましょうか?
・・・へっ? 殆ど意味不明でありましたか?
そーでしょうとも・・・本人もほとんど分かって無いんですから。
発端は・・・此の記事でありました・・・↓
自民・西田昌司参院議員「私を形作った西部邁さん」 戦後の偽善の根幹、明確に整理…雷にうたれた思い
ナンと申しましょうか、私も西部邁には随分影響を受けた訳であります。
で、一番の影響は・・・考える事、でありました。
私が西部邁の文章に触れたのは平成4年に買った文芸春秋から出された「日本の論点」の中の記事でありました。
それは・・・直接民衆制の未来「雰囲気」に屈する民衆政治の醜悪さ・・・と言う表題の記事でありました。
中身は今読んでも少しも陳腐では無く、ウルトラ・デモクラシー・・・これが先進各国の政治を寝腐れにしている、と語っているんですが、今もそのまま当てはまると思います。
また、デモクラシーは民主主義ではなく民衆制であると言い・・・もはや民衆制は「雰囲気の支配」に達した・・・は、特に小泉劇場以後の日本そのままであります。
で、分からないのは政治の事や論壇の人達の話では無く「考える事の必用」が分からなくなっちまったのであります。
いや、まだ年端も行かない頃に左巻きに気触れて以後ずっと社会に興味を持って考えて来たんですが西部邁ほどの能力を持たない自分の思考は屁の突っ張りにもならない訳です。
まっ、そもそもが的外れであると言うのも否めないんでありますが、分からなくなったのは中身の事では無く考える事そのもの・・・行為そのものに意味があるのかどうか、なんであります。
いや、自分の中でさえ無意味だと分かっている事ではありますが、無関心になり思考しなくなったらドーなっちまうんだろう?と、一種の恐怖さえ感じる訳であります。
社会的に何の影響力も無い一市民・・・草の根的場末の活動さえもしていない凡夫ですけど、社会を考え監視し続けなければ、と思うんであります。
しかし・・・
・・・その西部さんが自裁されました。実は、20年前から西部さんの考えは聞いていました。生きるということは死ぬこととセットですから、きれいに死んだからこそよく生きたともいえる。なかなかできないことですがね。ちょっと寂しい気はするけれども、悲しみはありません。一言でいえば「西部さん、お見事! 見事な人生でした」。・・・
で、あの西部さんでさえ最後は考える事を止めてしまった訳ですから。
私に考える事を教えた人が事情はナンであれ止めちまった、となると分からなくなっちまうのであります。
そしてもう一つ厄介な事なんですが・・・説明すると長くなるので端折りますが、南無阿弥陀仏を唱える者とすると全ての面倒は仏様に下駄を預けちまえば良い訳でして考える必用は無い訳であります。
ドーなんでしょうねぇ?
人畜無害の趣味だから、好きにしろ、でありましょうか?
・・・へっ? 殆ど意味不明でありましたか?
そーでしょうとも・・・本人もほとんど分かって無いんですから。